羽化 短文




 水色とグレーの混ざった、曖昧な曇り空。
 見渡す限りの水平線、鈍色の海。
 八月。夏の終わりの砂浜には、人影がほとんどなかった。

 ちらほらと点在する海の家ですら、開店休業のような有様だ。
 閑散としている浜辺をよそに、海鳥が群れをなして遠くの空を飛んでいる。
 寄せては返す波の音と、鳥たちの騒ぐ声のほかには音もなく、茫々と寂しい風景がどこまでも続く。


 スニーカーを脱ぎ捨て、白く泡立つ波に素足を浸しながら、少年は波打ち際を歩く。
 カイジは少年のすこし後ろを歩きながら、透き通るようなその後ろ姿を見つめていた。

 南風が、白いシャツをはためかせている。
 まるで翅のようだと思った。わずかな風にも容易くなびく、うすくやわらかい翅。

 そう思って見てみると、少年の姿は、羽化したばかりの昆虫に似ているような気がした。
 繊細な線で縁取られたその姿はつややかに白く、危うい美しさを秘めている。
 脱ぎ捨てた殻のそばで、静かに息を潜めて飛び立つときを待つ、幼体と成体のちょうど境目の、曖昧な存在。


 少年が何者なのか、どこからやってきたのか、カイジは知らなかった。
 非凡な博才を持ち、闇の中に生きる少年と、ギャンブルに脳を灼かれたカイジ。
 とある雀荘でふたりが出会ったのは、偶然であり、必然であった。

 カイジはすぐに少年の才気に心を奪われ、自らその生に関わることを望んだ。
 少年はカイジを拒むことはしなかったが、むろん迎合するようなこともなく、常に一定の距離を保ってカイジの側にいた。

 なにに対しても執着を持たない少年が、ここにいるのはほんの一瞬のことだと、カイジにはよくわかっていた。
 わかっていたけれど、そのことを考えると胸が狭くなったように息苦しくなる。

 大金の賭かった博奕の最中でさえ、少年はときおり、ひどく所在なさげにしていた。
 突如として与えられた世界という玩具の扱い方を、掴みかねて手を拱いているかのようだった。


 虫たちは、さなぎの中で幼体をドロドロに溶かし、成体に再構築するのだという。
 グロテスクで美しい液状の混沌の中でじっと羽化を待ちつづけ、たった今、世界を知り初めたばかりの少年。

 自分はきっと、そのほんの一時を共有できる止まり木に過ぎないのだろうとカイジは思う。
 世界に触れたばかりのやわらかい翅が乾けば、じきに飛び立ってしまう。自分の手の届かない場所へ。

 そのことに虚しさを感じる一方で、少年が羽ばたいていくのを見てみたいとも思う。
 せめぎ合うふたつの気持ちで胸がいっぱいで、だからこんなにも苦しいのだと、カイジはため息をひとつこぼした。

 微かな吐息の音に反応したかのように、少年がふと振り返り、カイジを見た。
「どうして、海になんて誘ったの」
 唐突な質問。だがあらかじめ用意していたかのように、カイジの口からすんなりと答えがこぼれ落ちた。
「見たかったから。お前と」

 嵐の夜にお前を飲み込み吐き出したという、
 さなぎのような混沌の海を。

 潮風にやわらかい髪を弄ばれながら、少年はカイジをじっと見つめ、やがて切れ長の目をゆっくりと細めた。
「……もしかして、口説いてる?」
「バーカ」
 間髪入れずにそう罵れば、少年は愉快そうに喉を鳴らし、また前を向いて波を踏む。
 その後ろ姿がかすかに滲んで、カイジは険しい顔で遥かな水平線へと目を背けたのだった。





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