エピローグ(※18禁)・4






「思い返せば、『ジューンブライド』ってやつだったんだな。あれは」

 窓際で、男はぽつりと呟いた。
 白いピンストライプのスーツと、虎柄のシャツ。
 純白の狐耳と九本のしっぽをもつその男は、ゆったりと窓枠に腰掛けながら、霧雨に濡れる街の風景を見下ろしている。
 道路を挟んで向かい側にある紫陽花の植え込みは、やわらかな雨を受けていきいきと咲き誇っていた。

 雑然としたちいさな部屋には、男ひとりしかいない。
 ーー今の独り言。あいつが聞いてたら、『また余計な言葉を覚えて』なんて、目くじら立てて怒っただろうな。
 騒がしいその様子が容易に想像できて、男は唇を撓めた。


 毎年、梅雨の季節がくると、遠い昔の日々を思い出す。
 今思えば、初めて会った人間の男に『嫁入りさせろ』だなんて、よくもまあそんな頓珍漢なことを言えたもんだと昔の自分に呆れるものの、今はその男が自分の嫁になっているのだから、わからないものだと男は思う。


 想い人と結ばれたあの日から、数えきれない歳月が流れた。
 その間、住む場所が変わったり、いくつかの出会いや別れを経験したりしたけれど、想い人はずっと変わらず、男のそばにいる。


 ときどき、男は昔の自分に、すこしだけ嫉妬する。
 雨の季節に出会い、雨の季節に結ばれるまでの、あのもどかしい片恋の日々。

 若くて未熟で、己の不甲斐なさに歯噛みしたくなることもあったけれど、まだ結ばれる前の初々しい想い人が、隣で泣いたり笑ったり怒ったりしてくれていたあの日々が、いかに貴重だったのか、長い年月を経た今ならわかる。

 もう一度、あの甘酸っぱいような日々に戻ってみたいと思うこともあるけれど、そんなことを口に出せばきっと嫁はむくれるだろうし、なにより、男にとって最愛の存在は、今この時を共に過ごす、たったのひとりに他ならないのだ。

 その、最愛の気配が近づいてくるのを敏感に感じ取り、男の狐耳がぴくりと動く。
 白い瞼を閉じ、すこしずつ部屋に迫ってくる気配を追う男の表情は、ひどく穏やかで、愉しげだった。

 ガチャリと玄関のドアの開く音がして、男はゆっくりと目を開く。
 聞き慣れた足音が徐々に近づいてきて、やがて静かに開かれたドアの向こう。
 少年の頃に戻ったような笑顔で、男は笑いかけた。

「おかえり、カイジ」





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