bittersweet カイジさんが単純乙女


 意地になっている。
 カイジは自分のことを、冷静にそう捉えた。
 しかし、だからといって、態度を改められるわけでもない。

 ビールのプルタブを上げながら、部屋に上げた男の様子をちらりと盗み見る。
 上着を脱いでいる横顔は、感情を読み取れないが機嫌を損ねた風でもない。じっと注視していると、目が合いそうになりカイジは慌てて顔を背けた。


 ほぼ半年ぶりに見る恋人の顔だ。気を抜くと、視線を吸い寄せられてしまう。
 今日までの間、たびたび破られてきた逢瀬の約束。
 自分は怒っているのだから、あからさまに無愛想な態度で赤木を迎え入れたのだから、うかうかと見惚れてしまうわけにはいかないと、半ば意地になって身を固くしていた。


 しかし意識すまいとすればするほど、逆に赤木を感じ取る感覚は鋭敏になっていく。
 男の動作にあわせて生じる空気の動き、衣擦れの音。
 自分と同じタバコの匂いと、心が波打つような赤木の匂い。
 すぐ傍に男が座る気配があって、カイジは無意識に息を詰めた。
 
「……カイジ」
 久しぶりに声を聞いたせいか、静かな低い声が自分の名前をなぞるだけで、体の芯が震えるような心地がする。
 ビールの缶を握る手に思わず力が籠もり、それでも、カイジは頑なに赤木の方を見ない。

 視線を感じる。赤木に見られている側の、半身だけ熱が上がっているように感じる。
 じりじりと炙られ、生殺しにされているようだ。自分の部屋だというのに、ここから逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。
 ふっ、と軽く息をつく音。それだけで、カイジが叱られた犬のように身を竦めそうになっていると、長い髪が突然、ぐっと引っ張られた。

 強制的に横向かされた唇に、暴力的な荒々しさで男の唇が重なってくる。
 声を上げる隙もなく、口内になにかが押し込まれる。見開いた目を白黒させ、カイジは舌で押し返そうとするが、巧みに掬い取られて逆に押し付けられる。
 ちいさな塊は、ふたりの舌の温度でやわらかくとろける。どこか男への思慕を髣髴させる、甘くほろ苦い味。
 脳までとろけそうだ。男の舌に誘導されながら、撫でるように口内のものをとろかす。

 やがて前触れなく、卵の殻のように薄い層が破れ、たちまちトロリとした液体が口の中いっぱいに溢れ出す。
 ぱぁっと鼻に抜けて広がる、華やかなアルコールの香り。
 甘苦かった先ほどまでの印象とのギャップに目眩がし、噎せ返りそうになる。流し込まれる唾液ごと飲み込むと、ブランデーの風味が火傷しそうに喉を焼く。
 体の隅々まで痺れるようで、カイジは閉じた瞼を震わせた。男のキスも口移しで食べさせられたものの味も、どちらも凶暴なまでに官能的だった。
 たった一粒の菓子で、泥のように酔わされていくかのようだった。

 与えられたものをすべて飲み込んでしまったあとも、名残惜しくて、カイジはずっと男と舌を絡めていた。
 艶かしい水音が、静かな部屋に絶えず響く。

 やがて、男の唇がそっと離れると、カイジはうっすら目を開いた。
 潤んだ視界の中、細い唾液の糸が赤木と自分を繋ぐのを、絶頂の恍惚に揺蕩っているような表情で眺める。
 
 対照的に、赤木は眉間にくっきりと皺を寄せていた。
 あれだけ強引なキスをした張本人だとは思えないような仏頂面で、濡れたカイジの唇を親指で拭う。
「……こんなもん、よく『うまそう』だなんて思えるよな」
 低い呟きにカイジは目を瞬き、恋人の顔をまじまじと見た。

 高いものを食べ慣れていないカイジでさえ、口に入れた瞬間、高価なものだとわかった。
 芳醇な味わいのブランデーを滑らかなチョコレートで包み込んだ、ボンボンショコラ。

 ずっと前ーー確か、去年の同じ時期のことだったか。
 銀座の有名店の新作チョコレートをテレビで観たときに、つい『うまそう』と呟いたことがある。

 まさか、買ってきてくれたのか。この男が?
 言った当人でさえ忘れていたような、些細な呟きを覚えていて、わざわざ銀座にしかない店のチョコレートを、今日のために。

 食い入るように赤木の顔を見ていると、赤木は睨むようにカイジの顔を見返してくる。
 些細なことでは動じないはずの『神域の男』である。すこぶる不機嫌そうに見えるのは、虫の居所が悪いからではなく、苦手な甘いものを口にしたからだということに、カイジは気がついていた。

 自分は怒っていたのだから、普通にチョコレートを差し出されたとして、素直に口にしなかっただろう。
 だから、あんな手段で強引に、口を開かせたのだ。

 ーー甘いものなんて、ぜんぜん好きじゃない癖に。
 苦虫を噛み潰したような顔で甘みに耐える『神域の男』の姿に、カイジは思わず笑い出しそうになる。
 刺々しかった心が、一秒ごとに、嘘みたいに穏やかになっていくのがわかった。

 赤木のことだ。きっと、こんな単純な心の動きさえも計算づくなのだろうとカイジは思う。
 なにせ、心底惚れきっているのだ。

 思惑通りにまんまと心を緩まされ、たったこれだけのことで、とチョコレートより甘い自分に呆れるカイジだったが、それでもまだ許したわけじゃないと、表情を引き締めた。

「……足りねぇよ、こんなんじゃ。もっとーー」

 わざと、拗ねたように言うと、赤木はため息ついでに苦笑する。
 カイジが欲しがっているものが、キスだけでも、チョコレートだけでもないということが、言葉にせずとも、赤木には伝わったのだろう。

 珍しく、困っているようにも見えるその表情に、カイジはようやく溜飲を下げ、
「……ほら。口、開けろ」
 甘く囁く恋人の言うとおりにしてやって、ふたたび目を閉じたのだった。





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