無題・4





「待って下さいっ……!!」
 桜の舞い散る朧月夜の下、長羅宇の煙管を片手に立ち去ろうとする背中を追いながら、開司は声を掛けた。
 立ち止まり、振り返った男に息を切らしながら追い付き、開司は呼吸を静めながら尋ねる。
「あんた……どうして、此処までしてくれたんだ。こんな……一度顔を合わせただけのおれに……」
 言いながら、開司は震える己が腕に目を落とす。今宵の博奕を終えた今、これが二本とも残っているのは、男のお陰でもあると開司は思っていた。

 男が現れてから、賭場の空気が明らかに変わった。目には見えない機運の流れのようなものが、男の持つ強力な磁場によって自分の方を向いたのが、あの時の開司にはわかった。
 どんな逆風が吹き荒れようとも勝つ心算があったのは確かだが、一歩も退く事が許されない極限のあの状況で、勝利を確たるものにしたのは男の存在だった。
 その場にいる全員が開司を嘲笑う中、自分に賭けてくれる者がいる。あの時、男が自分についてくれたから、開司は勝って、如何様を暴くことが出来たのだ。

 自分達が今まで散々喰い物にされてきたという事実が明るみに出され、当然、周りで勝負の行方を見守っていた者達は黙ってはいなかった。
 番代と壺振りの男は、血の気の多い輩達にしこたま殴られた後、厳しい詮議にかけられる事となった。
 開司は連中が不正に貯め込んだ金を総て吐き出させ、今まで散々辛酸を舐めさせられてきた者達に分配した。
 それでも、己が借金を返して余りある程の大金を手に入れることが出来たのである。

 男は闇にふうと白い煙を吐き出すと、開司の顔を見た。
「言ったろう。借りは返すと」
「でも……」
「抱えになれと、言われていたのさ」
 脈絡のない言葉に開司は眉を寄せたが、男は構わず話し続ける。
「抱えの博奕打ちにならないかと、庄屋に執念く誘われていたんだ。のらりくらり躱し続けていたら、野郎、楼主や花魁と結託して、無理やり廓へ連れ出しておいて、俺が引き受けるまで廓から出さねえなんて滅茶苦茶言いやがった」
 内容にそぐわぬ暢気な口振りで、男は語る。
 そういう事情があったのかと、開司は漸く納得した。
 確かに、男は名の知れた博奕打ちであるようだったし、只者でないことは既に開司にも良く判っていた。
 庄屋の抱えになれば、生涯喰うに困らぬ暮らしが出来るだろうが、この男なら断るだろうとも思った。
 風のように気儘で、縛られる事を何よりも厭う生き方をしているのだろう。
 力有ればこそ、出来る生き様だ。開司は眩しいような心持ちで男を見つめる。

 しかし同時に、底の知れないこの男なら、廓から抜け出す事位容易い事なのではないかと、あの夜にも感じた疑問を開司は今一度、より強く抱いた。
 男は借りを返したのだと言ったが、抑も、開司に借りなど作る必要がなかったのではないか。

 開司は真実を知りたかったが、何と尋ねれば良いのか、言葉が出て来ず口を開いたり閉じたりを繰り返す。
 そんな開司に、男は薄い唇を撓め、
「お前の博奕、中々面白かったぜ」
 それだけ言って開司に背を向け、またゆるりと歩き始めた。

 開司は言葉を見つけられないまま、その背を暫く見つめていたが、意を決して男の名を呼んだ。
「赤木、さんっ……」
 開司が初めて口に出したその名に、男がちらと振り返る。
 すらりと白い立ち姿を強い瞳で見据え、開司は口を開いた。
「おれはいつか、あんたと博奕がしてみたい」
 それは開司が見つけた、新しい目標だった。復讐などという昏いものとは無縁の、純粋に、博奕打ちの血が求める侭に突き進んだ先にある目標。
「だからいつか、また逢う日まで」
 今までのやさぐれた様子から生まれ変わったような開司の表情に、男は少しだけ目を細め、何も言わずにまた歩き出す。

 終わりかけの桜がはらはらと散り、男と開司の間に降り積もる。
 開司は両手を強く握り、いつまでもその背中を見送っていた。
 





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