無題・2


 夜も更け、客の入りもすこしは落ち着いた頃。
 開司は二階に上がり、灯りを確認して回る。
 この遊郭では、行灯よりも高級品である蝋燭を一晩中燃やし続けることにより、浮世離れした空間を演出しようとしている。
 それが消えていたら点け直すのも、若衆の役目なのだ。

 悲鳴に似た女の喘ぎ声が漏れ聞こえる廊下を歩き、男女が枕を並べる部屋に音もなく滑り入ると、灯りを確認して出る。
 今まで幾度となく繰り返してきたその動作を、無機質に繰り返していると、ある部屋で客の男に呼び止められた。
「よぉ、兄さん。一寸、助けちゃくれねえか」
 畳に膝をついたまま開司が声のした方を見ると、壮年の男が布団の上に胡座をかいて座っていた。

 開司は目を眇める。真っ白な髪が闇に浮かぶようなその男は、遊女の部屋にいるというのに着物をしっかりと着込んでいる。
 唐桟縞の着流しに、黒の羽織。羽織はこの薄暗がりの中でも、上等な絹のものだと見て取れる。
 そして、晒したように白い肌。お白粉を塗りたくって作られた女郎の肌とは違う、生粋の羽二重肌だ。
 まるで役者のようだが、かといってなよなよとしているわけではなく、着物の上から見て取れる体つきは筋張っていてしなやかだった。
 長羅宇の煙管を吹かす仕草も、悠々として実に様になっている。

 武士には見えないが、さりとて商人という風でもない。謎の多い風采の男だった。
 ただ、刃物のような切れ長の目を中心に、どこか只者ではない空気を漂わせている。

 無意識に開司は身構える。こんな客、今まで来たことがあっただろうか。一目見れば忘れようもない印象の男であるのに、開司の記憶のどこにも男の姿はなかった。
 その上、ここは花魁の部屋である。どこかあどけない白い寝顔を晒している女は、この見世の稼ぎ頭である高級遊女であることに間違いはない。
 相手が花魁となると床入りまでに幾度か登楼を済ませている筈で、その都度見世をあげてのお祭り騒ぎになるはずである。尚のこと、開司が男の顔を知らないのは可笑しな話だ。
 不躾なほど男をじろじろと眺める開司の心を読んだかのように、薄い唇がふっと緩められた。
「実は、この見世は今日が初めてなんだが。庄屋の主に半ば強引に連れてこられてな……」
 ゆったりとした低い声が、俄に信じ難いことを言い出して、開司は益々混乱する。
 初めての登楼で花魁と床入りなど、異例中の異例だ。
 只でさえ、初めて会うまでに長い時間がかかると言われる花魁に、郭のしきたりを総てすっ飛ばして、会ったその日に床入りなど、聞いたことがない。
 気位の高い花魁がそんなこと許す筈もないと思われるが、庄屋と楼主との間で何事かの取引があったのなら話は別だ。きっと、花魁も納得するような条件を持ち出して、この椿事を成立させたのだ。
 そしてそこには、目玉の飛び出るような額の金が動いている筈である。
 いかにも老獪そうな庄屋の主の顔を思い浮かべながら、開司は目の前の男を眺める。この男を登楼させるために、そこまでする庄屋の意図が、開司には掴めなかった。
「俺を、この廓に閉じ込めておく心算なんだ。腹の立つ話だが……、正面から出ようとしたって、力尽くで連れ戻されるだけだろう」
 ふうと煙を吐き出し、煙管の雁首を煙草盆に打ち付けて灰を落としてから、男は開司を真っ直ぐに見る。
「そこで……、兄さん。悪いが、俺をここから逃しちゃくれねえかな」
 開司はひやりとした。有無を言わさぬ鋭い眼光に、まるで心臓を貫かれたような気がしたからだ。
 しかし、開司は男に気圧されながらも、負けじと言い返す。
「……厄介事に巻き込まれるのは、御免です」
 今までの話が真実だとしたら、男が揉め事の種であることはまず間違いない。
 そんな人物の逃亡を手助けしたのが露見したが最後、どのような目に遭わされるかわかったものではない。
 只、男の待遇から見るに、庄屋の方が何としてでも男を此処へ留め置きたいと思っているのだろうから、悪人や間夫の類ではなさそうだが……

「……そうか」
 開司に拒絶された男は、存外あっさりと引き下がった。あまりにも諦めの早い男の反応に、断っておきながら開司は拍子抜けする。
 百人ほどの人間が働くこの遊郭から、ひとりで逃げられる手立ても無いだろうに。
 或いは他に当てがあるのだろうか。緋色の繻子の布団の上で、心持ち姿勢を崩して優雅に煙を燻らす姿を見ているうち、開司はある事を閃いた。
「……幾ら出す?」
 声を低めてそう問えば、男は細い眉をあげる。
「逃してくれるのか?」
「地獄の沙汰も……ってやつだ」
 見たところ、男は羽振りが良さそうだった。そして、開司には今、少しでも多くの金を手に入れたい理由があった。
 男はなぜか面白そうに開司の顔をまじまじと見る。
「宵越しの金は持たねぇ主義でな。生憎と、今は待ち合わせがねぇんだ」
 あからさまに肩を落とす開司だったが、男は気にした風も無く、でも、と続ける。
「でも……、そうだな。金って形じゃないかもしれねぇが、借りは必ず返す」
 そんな言葉を信用するなんてどうかしているが、男があまりにも真っ直ぐにそう言い切ったので、開司は戸惑った。
 困ったことに、その言葉をどうしても嘘だと思えない。男の低い声と切れ味の良い瞳には、謎の説得力があった。
 素行の悪い客でもなかろうに、廓なんぞに閉じ込められているというこの男の身の上に、多少の同情も湧いた。

 逡巡の末、開司は腹を決める。
「ついて来て下さい」と言って立ち上がると、男は意外そうな顔をした。
「お前……」
 何を言いかけたのか、男は途中で口を閉ざすと、煙管を仕舞い、腰を上げた。


 なるべく目立たないようにとの開司の言いつけを素直に守り、男は大人しくついてくる。
 絹の羽織は人目を引き過ぎると開司が言うと、男は頓着なくそれを脱ぎ捨て、花魁の部屋に置いてきた。
 部屋で眠りこけている女は、目が覚めたら羽織だけしか残っていないことに気付いて、白い顔を一層蒼白くさせることになるだろう。

 女がいつ目を覚ますかと、忍び足で部屋を出る際に開司は肝を冷やしたが、杞憂に終わった。夜には眠らぬ商売の女があれだけ深く寝入っているところを見ると、男が一服盛ったのかも知れない。
 人に見つからぬよう細心の注意を払いながら廊下を進む際も、男は開司の背後で完璧に気配を消していた。思わず幾度か振り返って、本当についてきているのか確認したほどだ。
 飄々としているようで、やはり油断のならぬ男だ。改めて、開司は気を引き締める。

 人目を憚りながら、段梯子に続く廊下を素早く渡ろうとした時、不意に襟首を掴まれて後ろに引かれ、開司は心臓が口から飛び出るかと思った。
 気が付けば、後ろを歩いていた男に体を押さえられ、乾いた掌で口を塞がれていた。
 目を白黒させる開司だったが、男が廊下の先を疑と見つめていたので、そこに人が居る事が判った。楼主か遣り手か、顔を見られては不味い人物なのだろう。
 緊張で身を硬くしたまま、開司は己と変わらぬ高さにある男の白い横顔を見る。

 通った鼻梁と薄い唇、そして獲物を狩る鷹のような眼差しは、男の開司から見ても文句なしに二枚目だった。
 こんな色男が花街で遊べば、きっと遊女の方が放っておかないだろう。
 花魁の香が染みついたものか、男の体から高貴で奥ゆかしい沈香の香りが漂う。

 やがて、廊下の先から足音が遠ざかっていくと、男は開司の口から手を離した。
「……さ、急ごうぜ」
 何事もなかったかのように先を促され、開司は胡乱な目で男を睨む。
 自分の案内など無くとも、この男なら廓を抜け出すことくらい造作無いのではないかと思ったのだ。
 揶揄われているだけなのではないかと怪しんだが、相手が遊女ならまだしも、自分のような冴えない下働きに態々声を掛けてまでそんな事をする物好きなど居はしない。
 何だか掴みどころのない男に振り回されているようで、開司は渋い顔になった。

 段梯子を降り、開司は足音を忍ばせて奥へと進む。
 正面には常に見世番が居るし、人目に着く。同じ理由で、勝手口も使えない。だから奥へと進むしか無い。
 雑魚寝部屋の奥、物置として使われている薄昏い行灯部屋の前に進むと、薄汚れた戸の奥からか細い女の声が聞こえてきた。
 耳を澄ませば、それがこの世を呪うような台詞を吐いているとわかる。遣る瀬無い気持ちになりながら、開司は床に膝をついた。

 ここの床下から妓楼の外に出られるという事に気がついたのは、一年くらい前のことだった。
 他の床板と色が少しだけ違うので、きっとその部分だけ腐るか何かして張り替えたのだろう。
 普段は客の目にも付かないような場所で、人も滅多に寄り付かないから、こんな突貫修繕で済ませているのかも知れなかった。

 開司が床板を外すと、男が「おぉ」と感心したような声をあげた。
 床下に入るよう促すと、男は頷いて従う。
 高級そうな身形をしている癖に、何の躊躇いもなく床下にするりと潜り込んでいく。
 男の姿が見えなくなってから、開司も急いで床下へ身体を滑り込ませた。

 床板を閉ざすと、埃っぽく黴臭い匂いが鼻を突く。
「ついて来てください」と言って、開司は闇の中を這って進み始めた。
 男がついてくるのを物音で確認しつつ、外へ繋がっている方向を五感で探りながら進む。
 床板が外れる事は前々から知っていたが、床下を通路として使うのはこれが初めてだったので、開司は注意深く進んでいく。
 蜘蛛の巣が顔や髪に容赦なく絡みつき、虫や鼠が指先を掠めるようにして逃げていく気配がする。
 時折、膝でなにか得体の知れないものを踏みつけたりして鳥肌を立てながら、どうにかこうにか、外からの光の射す場所へ抜けることができた。


 外へ出ると、そこは勝手口の側だった。
 春の夜風が心地良い。終わりかけの桜の花弁が、ひっきりなしにひらひらと舞い落ちてくる。

 開司はとりあえず安堵の息をついた。眩しくて痛む目に思いきり顔を顰めながら、汚れた着物を手ではたく。
 振り返ると、男も外へ出てきていた。
 全身すっかり黒っぽく汚れてしまった開司と違い、唐桟縞の着流しには塵一つ付いていない。
「ありがとよ。お前さんのお陰で、ここを抜け出すことができた」
 柔和な声で男は言い、昏い空を仰ぐ。煌々としている表通りの灯りも、ここまでは届かない。

 あとは大門から出るだけだ。足抜けを厳しく監視されている遊女とは違い、客や商人の出入りは自由だから、男はすんなり帰路につけるだろう。
 開司がそう伝えると、男は開司の顔を凝と見つめる。

「どうだ。お前さんも、一緒に来ねえか」

 思いも寄らぬことを言われ、開司は大きく目を見開いた。
「こんな場所、もううんざりだって顔してるぜ」
 まるで遊女相手に駆け落ちを誘うかのような台詞だが、当然、男にそんなつもりは全くないらしく、『もののついで』に誘ってみたとでも言わんばかりの口調に、開司は唖然とした。
 呆れついでに、力の抜けた微苦笑が漏れる。

「おれは、だめなんです。ここで、やらなきゃならねえことがあるから……」

 己に言い聞かせるように呟いて、開司は拳を握りしめる。

 開司の事情など知りもしない筈だが、男は「そうか」と頷いて、踵を返した。
「ま……いずれ、また会うことになるだろう。今日の借りも、返さなきゃならねえしな」
 妙に確信的な口振りが気にかかったが、開司が口を開く前に、男は立ち去ってしまった。

 はらはら落ちる白い花弁に彩られながら、男の背が遠ざかっていく。
 それを見送る開司の耳に、行灯部屋の前で聞いたか細い女の声が蘇る。

 あの部屋に閉じ込められているのは、一人の遊女だった。開司が奉公に来た年、彼女はこの廓で三本の指に入る御職女郎だったのだ。
 かなりの額を稼いでおり、下にも置かれない存在だったが、お高く止まったところがなく、開司のような下っ端にも分け隔てなく接した。

 部屋の掃除に入った開司に、細々と身の上のことなど問いかけてきて、郷里が同じだとわかると、若い娘らしく明るくはしゃいでみせたものだった。
 誰にでも好かれる人柄だったのに、去年の冬に性病を患い、進行が早くて医者も匙を投げたため、ずっとあの部屋に隔離されている。

 以来、行灯部屋の前を通ると、あの溌剌とした明るい声からは想像もつかないほど変わり果てた蚊の鳴くような声で、世を儚んだ恨み言が聞こえてくるのだ。

『こんな場所、もううんざりだって顔してるぜ』

 男の言ったとおりだった。馬車馬のように働かされることを除いても、開司にとって此処は虫唾の走るような場所であった。
 女郎の悲惨な境遇を知っていればこそ、他の男達のように、此処が桃源郷だなどとは到底思う事ができなかった。

 しかし、開司にはどうしても、此処でやらなければならない事があった。

 三年前、ある賭場で、仲間だと思っていた男から手酷く裏切られた。
 その時負った負債が元で、この廓で奉公することになったのだが、この廓で月に一度開かれる賭場に、その男が顔を出すのだ。

 当時、二回廻しだった今の番頭に誘われ、初めて参加したその賭場に、男の顔を見つけた時の衝撃と言ったら無かった。
 向こうは開司の顔など忘れているようだったが、開司は三年前のあの日から、一日たりと忘れた事など無かった。

 どうやら、男は開司を嵌めたときのような事を、今でも続けているらしかった。その上、賭場を取り仕切る番頭とも結託し、何も知らない人間を獲物に荒稼ぎしているらしい。

 その時から、開司の反吐が出るような生活に目標ができた。
 必ず、己の力で連中に一泡吹かせてやる。
 そして、己の力で稼いだ金でこの見世を出る。

 明日、開かれるという賭場。そこで総てが決まる。
 睨むようにして開司は空を仰ぐ。
 騒々と花散らす風の音は、開司の血潮の滾る音そのものだった。



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