無題・3
翌朝、早くから廓は騒然としていた。
楼主や遣り手が酷く慌てて廊下を行き来するのを見て、あの男の言っていたことは本当だったのだと開司は悟った。
羽織一枚だけ残して消え失せた、空蝉の君のような男。
一体、男にどんな事情があったのかは知る由も無いが、いつも偉そうに指図してくる奴らが泡を食っているのを見ると、開司はすこしだけ、溜飲が下がる思いがしたのだった。
「おい、お前。一寸こっちへ来い」
血眼の番頭が、開司を呼びつける。朝飯の最中だというのに、無理やり引っ立てられそうになって開司は相手を睨めつけた。
「お前、昨夜は何してたんだい」
「何って……いつも通り、夜通し働かされてただけですよ」
無愛想を絵に描いたような返答に、番代は痺れを切らして開司に迫る。
「白妙の部屋から、お前と客が出て来るのを見たって奴が居るんだよ」
白妙とは、男の側で寝入っていたあの花魁だ。
間近で凄む番代の目を斜めに見て、開司はハッと嘲笑う。
「だったら何だ。客が部屋の外に出て、何か不都合でもあるってのか」
ふてぶてしい態度が勘に触ったのだろう。番代がカッと目を見開き、次の瞬間、開司は頬を殴られて自分の朝餉の膳の上にどっと倒れ込んでいた。
隣で飯を喰っている若衆達が、傍迷惑そうな顔で開司を睨む。
「つけ上がるんじゃねぇぞ、この屑が……」
怒りに息を荒げながら、塵芥でも見るような目で開司を見下ろしていた番頭だったが、ふと薄ら寒いほど柔和な笑顔になり、床に尻餅をついているカイジの前に蹲み込んだ。
「まぁいい……今宵の賭場での活躍、愉しみにしてるからな……」
声を潜めて囁かれ、開司は男の目を睨んだまま、切れた唇の端を手の甲でぐいと拭う。
そのまま立ち去る背中を、開司は静かにじっと見据えていた。
賭場が開かれる時刻は、いつも決まっている。
草木も眠る丑三つ時。楼主の信頼を得て、番頭が取り仕切る鉄火場。
この廓で働く者たちの数少ない娯楽。爪弾き者たちの饗宴の場だ。
饐えた汗の臭い。埃っぽい空気。
薄暗い部屋に開司が足を踏み入れると、盆茣蓙の周りに群がっている男共がざわめいた。
前回、こっ酷く負けたことで開司は一寸した有名人になっていたのだ。
文字通りの素寒貧、一文無し。逆さに振っても鼻血も出ないを体現するような負けっぷりは語り草になり、人々の口に上せるところとなった。
揶揄の声や失笑が漣のように空気を揺るがす中、自然に割れる人垣の中を開司は進み、壺振りの前に立った。
片肌脱いだ痩せぎすの男が、開司を見上げる。
その男は嘗て開司を裏切り、この廓に落とした者だった。但し、その事を覚えているのは開司だけだ。
開司と目が合うと、男は堪え切れぬといった風に笑いに顔を歪ませる。
先般の開司の無様な負け方を、一番間近で見ていた者だ。その時も、男は壺振りを任されていた。
顔を背け、思い出し笑いに肩を揺らす男に、中盆が声を掛ける。
「これ、お前。お客様に失礼じゃないか」
柔和な口調で嗜める男ーーこの賭場を取り仕切る中盆は、開司が今朝殴られたばかりの番頭だった。
形だけ壺振りを諫めてこそいるが、細い目の奥には怒りと嘲りが明瞭と滲んでいる。
「これはこれは……、恐い物知らずの蛮勇とは正にこの事。今宵はどんな博奕で我々を愉しませてくれるか、見ものではあるが……、」
その場にいる全員に聞こえるような大声で番頭が言うと、周りに居る有象無象がどっと笑い出す。
動じる事なく、開司はどっかりとその場に胡座をかいて座り、壺振りを見据えた。
騒がしさが引くのを待って、番代は突き刺すように冷ややかな目で開司を見た。
「金は、あるんだろうな……」
開司は懐を探り、麻袋を取り出して盆茣蓙に放る。
中を改めた壺振りが、片眉を上げて頓狂な声を上げた。
「たったの八文!? てめぇ、舐めてんのかッ」
今にも腰を上げて迫ろうとする壺振りを制するように、開司は拳を床に強く打ち付け、啖呵を切った。
「賭けるのは、おれの有り金総て。それと……、この右腕だっ……!」
水を打ったように、しんと賭場が静まり返る。
直後、今までの嘲笑とは全く異質のどよめきが、人々の間で沸き起こった。
壺振りまでも呆気にとられ、立ち上がろうとした姿勢のまま開司の顔を見つめる中、番代は眉ひとつ動かさず、開司に問い掛ける。
「……貴様、正気か?」
開司は答えない。只奥歯を食い縛り、眼を見開いていた。
前から決めていた事だった。壺振りと中盆が通じての、悪質な如何様。
開司は己が身を賭してでも、今宵それを暴き立て、勝って復讐を遂げる心算なのだ。
「とんだ阿呆だ。後で悔やんで、泣き喚いても知らんぞ……」
殊更ゆっくりと、噛んで含めるように甘やかな声で言う番頭を、開司は強い目で見据える。
その時、ふいに賭場の騒めきが大きくなった。
重々しい場の空気に、新しい風が吹き込んできたかのような異様さ。眉を寄せる開司の耳に、周りの声が飛び込んで来る。
「赤木だ……」
「神域の鉄火打ちが、何故こんな賭場に……」
対面の壺振りが、呆然とした顔で固まっている。
その視線を追って振り返り、開司は瞠目した。
人垣が割れ、自然に出来た道をゆっくりと歩いて来るのは、見事な総白髪に矢鱈縞の着流し、鷹のような鋭い目付きーー
見間違えようはずもない。開司が廓から逃してやった、あの男だった。
その場にいる全員が呆気に取られて静まり返る中、男は悠然と進み出て開司の傍に立った。
口を開けたまま、開司が男を見上げていると、男がちらと目を合わせて自分だけに分かるように微笑むのがわかり、思わず息を呑む。
男は帯に提げた巾着を、開司が投げた麻袋の隣に放った。
ずしりと重い音を立てて盆茣蓙に落ちた巾着から、目にも眩い小判が二、三枚溢れ出る。
どよめきが一層大きくなる中、男は番代に顔を向けた。
「この金、総てこの男に賭ける」
場の混乱は最高潮に達し、開司も唖然として男を見つめる。
何故、こんな事をするのか。理由はひとつしか考えられない。
男は先日の『借り』を返そうとしているのだ。ここまでして貰う謂れはないが、屹度そうに違いない。
男は不敵な笑みを浮かべ、開司の肩を叩く。
「さあ、始めようぜ。兄さんの、一世一代の大勝負……」
開司は我に返り、気を引き締める。
細かい事は兎も角、男のよく通る声は、確実に開司の背中を押した。
血の気の引いた顔で男を凝視している番頭。額に青筋を立てて歯軋りする壺振り。
不思議と、一切の不安や恐れは鳴りを潜め、開司は今一度、博奕に臨むためどっしりと腰を据えたのだった。
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