明快 「単純」の後日談



 その日、カイジがベッドから出られたのは、携帯のアラームが鳴ってから三十分後のことだった。
 と言っても、いつものようにグダグダと、二度寝、三度寝を繰り返していたというわけではない。



「は〜〜〜〜……」
 大きく息をつき、カイジはのそのそと起き上がった。
 四月。朝はまだ肌寒く、体温で温まった布団の誘惑からは逃れがたい。
 まったく動きたがらない足を、あるかなしかの気力だけでどうにか動かして布団から出ようとしたところで、右の足首を後ろから掴まれた。
「!」
 後ろに引き摺られ、反射的にベッドに手をついて四つん這いになる。振り返る隙もなく、今度は背後から覆い被さられた。

「アカギ……」
 呪わしげな声で、カイジは腹に腕を回して抱きついてくる男の名前を呼ぶ。
 返事はなく、只々ひしと抱き竦められている。
 苦しくなるほど力が込められているわけでもないのに、動こうともがいてもなぜか動けず、男の腕はビクともしない。

 カイジはふたたびため息をつく。
 根が怠惰であるから、こんな風に起きぬけでつまづくと、もうなにもかも面倒臭くなってしまう。男と自分の体を包み込む布団の温もりと、裸の肌が触れ合う心地よさに、早くも瞼が重くなってくる。

 しかし大型連休初日の今日、バイトに遅刻したら大目玉を食うこと必至。
 いや、それだけで済めばまだ良い方で、下手したら減給、あるいはクビ。普段から決して真面目とは言い難いカイジの勤務態度や、必要以上にカイジを目の敵にしてくる店長の性格を勘案するに、それくらいの処分は容易に想像できる。

 カイジはぶるぶると首を横に振った。
 博奕を打とうにもタネ銭すらない今、そんな事態に陥るわけにはいかない。
「どけよ……っ、遅刻すんだろっ……!」
 渾身の力でアカギを退けようとすると、耳許でため息をつかれる。
「いいじゃない。遅刻なんて、いつもしてるだろ……」
 吐息混じりの囁きに、ゾクリと背筋が粟立つ。
 コイツ、わざとやってんのか……? 怪しみながら、カイジは噛みつくように言い返す。
「いつもしてるから、今回だけはダメなんだよっ……!」
 我ながら、なんて情けない台詞だと泣きたくなりつつも、どうにか男の腕から抜け出そうとジタジタしていると、やがて、観念したようにふっと拘束が緩んだ。

 急いで布団から這い出し、飛び降りるようにしてベッドから降りる。
 意外に素直に引き下がってくれて良かったと、ホッとしながらベッドを見下ろすと、アカギはモゾモゾと掛布を被り直していた。
 あたたかい寝床への未練と、いくらでも春眠を貪れる男への嫉妬羨望を感じつつ、重い身体を引きずって、カイジは出掛ける準備に取りかかったのだった。



 顔を洗い、髪を整え、服を着替える。
 カイジが最低限の身支度を整えている間も、ベッドの上の掛布の膨らみは微動だにしなかった。
 ぬくぬくと眠りに就いているであろう男に、もはや逆恨みのような感情さえ抱きながら、カイジはキャップを後ろ被りで頭に乗せ、玄関に向かう。

 冷たいスニーカーに足をねじ込みながら、振り向きもしないまま部屋の中に向かって声をかける。
「出掛けるんなら、ポストに鍵……」
 言いかけたところで、後ろからヌッと伸びてきた手に顎を捕えられ、顔を横向きにさせられた。

「っふ……んぐっ、」
 驚く間もなく、唇を塞がれる。
 限界まで見開かれたカイジの目に映るのは、眩しいほどに白い男の、伏せられた瞼。

 いつの間に背後に立ってたんだ、心臓に悪ぃから気配消すなっていつも言ってんだろうが。
 言ってやりたいことが脳内に溢れかえるも、口を塞がれていては言葉にすらできない。

 せめて『やめろ』とだけでも言わなくてはと口を開いた瞬間、男の舌の侵入を許してしまった。
 起き抜けとは思えないくらい濃厚に絡まれて、カイジの頬が熱を持つ。
 早朝に似つかわしくない、妖しく濡れた音。一昨晩から今朝にかけての、淫靡な時間を思い出させるような。

 慌てて男から逃れようとするが、もう思うように力が入らない。
 頭の芯がグラグラと茹だってきて、感じちゃいけないと思えば思うほど、ものすごく感じてしまう。
 全身が甘く痺れて、特に下半身がジンジン疼いてたまらない。
 溢れた唾液を啜りながら上顎をぬるぬる舐められ、思わず縋るようにカイジがアカギの腕を掴んだのとほぼ同時に、唇がゆっくりと離された。

 透明な糸が、まるで名残を惜しむかのようにふたりを繋ぐ。
 とろんと熱に潤んだ目で息を整えているカイジに、アカギは澄ました顔で囁いた。
「……いってらっしゃい」
 そう言い残し、スタスタとベッドに引き返していく白い背を、カイジは迫力に欠ける涙目で、強く睨みつけたのだった。




 玄関のドアを開け、慌ただしく早朝の街に駆け出す。
 大幅なタイムロスを補うため、疲労困憊の体に鞭打って走りながら、カイジはふと、外の空気を吸うのがほぼ丸二日ぶりであることに気づいた。

 一昨日の夜、バイト終わりのコンビニに訪ねてきた男を部屋に上げて以来、カイジは男と一緒に部屋に閉じこもっていて、一歩も外へ出ていなかった。
 ーー出させてもらえなかった、と言った方が正しいだろうか。
 室内に引き篭もっていたくせにこうも疲れ果てているのは、昼もなく夜もなく、激しい運動をさせられていたからに他ならない。

 走る振動で腰が痛み、カイジは顔をしかめる。
 圧倒的運動不足なのに、夜通し無理し過ぎたせいだ。
 それもこれもみんなあいつの責任だと、ここにいない男を心の中で罵倒する。

 あいつが来ると、いつも決まってこうなる。
 溜まってるんだかなんだか知らねえが、一向に加減ってもんを覚えねえ。
 ヒトの皮を被ったケモノかあいつは、などと、心中で口汚く吐き捨てては舌打ちする。


 実際、アカギとカイジの逢瀬には必ず、精も根も尽き果ててしまうような長時間に及ぶ交合が付き物なのであった。
 普通の恋人同士のように頻繁に会えるわけではないのに、これではまるで体だけを求められているようだと、つい最近までカイジが不満を募らせていたくらいだ。

 それでも、セックスだけを目的に付き合っているわけじゃないってことは、前回男が滞在したとき、確認することができた……けれど。
 その時のことを思い出すと、カイジは顔から火を噴くような羞恥に見舞われるのである。

 今にして思えば、なんであんな女々しいことを口走ってしまったのかと、あのときの自分を張り倒してやりたい気分になるし、その後の男の行動や台詞も、今となっては『面映ゆい』を通り越し、ジタバタしたくなるくらい気恥ずかしく感じられるのだ。

 肉体と精神、双方向からの深いダメージに悶絶しながらも、カイジは這々の態でバイト先へ向かう。
 冷たく清々しい早朝の空気の中、カイジの頬は、ずっと熱を持ったままであった。




 遅刻ギリギリでスタッフルームに飛び込んで、店の制服に急いで着替える。
 ロッカーについている鏡に映る顔は疲れきっていた。目は落ちくぼんで充血しており、顔色もくすんだ土気色をしている。
 我ながらひでえ面だと思いながら、おざなりに髪を整えて店に出ると、カウンターの中にいた店長が、腕時計の文字盤を人差し指で叩きながらカイジを睨みつけてきた。

 遅刻ギリギリの出勤を咎めだてる視線から逃れるように俯きながら、店長と入れ替わりでカウンターに入る。
「お疲れっス! カイジさん、今日はギリギリセーフっスね〜!!」
 隣のレジにいた佐原が、早速話しかけてきた。

 今日コイツとだったか、とカイジは内心舌打ちする。
 くたびれ果てている今、佐原の軽薄なテンションは正直鬱陶しい。
 耳にシャッターを下ろしたい気分でカイジが引き続き俯いていると、佐原がひょいと顔を覗き込んできた。

「あれ? カイジさん……」

 ああ、きっと『ひっでぇ顔してますね』とか、失礼なことを言ってきやがるんだろうな、コイツは。
 でもまぁ、事実なんだからしょうがねぇ。それもこれもみんなあの色情狂のせいだと、カイジが静かな怒りに燃えていると、佐原がニンマリと笑って言った。

「なんか、イイことありました?」

「……は……?」
 予想だにしなかった台詞に、ぽかんとするカイジ。
 目と口をぱかりと開いて思わず佐原を凝視すると、ギョッとした顔で佐原は後ずさった。
「……なんすか? オレ、なんか変なこと言いました……?」
「や……、なんで……? オレ、我ながら疲れててひでぇ面してるって思ってたんだけど……」
 心底驚いているようなカイジの言葉に、佐原は眉根をぎゅっと寄せる。
「うーん……あ、確かに……よく見るとクマはひどいし、顔色も冴えないっスけど……」
 カイジの顔をまじまじと眺めながら佐原はブツブツ言っていたが、やがて、悪戯っぽく口角を上げた。

「でも、しっかり表情に出てますもん。『めちゃくちゃイイことあった』って」

 呆気にとられていたカイジの顔が、時間をおいて、徐々にうす赤く染まっていく。
「あれ? 図星っスか〜〜?」などと肘でつついてくる佐原から顔を隠すように、カイジは右手で口許を覆った。

 ぜんぜん、気づかなかった……
 佐原から指摘されるような、いったいどんなだらしない表情を、自分は晒していたというのだろう?

 昼夜を問わず男と汗ばんだ肌を合わせていた蜜のような時間や、今朝、出がけにキスされたことが、カイジの脳裏にフラッシュバックする。

「どんなイイことあったんスか〜〜? 教えてくださいよぉ〜〜カイジさ〜ん!」
 下世話な口調で詮索してくる佐原を「うるせぇっ」と一蹴しながら、カイジはさらに火照っていく顔をどうしても上げられなくて、やっぱりなにもかもアカギが悪いと、お門違いな恨みを抱くのだった。





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