怪我の功名 ケモ耳しっぽ注意




「カイジさん」

 聞き慣れたはずのその声に、カイジは大げさなほどビクッとして顔を上げた。
 それはもう、肩の前に垂れた髪が跳ねるくらいの驚きようで、対面から呼びかけた少年の眉間にくっきりとした皺が寄る。

「ん、どうした……?」

 できるだけいつもどおりに、カイジは問いかけたつもりだった。しかし、貼り付けた笑みはどうしても引きつり、目線もどこか定まらない。
 取り繕った自分の表情が不自然なことに、カイジ自身も気がついていた。だから、少年が口を開く前に、
「そういや、腹、減ったよな。メシにするか」
 そそくさと読んでいた雑誌を閉じると、立ち上がって逃げるように台所へ向かったのだった。





 冷蔵庫の中を眺めながら、カイジは深くため息をつく。
 給料日前の冷蔵庫はスカスカで、作れるものといったらうどんくらいしかないのだが、そのことを嘆いているわけでは、もちろんない。


 入院先の病院で化け猫に襲われ、少年に助けられてから約一週間。
 あのあと、すぐにカイジは退院し、自宅に帰ることができたわけだが、それはすなわち、少年と暮らす日常が戻ってきたということであった。
 少年に対し、兄弟や肉親に抱くような気持ちとはべつの感情ーーつまり『恋愛感情』を抱いていることに気づいてしまったカイジにとって、それは苦行の日々の始まりだった。

 そばにいるだけで、心臓が暴れる。
 なんといっても、好きな相手と一つ屋根の下で暮らしているのだ。

 恋しているという自覚なく共に過ごした時間が長かったぶん、反動で余計に相手を意識してしまうようになってしまった。
 そんな状態では、以前と同じような態度で少年に接することなどできるはずもない。
 あからさまにぎこちなくなったカイジを見る少年の鋭い目に疑惑の色が浮かぶまで、そう時間はかからなかった。

 カイジの態度がおかしいことを、少年がハッキリと指摘したことは未だない。
 しかし、そうなるのも時間の問題だということがカイジにはわかっていたし、早く以前のような普通の同居人に戻らなくてはと焦ってもいた。

 朝から晩まで、文字通り寝食を共にする生活。
 恋心を自覚してから、神である少年の顔や姿が恐ろしいほどに整っていることを、カイジはイヤというほど再認識させられた。

 以前の自分は、どうして少年にあんなにもざっくばらんな態度で接することができていたのだろう。
 今では、まったく信じられない。
 寝るときは、獣の姿に戻ってくれることだけが唯一の救いだ。
 入院しているときに経験したけれど、人間姿の少年と狭いベッドで毎日一緒に眠るなんて、心臓がいくつあっても足りない。


 心ここにあらずといった風情で、カイジは冷蔵庫の中からうどん二玉とめんつゆとネギを取り出し、シンクへ向かう。
 袋入りのゆでうどんは、つゆを煮立ててその中にぶち込むだけで食べられるから楽だ。
 ぼんやりしながら鍋に水を入れて火にかけ、まな板と包丁を取り出してネギを刻む。
 目線はまな板の上に落とされているが、その実、意識がまったくべつのところに向いているカイジは、手許を見ていないも同然だった。

 とん、とん、とん、といつもより鈍いリズムでネギを切っていると、

「ねぇ、カイジさん」
「……!!!!」

 急に間近から声をかけられ、カイジは声も出ないほど驚き、飛び上がった。
 その瞬間、無意識のうちに力の入った腕に、ザクッ、と明らかにネギ以外のものを切ってしまった感触が伝わる。

「あ痛っ……!!」

 指先に走った鋭い痛みに、カイジの顔が大きく歪む。
 左手の人さし指から真っ赤な血が滴り、まな板の上にポツポツと落ちている。
 どうやら、かなり深く切ってしまったようだ。

 だがカイジにとっては指の痛みよりも、いつの間にかすぐ隣に立っていた少年との距離の近さの方が、はるかに大問題だった。
「おっおっ、お前っ……、足音消すなよっ!! ビックリすんだろーがっ……!!」
「手、見せて」
 喚きながら反射的に距離を取ろうとするカイジだったが、少年に怪我した方の左手を掴まれ、「ひっ」と悲鳴のような声を漏らしてしまう。

 明らかに挙動のおかしいカイジに構うことなく、少年はカイジの手を引き寄せて鮮血の滴る傷口を確認したあと、なにを思ったか、その手を持ち上げて自身の口許へと近づけた。
「っ、おい……、!!」
 カイジは口をつぐみ、息を飲む。

 大きく見開かれたカイジの目の前で、少年は血に濡れたカイジの人さし指を、うすい唇の間に滑り込ませたのだ。
 突拍子もない少年の行動に、カイジは口をパクパクさせながら、カ〜〜ッと耳まで赤くなった。
 慌てて少年を嗜めようとするも、ちいさな舌がザラリと指先を這う感触に、背筋が震えるような感覚が走り、言葉を発することすらできない。

 少年はわずかに目を伏せ、ゆっくりとなぞるようにカイジの傷口を舐めている。
 その表情にはふざけている様子などいっさい感じられず、本気で傷を癒そうとしているのだということが、カイジにもひしひしと伝わってきた。

 指先が熱い。
 その熱が伝染してしまったかのように、カイジの全身も燃えるように熱くなっていた。

 時が止まってしまったかのように、しんとした台所。
 無意識に息を潜めて呼吸しながら、カイジは少年を見つめる。
 そういえば最近、少年の姿をマトモに見てすらいなかったと、カイジはこのとき、初めて気がついた。

 白くやわらかい髪。均整の取れた三角形の狐耳。
 透き通るような頬に落ちる、繊細な睫毛の影。
 スッと通った鼻梁と、形のよい唇。

 見れば見るほど、この世のものならぬ美しさで、自然と目が吸い寄せられる。
 カイジが思わずため息を漏らすと、それに反応したように少年が目線を上げた。
 こんな至近距離でカイジが少年と目を合わせたのは、本当に久しぶりのことだった。
 緋色の矢で射抜かれるような視線の鋭さにカイジが怯んでいると、少年はカイジの指先を軽く吸い上げ、口内から解放した。

「……傷、どう?」
 涼やかな声にハッとして、カイジは金縛りが解けたかのように、勢いよく左手を引っ込める。
 いきなりなにしやがるっ、と吠えつこうとして、カイジはピタリと動きを止めた。

 傷口が、塞がっている。
 かなり深く切った手応えがあったはずなのに、傷のあった場所からは血の一滴も滲んでいなかった。

 信じられない思いで、カイジは指先を目の前に持ってきて、間近で観察する。
 ところが、どれだけ目を凝らしてみても、包丁で切った痕が見当たらない。

 普通、あれだけ血の出る傷なら、仮にすぐ塞がったとしても、肉が盛り上がったり皮膚に継ぎ目が残ったりするはずだが、それらも一切ない。
 もちろん、痛みも完全に消え失せている。
 これはーー塞がっている、というより、もとより傷などなかったかのような、きれいな指先に戻った、という方が正しい。


 弾かれたように顔を上げ、カイジは少年を見る。
「どうやら、うまくいったみたいだ」
 少年は淡々とそう言ったが、その声にはどこかホッとしているような響きが含まれていた。

「お前、神さまの力でーー」
 カイジの言葉に少年は微かに頷き、ピクリとひとつ、耳を動かした。
 カイジは大きな目をきらきらと輝かせ、感嘆の声をあげる。
「す、すげぇ……っ!! お前いつのまに、こんなことできるようになったんだよっ……!?」

 少年の力は、相手を攻撃したり、天候を操ったり、空を自由に駆けたり、そういったことに特化されているようだった。
 その代わり、傷を癒したり、誰かの援護をしたりといったことは不得手というか、できないのだとカイジは思っていたのだが、きっと、せっせと神さまの力を蓄えて、できるようになったのだ。

「まだ、こんなちいさい傷しか治せないけど」
 やや耳を下げてぽつりと呟く少年に、
「十分すげぇって!! お前、頑張ってんだなぁ……!!」
 興奮した様子でそう言って、カイジは大きく笑う。

 少年が神さまの仕事をちゃんとこなしていることを知っているからこそ、その努力が報われていることが目に見えてわかるのが、カイジは自分のことのように嬉しく感じられるのだ。

 頬を上気させて子供みたいにはしゃいでいるカイジに、少年はしっぽをバサリと動かしたあと、目線をやや下げた。

「……去年の夏、風邪をひいたときも、このあいだ腹を痛めたときも、オレはあんたに、なんにもしてやれなかった」

 いつになく神妙な少年の口調に、カイジは一瞬、固まった。
 少年はいつもどおりのポーカーフェイスだが、さっきの口調も相まって、カイジの目には、まるで少年が自分を責めているかのように映ったのだ。

「そんなことねぇよ」
 カイジはムキになって首を横に振る。
 確かに、少年は神さまの力を使って風邪や腹痛を癒すことはできなかったけれど、夏風邪をひいたときは必死に看病してくれたし、食中毒のときは病院に連れて行ってくれて、見舞いにも来てくれた。
 それになにより、化け猫を退治して自分を守ってくれた。
 カイジにとって、少年は命の恩神なのだ。


 そんなカイジの気持ちを知ってか知らずか、少年は短く息をつくと、凛と顔を上げた。
「もっと、力をつけないと。守りたいものを、守れるように」
 真摯な表情で強くそう言いきった少年に、カイジはハッとする。

 そうーーだった。
 少年は、好きな相手のために神さまの力を蓄えているのだ。
 将来、その相手と番になって、ずっとずっと一緒にいられるように。
 少年の『守りたいもの』とは、好きな相手やその人との未来に他ならないだろう。

 カイジの胸に、チクリとちいさな痛みが走る。
 それに気づかないフリをしつつも、ちょっとほろ苦いような気分までは隠しきれないまま、カイジは真面目な顔つきで少年を見た。

「……そんなに焦る必要、ないんじゃねぇ?」

 少年が好きな相手と番になり、自分のもとを去ってしまうのではないかと思うと寂しかったが、そんな感傷を抜きにしても、カイジは心の底からそう思っていた。

 少年の好いた相手がどんな人物なのか、カイジは知らない。
 だけど、自分のために心を入れ替えてひたむきに頑張っている姿を見れば、よっぽどの人非人でない限り、きっとどんな人間でも、少年に心を開くに違いないと、カイジには確信できるのだ。

 カイジの発言の真意を受け止めかねているのか、少年は怪訝そうに耳を伏せている。
 やけに子供っぽいその表情にカイジはクスリと笑い、少年の頭をぽんぽんと軽く撫でた。

「オレは、今のお前が、結構、す」

 すきだよ。
 ちょっと前までのカイジなら、なんの躊躇もなく、そう言えていたかもしれない。
 しかし、『すき』の意味がまったくべつのものに変わってしまった今、カイジはその先を言葉にすることができず、中途半端に口を開いたまま固まってしまった。

「……『す』? なに?」
 細い眉を寄せた少年に顔を覗き込まれ、カイジの顔がまたしても耳まで真っ赤に染まる。

「……す……」
「『す』?」
「……す……す……、」

 唇をすぼめるようにしながら必死でうまいごまかし方を考えるカイジと、不審げな目でそれを見つめる少年。
 冷や汗をかきながらあちこち目線をうろうろさせ、シンクの上を見たカイジはあっと閃き、急いで言葉を口に出した。

「す、素……うどんで、いいか? 昼メシ」

 わざとらしい笑みを浮かべながら、カイジは少年に問いかける。
 ようやく続きを口にしたと思えば、声は上擦っているし、こんなしょうもないことで口籠っていたなんて、鋭い少年が信じるわけもない。
 そんなことはカイジもよくわかっていたけれど、咄嗟に口にしてしまったものは、どうしようもなかった。

 カイジの予想どおり、少年はものすごく胡乱げな顔でカイジを睨んでいた。
 カイジの額から、ドッと嫌な汗が噴き出す。
 それでも、必死にシラを切り通そうとすれば、やがて少年は諦めたようにふっと息をつき、
「油揚げも」
 と呟いた。

 どう考えても怪しまれているに違いないが、なんとか深く追求されずに済みそうだと、カイジは心の底から安堵する。
「えー……油揚げ? どっかにあったかな……」
 額の汗を拭き拭き、カイジが冷蔵庫に向かいかけたところで、鍋の湯が沸いた。

 煮えたぎった湯の中に麺つゆを注ぎ入れながら、カイジはふと、少年に向かって尋ねてみる。
「そういや、お前、結局なにしに来たんだよ?」
 一連の流れですっかり忘れていたけれど、少年はなにか用事があって、台所へ来たようだった。
「喉でも乾いたか?」
 カイジが問うと、少年は静かに首を横に振る。

「あんた最近、おかしかったから。なにかあったのか、訊いてみようと思ったんだけど」
 少年の台詞に、カイジはきょとんとした。

 あぁ、そうだった。
 ついさっきまで、コイツに自然に接することができなくて、すげぇギクシャクしてたんだったっけ。

 思い出して、カイジは少年の顔を見つめる。

 でも、どうやら今のゴタゴタで、すっかり以前の調子を取り戻しちまったみたいだ。
 といっても、コイツに対する浮ついた気持ちや、そばにいると胸がドキドキしちまうのは変わらないんだけどーー

 これぞまさに、『怪我の功名』というやつかもしれない。
 なんだか拍子抜けしてしまうような展開に、カイジは可笑しくなってきて、肩を震わせて笑ってしまう。
「どうしたの」
 ますます怪訝そうにしっぽを揺らす片思い相手に、カイジは、
「……なんでもねぇよ」
 と言って、いつものような笑顔でニッと笑ってみせたのだった。






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