日曜日・2
結局、その日は限定ジャンケンの決着をつけることができなかった。宮司に見つかり、大目玉を喰らったからだ。
しばらく、あの神社には行けないな。教室の窓から、雲を眺めながら思う。
……まぁいいや。今日は晴れてるから、ふたりで屋上に行こう。給水塔の上で押し相撲か、柵の外でどちらが長く立っていられるかのチキンレース。やってみたいことが、次から次へと浮かんでくる。
この街に越してきてよかったって、心からそう思う。つまんなかった毎日が、今は、すげぇ愉しい。
早く放課後にならないかな。ウズウズしながら伊藤の方を振り返ると、ちょうど側を歩いていた担任に、教科書で頭を小突かれた。
「授業中だぞ、赤木」
担任の声に、ノートをとっていた伊藤がこっちを見た。昨日殴られた左頬が、まだ赤い。
目が合うと、伊藤は声に出さずに『あほ』と口を動かした。
なんだかくすぐったくて、頬が弛む。
前の学校じゃ、こんな気持ちになったことなんてなかった。
これが友情ってやつなんだろうか。でも、ちょっと違うような気もする。友達なんてひとりもいなかったから、わかんないけど。
じゃあこの感情は、いったいなんなんだろう。その正体を、知りたいような、知りたくないような。複雑な気持ちだ。
唇の上にシャーペンを挟みながら、オレはぼんやり、伊藤のことやギャンブルのことを考えていた。
休日のルーティンである、賭場巡りのために街に出る。相変わらず人が多い。あたたかくなってきたから、薄着の人が増えた。燦々と降り注ぐ太陽の下を、ぶらぶらと歩く。
この学校に転校してから、日曜日がつまらない。伊藤に会えないからだ。
休みの日にまで連絡を取り合って遊ぶ仲じゃない。……そもそも、携帯、持ってるかどうかすら知らないし。
そういや、オレ、伊藤のことあんまり知らないかも。
なにが好きで、なにが嫌いか。休みの日はどんなことしてるのか。前の学校では、どんな風だったか、とか。
こんなに一緒にいるのに、顔を合わせたらギャンブルばっかやってて、聞いたこともなかった。
なんだか、じりじりと焦るような気持ちになる。
今度会ったら、聞いてみようかな。他愛もない会話なんて、家族以外とは、したこともないけど。
胸がドキドキする。ギャンブルする前よりも、緊張するかも。
考えごとをしながらぼんやり歩いていたせいで、後ろから近づいてくる気配に気づくのが遅れた。
デカくてゴツい掌に口を押さえられ、あっ、と気づいたときには、狭い路地に引き摺り込まれていた。
背中を硬い壁に押しつけられて、体の自由を奪われる。
屈強な男が三人。顎を上げて見下ろしてくる、その顔に見覚えがあった。先週の日曜、伊藤を殴っていた連中だ。
「こないだはどーも。……うまいこと、逃がしてくれちゃったよねぇ、お友達」
ドスのきいた低い声。口調だけは柔らかいが、六つの目はすこしも笑っていない。
冷や汗が背中を伝う。声をあげようにも、男の掌に口を塞がれていてできない。逃げ足には自信はあるけれど、こう追い詰められてちゃ逃げるもクソもない。
状況は圧倒的不利。オレの焦りを読み取ったか、男たちの目つきが獲物をいたぶる嗜虐的なものに変化する。
諦めるな。どうする。どうやったら逃げられる。考えろ、考えろ……
必死で脳をフル回転させるオレを、男のひとりが値踏みするような目で見て、軽く眉を上げた。
「コイツ、意外と……」
くい、と顎を持ち上げられ、ぞわぞわと鳥肌が立った。
嫌な予感がする。
案の定、男は下卑た笑みを浮かべながら、オレのTシャツを捲り上げてきた。
「……あ? 正気かよ、男のガキだぞ?」
「そりゃ、見てくれはまぁ……、悪くねぇけどさ……」
あとの二人は引いた様子だったが、男は構わず、露になったオレの腹をつうと指でなぞった。
「……ッ!!」
むず痒いような感触に、びくんと体が跳ねてしまう。
オレの反応を見て、のこり二人の目の色が如実に変化した。
気色悪い視線に晒され、オレはギリギリと歯噛みする。
昔から、こういうことはままあった。オレの容姿は悪目立ちするらしく、電車で体を触られたり、後をつけられたり、襲われそうになったりといったことが、これまでにも度々起こっていた。
逃げるのが得意になったのは、こういった厄介ごとに巻き込まれやすい体質のせいでもある。
だけど、今は……、屈強な男三人がかりで体の自由を奪われ、これじゃ逃げ出すスキもない。
複数の掌が、オレの肌の上を這う。体がガタガタ震える。
怒り、恐怖、嫌悪感。いろんな感情が混ざりあい、涙がじわりと膨らむ。
情けなくて悔しくて、ギュッと目を瞑ったそのとき。
鋭く空を切る音が聞こえ、口を塞いでいた手が消えた。
一瞬のできごと。気がつけば男がひとり、地面に転がりながら呻いている。
なにかに吹っ飛ばされたのだ。響めく男たちの視線の先を辿って、オレは目を見開いた。
「伊藤っ!?」
名前を叫ぶよりも速く、伊藤は男に向かって拳を繰り出した。体重の乗った、見事な右ストレート。まともに喰らった男は文字通り吹っ飛ばされ、さっきの男の上に折り重なるようにして転がった。
伊藤の力量を見て取ったのか、残った男に緊張が走る。
テメェ、とかコラ、とかよくわからない暴言を唾とともに撒き散らしながら、猛烈な勢いで伊藤に殴りかかる。
飛び退いてそれを避けた伊藤の体が、フワッと宙に浮いたかのように見えた。
次の瞬間、パァンッ、となにかが爆ぜるような音がして、男の巨体がぐるんと半回転する。
伊藤の右足が、肩の高さまで上がっている。男の横っ面に、ハイキックを喰らわせたのだ。
男が地面に落ちるまでの一瞬が、スローモーションのように見えた。
場が静かになってから、すらりと足を下ろす伊藤に、オレは瞬きも忘れて見入っていた。
「おい」
はっ、と我に返ると、伊藤と目が合う。
逃げるぞ。そう呟いて、伊藤はポカンとしているオレの腕を掴み、走り出した。
呻き混じりの罵詈雑言を無視し、薄暗い路地を光の射す方へと一目散に駆け抜ける。
力強く前を行く伊藤の後ろ姿を、オレはぼんやりと眺めていた。
今さっき起こったことが、にわかに信じられなくて、理解が追いつかない。なにもかも、夢なんじゃないかって思う。
だけど、騒がしい大通りに出て、街の人や看板なんかにあちこちぶつかりながら走る伊藤を見ていると、なんだかすごく愉快な気分になってきて、腕を引かれて駆けながら、オレは声をあげて笑った。
腕に伝わる低い体温が、心地よかった。
鷲巣神社の前まで来ると、伊藤はオレの腕を離した。
すっかり息が上がってしまい、喋ることもままならないオレに比べ、やっぱり伊藤は息ひとつ乱すことなく、静かにオレを見つめていた。
「お前……っ、あのとき、なんで……っ、」
聞きたいことはいろいろあったけど、とりあえず今いちばんの疑問をぶつける。
伊藤があんなにケンカ強いなんて、知らなかった。
しかし、今思い返してみると、この前の日曜日も異様なほど落ち着いてたし、よってたかってタコ殴りにされていた割には、全速力で走るオレに着いてこられるくらいの余裕を残していた。
まだうっすらとアザの残る頬を除いては、さほどダメージを受けていなかったのは、防御がうまかったからだったんだって、今さら合点がいった。
こんなに強いなら、どうしてあのとき、やられっぱなしだったのか。
息切れでうまく言葉にならないオレの疑問を汲み取って、伊藤はボソボソと答える。
「……面倒ごと、起こしたくないから」
なんだそれ。殴られてる時点でもう十分、面倒じゃん、って思うけど、確かにあんなに腕がたつなら、やり返したらやり返したで面倒くさいことになりそうだ。
息を潜めるようにして気配を殺している、教室での伊藤の様子を思い出す。
極端に目立つことを嫌うのは、本人の性質なのだろうか。異様なほどケンカ慣れしている様子も鑑みるに、なにか事情があるのかもしれない。前の学校で、なにかあった、とか。
気になったけど深くは追求せず、ようやく整ってきた呼吸にあわせて呟く。
「ありがとな……助けてくれて。お前って、強いんだな……」
本当は面倒ごとに巻き込まれたくないはずなのに、オレのことを助けるために荒事を演じてくれたのだ。
素直に感謝を伝えると、伊藤は軽く目を伏せた。
「……お前も、十分強いと思う」
「え?」
ぼそぼそした声がうまく聞き取れなくて首を傾げると、伊藤は顔をあげ、まっすぐにオレを見た。
「こないだは……助かった……」
いくらか、はっきりとした声で言って、ちょっと頭を下げる伊藤。
すこし遅れて、オレはお礼を言われたんだって気づく。
口の端が勝手に吊り上がっていく。あぁ、きっと今オレ、しまりのない顔してんな。また怒られるかな。
でも、いつもなら『ヘラヘラすんな』って怒るはずの伊藤が、今日はなんにも言わなかった。
熱くなった体に、風が心地いい。なんだかテンション上がってきた。口笛でも吹きたいような気分だ。
ふと、あることを思いついて、オレはハーフパンツのポケットを探る。
「なぁ伊藤。メアド交換しようぜ」
うきうきと二つ折りの携帯を取り出して、パカリと開くと、伊藤は目を丸くしてオレの手許を凝視していた。
どうしたんだろ。不思議に思ってその顔を覗きこむと、伊藤は小刻みに震える声で呟いた。
「今どきガラケーって……メアド交換ってお前……」
そこまで言って『堪えきれない』といった風に、ふはっと笑いを漏らす伊藤。
伊藤の笑い声を聞くのなんて初めてだったから、オレはびっくりして、携帯を落としそうになった。
ガラケーのなにがそんなにツボに入ったのかわからない。呆気に取られるオレをよそに、伊藤はくっくっと肩を揺らして笑い続けている。
「……なんだよ。これ、そんなにおかしいか?」
拗ねたような口をききながらも、オレもつられて笑ってしまう。
伊藤が笑うと、切れ長の目がやわらいで、ナイフみたいなゾクゾクする目もいいけど、こっちも好きだな、なんて思った。
終
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