シグナル カイジさんが臆病 ぐるぐるしてる



 


 シグナルは赤だ。
 ずっと赤だった。
 これからもきっと、変わることなどない。







「カイジさん?」

 名前を呼ばれて、はっとする。
 しげるがオレの顔を覗き込んでいる。歩道を挟んだ向こうの歩行者用信号は、いつの間にか青に変わっていた。

「また考えごと?」
 オレといると、カイジさんは考えごとばかり。
 そう言われて、咎めるような口調ではないのに、焦る。

 歩き出すこともなく、その場でただ沈黙するオレを見て、しげるは口端をつり上げる。
「もしかして、困ってる? ごめんね、あんなこと言って」
 謝るしげるの声は、歌うように軽やかに弾んでいる。
「困らせたかったんだ、あんたを。オレのことで、頭いっぱいになってるあんたを見たかった」
 機嫌のいい猫のように目を細めるしげるの向こうで、青信号が点滅するのが見えた。


 好きだよ。
 抱きたいんだ、カイジさん。
 あんたを、オレのものにしたい。

 そう告げられたのは、先週のこと。
 しげるの思惑どおり、オレはここ一週間のあいだ、ずっとこのことで頭がいっぱいだった。



 しげるのことは、好きだった。
 それは恋愛感情としての『好き』だ。
 だけど、それを告げることはまだしていなかった。
 成就の可能性が著しく低い恋だと、端から諦めていたからだ。

 だから、しげるの告白を受けたとき、胸が踊った。
 本当に嬉しかった。片想いのまま、消し去ろうとしていた恋だったから。
 すぐにでもふたつ返事で頷きたかったが、その欲求に反して、オレは返事を保留してしまっていた。


 早い話が、オレは怖気付いたのだ。
 相手はまだ子供だし、なにより同性だ。
 世間一般の恋愛から、ほんのすこしズレている恋。
 だからこそ、一歩踏み出すのが、怖い。


 いや……違うな。
 そんなのは建前でしかない。
 オレが本当に怖がっているのは、自分を抑えられなくなっちまうことだ。

 鮮烈すぎる、片恋だった。
 今まで自分は本当の意味で『恋』などしたことがなかったのだと、しげるに出会って初めて気付かされた。

 見ているだけで胸が苦しくなるほどの、刹那的な生き様と比類なき強さ。
 ものすごい力で魂が揺さぶられ、逆らいようもなく惹き寄せられていく感覚。
 男だとか八歳も年下の中学生だとか、そんなこと本当は、どうだってよかったんだ。

 しかし、だからこそ、しげるという存在に、際限なく溺れてしまいそうな自分が怖い。
 一線を越えてしまったら最後、もう今いるぬるま湯のような安寧に、戻ってこられないような気がした。
 このまま狂おしい思いに流されながら、行くとこまで行ってしまうのが怖い。だけど、しげるのことは本当に好きなんだ。

 こんな生半可な気持ちで、返事などできるはずもない。
 オレは逃げたんだ。答えを先延ばしにして。
 とんだ臆病者だと思うけれど、でも、今日しげるがやってきて、もう逃げられなくなってしまった。



 点滅していた青信号が、ふたたび赤に変わった。
 結局、ふたりとも道を渡らないまま、停止線に堰き止められていた車が流れ出す。

「カイジさん、たくさん困ってくれたよね。かわいかったな、ありがとう、ごめんね。
 でも、そろそろ答えが聞きたい」

 さらりと、でもはっきり促され、オレは震えた。
 しげるはいつもより饒舌で、愉しそうに光る瞳に、オレは途方に暮れる。

「いいじゃない、そんなに小難しく考えなくっても。たまには、感情に流されてもいいんじゃない? オレも流されるまま、どこまでも行ってみたいな、あんたと」

 頬が熱くなっていく。好きなヤツにこんな風に口説かれて、嬉しくない人間がいるだろうか。
 だけどなけなしのオレの理性が、どうしても一歩、踏み出すことを拒んでいる。

 信号は、相変わらず赤のままだ。
 ここの信号は長いことで有名で、いつもならひっかかるとイライラさせられるのだが、今日は正直、赤で良かったと思った。
 この信号を越えたら、じきにオレのアパートに着いちまう。そしたら、なんらかの答えを出さなくちゃならない。
 このまま、信号が変わらなければいい。そしたら、永遠に保留にできる。

「ねえ。渡っちまおうか、この信号」

 ムシのいい願望を打ち砕くみたいに、しげるが言葉を投げかけてくる。
 猫のような瞳が、黄昏の闇の中で炯炯と光っている。

「赤信号、ふたりで渡れば怖くない、でしょ?」

 戯けた口振り。でもその目は真剣だった。
 しげるはきっと、気づいているんだ。
 本当にオレの足を止めているのは、目の前の赤信号じゃなく、オレの自身の心なんだってこと。

 密かに息を飲む。


 オレの中の、シグナルは赤だ。
 ずっと赤だった。
 これからもきっと、変わることなどない。

 それでも、お前とふたり、渡っちまえば怖くなくなるんだろうか。
 際限なく溺れることも、二度と戻れない場所まで流されていくことも。



 スピードを上げて走りこんできた車のライトが、一瞬オレ達を照らし、通り過ぎていく。
 車通りがなくなったのを見計らって、しげるは一歩、前へ踏み出した。
 振り向きざま、白い手がオレに向かって伸ばされる。

「この手を取ってくれたら、向こう側へ連れていってあげるよ。骨も残さないくらいに、愛してあげる」

 突かれたように、胸が苦しくなる。
 だらりと垂らしたままの右手が、反射的にピクリと動く。
 悪魔のように囁くしげるの表情は逆光で見えず、その向こうにある信号の赤が、薄闇に溶け出すように滲んで見えた。

「さぁ、カイジさん」

 唇を、強く引き結ぶ。

 シグナルは赤だ。

 オレは、
 その手を、







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