祭りの後 「夏風邪」の蛇足 ケモ耳しっぽ注意
「一年中通して、この日ほど、晴れて良かったって思う日はねぇよな」
座っていた大きな石から立ち上がりざま、満天の星空に向かって大きく伸びをしながら、カイジは言った。
「今年も、凄かったよな……! なんか、一年前より、豪華になってた気がする」
未だ興奮冷めやらぬ様子のカイジを見て、少年はふさりとしっぽを揺らす。
「毎年、花火の数が増えてるせいだと思う」
「あー……そっか。あそこの花火大会、毎年賑わってるもんな」
納得したように呟いたあと、カイジはふっと軽くため息をついた。
「……なんか、こういうのって、観終わっちまうと物悲しいような気分になるな。もっと長く観てたい、っていうか」
そこで、ちょっと考えるような間を置いて、声のトーンを落とす。
「夏が終わっちまう、って感じ、するからかな……」
ガラにもなく感傷的な台詞を呟くと、カイジは先ほどまで観ていた極上の景色を反芻するかのように、静かに目を閉じた。
どことなくしんみりしている風なカイジの横顔を眺めながら、少年はふと、あることを思いつく。
……やってみたことはないけれど、きっとできる。今の自分になら。
だけど、それをやるには、この姿じゃ力が足らない。
少年はわずかに逡巡したが、すこしの間ならカイジの心臓も保つだろうと判断し、白い瞼をふわりと閉じて、意識を集中させ始めた。
ついさっきまで言葉を忘れて眺めていた、夢のような光景を瞼の裏で再生していたカイジは、自分のすぐそばで土を踏む足音に反応して目を開ける。
すると次の瞬間、なんの前触れもなくふわりと体が宙に浮き、口から心臓が飛び出そうになった。
「……!!??」
零れ落ちそうなほど見開いた目の玉で、なんとか状況を飲み込もうとしていると、すぐ傍から顔を覗き込まれて、どうにか引っ込めた心臓がまた飛び出しかける。
「おお、おま、おまーー」
すぐ傍でカイジを覗き込んでいるのは、並ぶものなく端麗な容姿の青年。
両耳の下の飾り紐が、薄暗い中でも光を弾くように、きらきら輝いている。
カイジの顔が、一瞬でボッと真っ赤に染まった。
足が二本とも宙に浮いていて、膝裏と背中を支えられていて、体が密着していて、こいつの顔が斜め上にあってーー
カイジはゴクリと唾を飲み込む。
これは、いわゆる。
……『お姫様抱っこ』。
「〜〜〜〜!!」
怒ったような焦ったような、妙な表情で口をパクパクさせたあと、ひどく取り乱したカイジはほとんど反射的に、ジタバタと暴れ始めた。
カイジの抵抗を軽くいなしながら、青年はひと言、
「あんまり暴れると、落ちるぜ」
ぽつりとそう言うと、目を閉じて軽く息を吸う。
すると、その刹那。
青年の足許から、ふわりと緩いつむじ風が巻き起こり、カイジを横抱きにしたまま、青年の体が軽々と宙に浮かんだ。
顎が外れそうなほどあんぐりと口を開いたまま、完全に硬直してしまったカイジを抱いて、青年はどんどん高く、駆け上がるように夜空を昇っていく。
青年の腕の中で完全に固まっていたカイジだったが、ぐんぐんと高度が上がっていくにつれ、今度は青ざめた顔でカタカタと震え始めた。
『降ろせ』と騒いだり暴れたりしないのは、今この状況でそんなことをしたら、本気で命が危ないと察しているからだろう。
目を白黒させ、冷や汗をダラダラかきながら、ちょっとでも動いたら落とされそうで必死に息を殺すカイジを後目に、青年は涼しい顔で、すいすいと空を昇っていった。
しばらくして、青年はぴたりと上昇をやめた。
涼しい夜風が青年の白く細い髪を靡かせ、優美な衣を絶えずはためかせている。
「カイジさん。ほら、見てみなよ」
青年はそう声をかけたが、カイジは石になってしまったかのように微動だにしない。
「カイジさん」
もう一度名前を呼ぶと、カイジはハッと我に返り、キョロキョロと素早く辺りを見回した。
「……ハッ! ここ、ここは……っ!?」
どうやら、あまりの恐怖に一瞬記憶が飛んでしまったらしい。
「カイジさん。ほら」
カイジが状況を把握して再び固まってしまう前にと、青年は遠くの方を顎で示しつつ呼びかける。
すると、カイジは怪訝そうに顔を動かし、青年の示した方向を見て、
「う、わぁ……」
先ほどまでとはべつの驚愕に、大きな目をさらに大きく見開いた。
カイジの目に飛び込んできたのは、足許の遥か下、金銀砂子さながらに、きらきら輝く街明かり。
目線を上げれば、今にも降ってきそうに散りばめられた無数の星々と、右側がすこしだけ欠けた、白く大きな月。
夜風に長い髪を巻き上げられながら、カイジは食い入るようにして、その光景に見入っていた。
恐怖など忘れてしまったかのようなその表情を見て、青年の耳がぴんと立つ。
「す……げぇ……」
ややあって、ぽつりと漏れ出たカイジの呟きに、青年はふっと笑った。
「上から見下ろすのも、悪くねえだろ?」
「『悪くねえ』なんてもんじゃねえよっ……!! オレこんな凄い景色、見たことねぇ……!!」
間近にある青年の顔をまともに見て、興奮した様子で捲し立てるカイジ。
子供のように頬を紅潮させ、一等星に負けないくらいきらきらとした目で夜景を見つめる想い人に、青年は目を細めた。
「あ……見ろよ、夏の大三角!」
「ダイサンカク?」
なにかに気づいたように声を上げるカイジの指さす先を見て、青年は首を傾げる。
「そっか……お前は知らねぇか。昔の人間は、つないだ星を物や動物なんかに見立てて、星座ってのを作ったんだ」
「……へぇ」
「で、夏に見られる三つの星座の、明るい星をつないだのが、夏の大三角」
じっと自分の話に耳を傾けている様子の青年に、カイジはちょっと得意げな顔で、ひときわ明るいひとつの星を指さした。
「あの星が……、えっと……ナントカって星座の、ナントカって星で……」
ちょっと眉を寄せながら、腕を右斜めに下げて次の星を指さす。
「あっちが……ナントカ座の、ナントカで……、」
さらに眉間の皺を深めつつ、今度はそこから右斜め上へと指を滑らせる。
「おそらく……あれが……ナントカ座の……」
もごもごと語尾を溶かしていくカイジに、青年は呆れ顔で眉を上げる。
「あんた、ギャンブル以外の知識はからっきしなんだな」
「うっ……うるせえっ……! しょうがねぇだろっ、大昔に小学校で習ったきりだったんだからっ……!!」
ちょっと顔を赤くして、唇を尖らせるカイジ。
だが、やがて、すぐにその頬をやわらかく緩め、くすぐったそうに笑った。
「へへ……」
「どうしたの」
青年が問いかけると、カイジは眩しそうに目を細めて言う。
「なんかさ……こんな凄いことできるようになったんだなって、お前の成長した証を見ることができたみたいで、ちょっと、嬉しくて」
「……」
「ありがとな、連れてきてくれて。この景色、オレ一生忘れねえよ」
普通の人間にはまず見ることのできない絶景にテンションの上がっているカイジは、ちょっとばかりアルコールが入っているのも手伝って、いつもよりずっと素直だ。
清浄な夜の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、カイジは改めて天空と地上の星々を眺めつつ、ぽつりと呟く。
「すげぇな……」
深く深く息を吐き出しながら、もう一度、心の底から満足げに感嘆する。
「本当に、すげぇ……」
しみじみと呟いて、ひたすら夜景に見惚れていたカイジだったが、段々とそのつり上がっていた口角が強張り始め、顔からゆっくりと血の気が引いてくる。
「……」
「……カイジさん?」
様子がおかしいことに気づいた青年が、カイジの顔を覗き込んで名前を呼ぶのとほぼ同時に、カイジは突然、青年の体にぎゅうっとしがみついた。
常にはないほど目を大きく瞠る青年の、ぴんと立った白い耳に、か細く消え入りそうな声が届く。
「……たのむ……もう、おろしてくれ……」
……どうやら、絶景への興奮が落ち着いてきたところで、一気に恐怖がぶり返してきたらしい。
でかい図体を縮こまらせてカタカタと震えながら、首筋に顔を押しつけるようにしてきつく自分にかじりついてくるカイジに、青年は耳をまっすぐに立てたまま、しばし沈黙する。
首筋にカイジの吐息がかかり、三本の純白のしっぽが、ごく微かに揺れた。
夜風がふたりを撫でるように吹き、青年はカイジの高めな体温を肌で感じながら、やにわに口を開く。
「カイジさん」
「……え?」
「降り方が、わからない」
「……はぁぁっ!?」
頓狂な声で叫び、丸くなった目で自分の顔を見つめてくるカイジを見返しながら、青年は淡々と続ける。
「実は、宙に浮かぶの、これが初めてで」
「…………ッッ!」
「適当にやってみたらここまで来れたのはいいんだけど、降り方が、どうしてもわからなくて」
「ーーーー!!」
「浮かび方がわかれば降り方も自然にわかるはずだから、たぶん、もうちょっとすれば、わかるようになる……気が、するんだけど」
「〜〜〜〜!!!」
次々に襲い来る衝撃の告白に絶句しているカイジは、青年の声がいっそ清々しいほどの棒読みであることに、まったく気づく気配すらない。
「おま、お前なあっ……!! マジ、シャレになんねぇんだよっこのアホっ……!!」
「ごめん」
涙目でぶるぶる震えながら怒ってくるカイジに、青年はまたしても、完全なる棒読みで謝る。
「本当に、本当なんだろうなっ……! ホントに、あとちょっと経てば降り方、わかるようになるんだろうなっ……!?」
「うん。たぶんね」
青年がしれっと答えると、カイジは下を見ないようにしながら、眉を下げてうううと情けなく呻いた。
「もう……来年以降は、コレ禁止だからなっ……!! 絶対だぞっ、このアホ狐っ……!!」
カイジの口から流れるように自然に『来年以降』なんて言葉が紡がれるのを聞き、青年の獣耳がピクリと動く。
「おっ……お前っ、なにしっぽ振ってやがんだよっ……!! ちくしょ、ぜんぜん、反省してねぇだろっ……!!」
一本のときより大きな音をたててふさふさ揺れるしっぽたちを見て、カイジは怒りで真っ赤な顔で青年をどやしつける。
それを適当に謝ったり宥めたりしながら、青年は想い人をぎゅうっとしがみつかせたまま、美しい夜の景色を、悠々と眺めていた。
夜の静けさを裂くように賑やかなふたつの声は、そのあともしばらくの間、夜空高くにてこだまし続けていたのであった。
終
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