夏風邪・9



 携帯のインカメラを鏡がわりにして映し出した自分の姿をカイジに見せられ、少年は目を丸くした。

 そこに映っているのは、紛れもなく自分自身。
 しかし、昨日までの自分とは、まったく違う姿だった。

 シャープな輪郭、涼しげな目許。
 瞳の緋色は、より一層深みを増し、静かに燃え盛っている。
 白銀の毛並みは磨かれたように艶々と光り、頭の上のふたつの耳も、すこし大きくなったようだ。

 そして、なにより。
 神の力の顕現であるしっぽが三本に増え、薄暗い部屋で光を集めるように、ぼんやりと白く輝いていた。

 全体的に鋭さを増したその姿は、神無月の夜に夢の中でカイジに見せた、成長した姿そのものだった。

 大きくなったのは、見た目だけではない。
 体の中から、湧き上がってくる力。それは、少年が今まで蓄積してきたものより、明らかに巨大で、純度の高いエネルギーの塊だった。

 いったいなぜ、突然この姿になったのだろう?
 液晶画面に映り込んだ自分の姿を見ながら、青年は不思議に思う。

 力を蓄えれば、いずれ成長できるということは知っていた。
 それはいつ、どんな形で訪れるのか、本人にはわからないということも。

 しかし、こんなに急だとは予想していなかったし、それに、一体なにがきっかけでこうなったのか、青年にはさっぱり、わからなかった。


 小さな画面を覗き込みながら、青年が確かめるように己の顔を触っていると、カイジが大きく咳払いをして、声をかけてきた。

「ところでさ……お、お前それ、もう元には戻れねえの?」
「……え?」

 青年が顔を上げてカイジを見ると、カイジは大袈裟なほどビクッと肩を揺らしたあと、なぜかしどろもどろになって言う。
「な、なんつーか……、今のお前もいいんだけど、その……前のお前にもう会えないのは、ちょっと、寂しいっていうか……」
 カイジの口から『寂しい』なんて言葉が出てくるとは思いもしなかった青年は、わずかに驚いた顔をする。
 だが、すこし考えたあと、顎を引いて頷いた。
「……できると思う」
 不思議なことに、どうやったら元の姿に戻れるのか、感覚として体に染み付いているような気がしたのだ。


 青年はふわりと目を閉じ、意識を集中させる。
 すると、体の中で循環している力の流れのようなものが目まぐるしく変化し、一回りコンパクトな容れ物に納まるように、次第にぎゅっと圧縮されていくのを感じた。

 己の中の変化が完全に終わってから、ゆっくりと瞼を持ち上げると、青年は元の、少年の姿に戻っていた。
「お、おぉ〜っ……! すげぇじゃねえか、お前っ……!!」
 眩しい光を手で避けていたカイジは、指の隙間から少年の姿を覗くように見て、感嘆の声を上げる。
 どうやら、少年は今の姿にも青年の姿にも、自由に変化できるようになったようだ。

 小さくなった己の掌を見つめ、試しにもう一度成長してみようと、少年はふたたび目を閉じる。
「うわっ……!! ちょ、ちょっと待てっ……!!」
 そこで、なぜか慌てふためいた様子のカイジに強く肩を掴まれ、少年は怪訝な顔で片目を開いた。
「……なに?」
「ぅえっ!? えっ……と、その……」
 あからさまに狼狽えつつも、カイジは少年に向かって諭すように言う。
「お前、もうしばらくはこの姿のままでいろよ。今までずっと、ガキの格好のお前といたわけだし、な、慣れねえ……っていうか……」
 まるで言い訳でもするみたいに言ってから、ぎこちなく視線を逸らし、カイジはボソボソとつけ加えた。
「それに、その、心臓が……」
「心臓?」
 突然出てきた不穏なワードに、少年は耳をぴんと立ててカイジに詰め寄る。
「あんた、他にもどこか悪いのか……?」
「いっ、いや……! 悪いっつーか、その……デカい方のお前に見つめられると、動悸が……」
「ドウキ?」
 聞き慣れない言葉に眉を寄せる少年に、カイジは大量の汗をかきつつ、コホンと咳払いした。
「……まぁ、うん。とにかく、オレの前ではあんまり、気安くあの姿になるな。心臓に悪いから」
 なっ? と引き攣った笑顔で言われ、怪しさ全開のカイジの挙動を不審に思いながらも、少年は渋々、こくりと頷く。

 せっかく青年の姿に変化できるようになったわけだし、自由にその力を使ってみたいとは思うけれど、カイジがまた具合を悪くしたらコトだし、とりあえずは素直に言うことを聞いておこうと思ったのだ。

 どこかホッとしたように息をつき、カイジは少年に向かって手を伸ばす。
「悪かったな、心配かけちまって」
 伸びてきた手に頭をくしゃくしゃに撫でられながら、少年はカイジを見て、淡く微笑んだ。

「あんたが元気になって、よかった」

 その笑顔に目を丸くしたあと、カイジはなぜか赤くなり、「……そうかよ」と口ごもるように言ってうつむく。

 その顔を眺めていると、鳩尾のあたりがふんわりとあたたかくなってきて、少年はなぜ自分が急に成長できたのか、その理由がなんとなく、わかった気がした。







 ここから先は後日談であるが、少年はその一件以来、カイジのことを名前で呼ぶようになっていた。


「カイジさん」

 振り向きざま、少年はカイジの名を呼ぶ。

 少年は神さまなので、初めは人間であるカイジのことを呼び捨てにしていたが、佐原のように『見える』人間もいるのだからと、カイジが便宜上「さん」を付けるように教えたのだ。

 少年の後ろをぜえぜえ言いながら歩いていたカイジは、涼しい顔で振り返る同居人を、汗を拭き拭き、ジロリと睨みつける。

「……なんだよ?」
「べつに」

 わざとらしくそっぽを向く少年の、ぴんと立った耳と愉快そうに揺れるしっぽを眺め、カイジは苦い顔でため息をつく。
 少年はなにが面白いのか、用もないのにこうしてカイジの名を呼んでは、無意味に返事をさせるという遊びを繰り返すようになっていた。

「ったく……お前ってホント、ガキだよな……」
 呆れたようにガキ呼ばわりされても、少年は以前ほど腹が立たなくなっていた。

 だってもう、いつだって大人になれるのだ。
 カイジとずっと一緒にいたいから、まだあまり、変化はしないけれど。

 子供の特権である澄んだ声で笑いながら、少年はもう一度、大きな声で好きな人の名前を呼んだ。

「カイジさん、早く。花火、始まっちまうぜ?」






 それから、後日談がもうひとつ。
 カイジの風邪が完全に治った日、佐原が大失敗だった合コンからトボトボと帰宅すると、ドアノブに、バイト先のコンビニの袋がかけられていた。
 恐る恐る中を覗き見ると、そこにはまだあたたかいチキンが大量に詰められ、美味そうな匂いを放っていた。

 薄気味悪く思いつつも、誰の仕業かおおよそ見当がついていた佐原は、まぁ捨てるのも勿体無いしと、数日かけてそのズレた贈り物を、きちんと腹に納めきったらしい。





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