ひとり


 その朝はしとしとと冷たい雨が降り、まるで春先に戻ったかのように涼しかった。

 肌寒い空気に体の表面が冷え、男は夏用の薄い掛布に深く潜り直す。
 それでも寒気は爪先から這い上ってくるようで、ちいさくため息を漏らした。

 夢うつつの中、ほとんど無意識のうちに、隣へと腕を伸ばす。
 手探りでなにかを探し、抱き寄せようとする仕草。
 だが、伸ばした腕は虚しく空を掻くばかりで、不審げに顔を顰めて男は瞼を持ち上げる。

 伸ばした腕の先は、空っぽだった。
 起き抜けのぼんやりとした視界の中、目に映るのは見慣れた狭い部屋の風景、ではなく。直に布団の敷かれた真新しい畳と、薄青い夏の早朝の光に染まる障子戸。

 ゆっくりと瞬きをして、男は徐々に思い出す。
 ここが、代打ちとして雇われた組の屋敷であること。
 数日の間滞在していた狭い部屋を、昨日、後にしていたことを。

 伸ばした腕に、冷たい空気が纏い付く。
 だが、男は冷えていく腕をそのままに、空っぽの掌、誰もいない隣の空間を、黙ったまま暫し、見つめていた。

 ああ、そうか。
「ひとり、なんだっけ」

 たった今、実感として初めてそのことに気づいたとでもいうような。
 そんな、ちいさな声が男の唇から漏れ、誰の耳にも届くことのないまま、しんとした部屋の空気だけを、微かに震わせた。


 男がそう呟いた同じ朝に、同じ小さな都市のべつの場所で、まったく同じ台詞を呟いた男が、もうひとりいた。
 だが、遠く離れた場所にいた彼らは、当然そんなこと、知る由もなかった。







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