後悔 薄暗い
「お前、後悔しねえか」
まるでひとりごとのような呟きが降ってきて、カイジはそっと瞼を持ち上げる。
相手がいったいどんな表情で、後悔などという言葉を口にしたのか、気になったのだ。
しかし、天井を背負って見下ろしてくる赤木の顔は、他愛ない雑談をするときとなんら変わりなく、穏やかに凪いでいた。
それでいて、切るような瞳には決して底を読み取らせないような深さがあって、下手に踏み込めばあっという間に溺れて息もできなくなりそうなそれを危ぶみながら、カイジは慎重に訊き返す。
「……後悔? なにに対して、ですか?」
平静を装って問いかけるカイジに、赤木は表情を変えぬまま、
「俺と、こうなっちまうことを、だよ」
そう、やわらかく言った。
赤木の淡い双眸は、まるで揺れない水面のようなのに、それに見つめられると、自分の中が不安定に波打ってしまうのが、カイジはとても苦手だった。
それでも虚勢を張るように、カイジは顎を上げて目を細める。
「後悔だなんて、あんた、思い上がってる」
こまかな声の震えは、嘲笑の中に混ぜ込んで誤魔化しながら、
「むしろ、ちゃんと後悔させて下さいよ。こんなことしなきゃよかったって、もう知らなかった頃には戻れないって、」
あえて斜に構えたような態度で、言葉を紡ぐ。
「ーーあんた無しじゃ生きていけなくなっちまったって後悔するくらい、よくしてみろよ」
そう囁いて、挑発的に口角を引き上げ、カイジは笑った。
赤木は黙ってカイジを見つめたあと、ゆっくりと目を伏せ、肩を揺らす。
「お前、言うようになったよな」
「誰かさんの影響ですね」
口さがない返答にも、赤木は低く喉を鳴らし、それからつと手を伸ばして、カイジの頬に残る傷跡を指でなぞった。
「まあ……そうだな。精々、頑張るよ。
ーーおそらく、これが最初で、最後だろうからな」
……そんなこと、まだわからねえだろうが。
カイジがそう言い返す前に、乾いた唇が重なってくる。
反射的に逃げそうになる体を強引に踏み止まらせ、カイジはきつく目を閉じてそれを受け入れた。
後悔など、しない。
赤木とこうなると決めたときから、カイジはそう自分に言い聞かせ続けていた。
自分から選んだことだ。たったこれしきのことで、赤木が翻意するとはとても思えないけれども、それでも自分にできることは、すべてやってやるのだと強く心に決めていた。
ずっと憧れて、遠くから見ていた。心を傾けて貰えたのは僥倖だったけれど、だからこそこんなに早く一方的に終わらされる恋を、黙って見送るなんてできるはずもない。
たとえ焦がれた相手の意思であっても、己のすべてをかけて捻じ曲げてやりたかった。
後悔なら、むしろカイジは赤木の方にさせてやるつもりだった。
情が移って、自分を置いてはいけなくなってしまったと後悔させて、こちらへ踏み止まらせたかった。
けれど実際、不安定に揺れ動くのは自分の心ばかりのようで、カイジは密かに震えた。
唇が離れる。
互いを繋いだ透明な糸はか細く、一瞬で切れ落ちてしまう。
こんな不確かなものじゃなく、赤木を繋ぎとめられるくらい、強くて太いものが欲しかった。
運命な赤い糸なんてものが仮にあったとして、そんなものでは、脆弱すぎる。どす黒くて、重い鎖でないといけない。
果たして自分が赤木にとって、そんなものになり得るだろうかと、熱を帯びる頭の片隅でカイジは考える。
体を白い指が滑って、思考がうまくまとまらなくなりつつある。
初めて見たとき、神さまみたいだと思った手。
のびのびと牌に伸ばされるまっすぐな指が、躊躇いなく己の信じた道を選び取る力強い手が、きれいだと思って、そこから好きになっていった。
その手に触れられていると、どうしようもなくこみ上げてくるものがあって、触らないで下さいと、言わないように唇を噛むのが精一杯だった。
このごろは、赤木の傍にいるだけで、カイジはなぜか、涙が出そうになるのだった。
それはちょうど、満月の引力が海水を引き上げて満ち潮を呼び寄せるのに似ていて、自然現象のようなそれに逆らうのはほとんど苦痛でしかないけれども、それでもカイジはひとり、体を震わせてぐっと耐える。
赤木はそんなカイジを見て、ひとつ、瞬いた。
「お前はどうして、俺なんか好きになっちまったんだろうな」
底なしの、揺れない瞳。
もうほとんど溺れているみたいにあえかな吐息とともに、カイジは言い捨てる。
「無駄口……叩いてる余裕、あんのかよ……、っ」
そうして、無理やり背中に腕を回して引き寄せると、赤木はやはり、静かに笑った。
心が波打ち、溢れそうになるのはカイジばかりで、まっすぐな赤木の瞳はほんのちいさな波紋すら描かない。
愛撫する手の、憐れむような仕草。失意の底へ沈みそうになりつつも、カイジは再度、己の心に刻みつけるように言い聞かせる。
後悔など、しない。
そうして赤木と繋がるときだけ、体の痛みに耐えかねたふりをして、苦い涙をひとつぶだけ、零した。
終
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