卵 愛なし 食べ物を粗末にしている



 男の、傷、には興味があった。
 でも、ただそれだけ。
 それだけ、の、はずだった。







 古ぼけた扉に背を預け、しゃがみこんでいるしげるの耳に、ゆっくりと階段をのぼる足音が聞こえてくる。
 くたびれた足取りが目に浮かぶようなその音が、この部屋の主のものだとしげるにはすぐにわかった。
 が、あえて腰を上げずに待つ。

 その男はやがて部屋の前まで来て、渋い顔でしげるを見下ろした。
 片手に、白いレジ袋を提げている。
「目立つから、部屋の前で待つなって言ってんだろうが……」
 ぼやくように言う男の目の端が、ひどく擦ったように赤くなっているのをしげるは見咎めた。
 まるで泣きべそをかいたあとのようなそれは、逆立ちしても子供には見えない男の容姿とはあまりにもミスマッチだった。
 普通なら見た瞬間ギョッとしてしまうであろう痕。
 だが、しげるは『またか』と思うに留まった。

 この男は呆れるほど、実によく涙を流すのだ。
 泣く理由など聞いたこともないが、ともかくも、男のこういう顔を、しげるは見飽きるほど見てきたので、今さら驚かなかった。

 男は上着のポケットを探り、鍵を取り出す。
 鍵穴に挿し込まれた鍵が、カチリ、と音を立てて回るのを眺めつつ、しげるは口を開いた。
「カイジさん。今日、泊めて」
「……わかったから、どけよお前。邪魔」
 ドアノブに手をかけたまま睨んでくる仏頂面に、しげるはクスリと笑って、ようやく腰を上げた。








 自分を咎めつつも、結局は部屋に上げてしまう甘っちょろい男のことを、しげるはまだ、よく知らない。

 数ヶ月前、近くの雀荘で、しげるが毟った相手に絡まれかけていたところを、助けに入ってきたお節介焼き。
 それがこの、伊藤開司という男だった。

 その後、なりゆきで一夜の宿を借りて以来、ときおりこうして男のもとを訪ねるようになったわけだが、男のことをしげるは積極的に聞き出さず、また男も語らないため、しげるは未だ、名前と異様なほどよく泣くという習性以外、男のことをほとんど知らなかった。



 靴を脱ぎながら、カイジは不明瞭な声でぼそりと言った。
「うち今、食うもんなんもねえぞ。つうかお前、ちゃんと学校行ってんのかよ?」
 しげるが返事をせずに黙っていると、カイジは横目でチラリとしげるを見遣り、ため息をつく。

 身動きするたび、右手に提げられたレジ袋がガサガサと鳴っている。
 中身は、おそらく大半が発泡酒とつまみ。
 ひとりでゆっくり晩酌でもするつもりだったのだろう。
 その予定を大して親しくもない中学生のガキに乱されたのに、帰れとも邪魔だとも言わない。
 男は大層なお人好しだが、今、黙ってしげるを受け入れているのは、おそらくその性格のためではない。
 単に、拒絶を示すのすら、面倒なだけなのだろう。

 やさぐれた野良犬のような目と、ぼさぼさの黒い長髪。
 一見、どこにでもいるような男の体には、不穏な傷がいくつもあった。

 左の頬と指の付け根近く。しげるは見たことがないが、同じ側の腕には家畜のような焼印もあるらしい。

 男のそういう、傷、には、しげるもちょっとだけ興味があった。
 どういう経緯でそれらがつけられることになったか知りたかったし、服の下に隠れている焼印も、機会があれば見てみたいような気がしていた。

 でも、ただそれだけだ。
 自分と同じ、博奕狂い。そういう一面にだけ、食指を動かされるだけで、あとはどうでもいいと思っていた。

 屋根付きの場所で寝たいときだけ、訪ねる顔見知りのうちのひとり。
 それだけ、の、はずだった。




 カイジは居間の灯りを点けると、なぜかすぐさまレジ袋の中を覗き込んだ。
 しげるがその様子をぼんやり眺めていると、カイジは
「あ」
 と声を上げたきり、絶句する。

 トサリ、と袋を床に下ろすと、中から注意深くなにかを取り出す。
「やっぱり……割れちまってる……」
 卵のパックを目線の高さまで持ち上げたカイジの、黒い眉が寄った。

 いくつかの透明な部屋の中に漏れ出した黄色が、蛍光灯の灯りに照らされ、ぬらぬらと光っている。
 パックの中の惨状を見る限り、よほど派手に転ぶか、どこかにぶつけるかしたに違いない。

 男の目尻が赤かったのも、それに関係しているのかもしれないとしげるは思った。
 よく泣くとはいえ、いくらなんでもすっ転んだだけで泣きベソかいたりはしないだろうから、よく後をつけられているキナ臭い連中と、街中で追いかけっこでもしてきたのだろう。
 アパートの前で待つのをあれだけ嫌がるのも、連中の目を避けたいがためなのだということを、しげるは知っていた。


 忌々しげに舌打ちし、カイジはその場で、パックを注意深く開いた。
 十並んだ白い塊をじっと見つめてから、ホッと息をつく。どうやら、全滅は免れたらしい。

 とりあえず目の前の惨状をどうにかしなくてはと思ったのだろう、カイジは左手をおっかなびっくりといった風に伸ばし、割れた卵を掴む。
 当然、流れ出ている黄身と白身は、その手を容赦無く汚した。

 男はすぐさま、顔をしかめる。後先考えず咄嗟に手が出てしまった己の愚行を、悔いているようだった。

 それとほぼ同時に、
 どろり。
 うすく黄味がかった半透明の液体が、無骨な指の隙間から溢れ出した。

 男の顔が、みるみるうちに嫌悪感に強張っていく。
 とろみのある液体は水よりもずっと緩やかなスピードで、かさついた膚と筋肉の隆起を舐めるように、ゆっくり、ゆっくりとカイジの腕を伝い下りていく。

 
 ゴミ箱も、拭うものもなにも側にない状況で、カイジはただ、耐えるように顔を歪ませていた。
 嫌そうに眇められた目。その眦は相変わらず赤い。

 苦痛、にも似たその表情をしげるが眺めているうち、生き物のように這う雫は、肘にまで到達する。
 慌てて、カイジは腕を持ち上げたが、どうやら一歩遅かったようで、どろりとした液体は、尖った肘の先に溜まるように露を結び、重い音をたて、床に落ちた。

 ぼたり。

 その音を聞いた瞬間、しげるはほとんど無意識のうち、カイジの方へと踏み出していた。
 腕を濡らす透明な雫に注がれていた視線が、しげるの方へと向けられる。
 わずかな驚きに瞠られた、白目の多い三白眼。それを静かに見返しながらしげるが腕を掴めば、やや怯んだように目の前の体が竦む。

 カイジが唇を開いてなにか言うよりも早く、しげるは骨張った肘に唇を寄せ、その先から滴る雫を舌で掬うようにして、ゆっくりと舐め上げた。
 舌に絡みつく生々しい感触、頭上で息を飲む気配。
 それらを感じながら、しげるは舌を尖らせ、明確に淫靡な意図を感じさせる動きで、上へ、上へと男の膚をなぞっていく。

 濡れた線が、濡れた線で上書きされていく。
 自堕落な生活をしている割に、男の腕は弛んでおらず、引き締まった筋肉の感触が舌に硬い。
 うっすら塩辛いのは、無論、卵の風味ではなく、汗をかいた男の膚の味だ。

 手の甲に辿り着くと、指の隙間から液が漏れ出していて、そこを舐めると他の部分より敏感なのか、指がほんのわずか、ピクリと引き攣る。
 丹念になぞれば、指と指の間をつうと透明な糸が繋いだ。

 傷も、ほんのわずかだが濡れていた。
 不自然に皮膚がひきつれ、盛り上がったその継ぎ目をまるで愛撫するみたいに往復し、ふと目線を上げるとカイジが食い入るようにしげるの挙動を見つめていた。

 視線がかち合うと、カイジは慌てて目を逸らす。
「腹、壊すぞ……」
 場にそぐわぬ、間の抜けた発言だった。
 今、本当に言うべきことはそんなことじゃないだろうに。
 そんなズレたことしか口にできないほど、動揺しているのだ。その声が怒ったように響くのは、それを隠すのに精一杯だから。

 こういったことに、よほど慣れていないのだろう。
 あるいは、いきなり年下の男のガキにこんなことをされれば誰だって面喰らうのかもしれないが、とにかく、その戸惑った様子に不思議なほどしげるは高揚し、低く喉を鳴らした。
「……あんたの方が、腹壊すことになったらごめんね」
「は?」
 意味がわからない、という顔をするカイジの汚れた手を取り、握り込んで乱暴に引き寄せる。
 ふたりの手の間で、卵のうすい殻はぐしゃりと音をたてて潰れ、重なりきらない隙間から、ぬるつく液体が溢れ出し、床にぼたぼたと落ちた。

 脱がせてみたい、と思った。焼印を見るためではなく。
 カイジ相手にこんな気分になったこと、しげるは少なからず、驚いていた。

 男の、傷、には興味があった。
 でも、ただそれだけ。
 そう思い込んでいたけれど、どうやら違っていたらしい。

 突如として降って湧いたような、抗いがたい衝動。
 たいせつにあたためていれば、きれいな名前のつく感情として、いつか孵ったかもしれない。
 けれど、もう遅い。
 カイジの手が汚れていくのを眺めているうち、しげるの心のどこかもひび割れ、どろりと滴る欲望が、カイジを汚そうと溢れ出してしまったようだった。


 今やはっきりとしげるの意図を察したらしいカイジの表情が豹変し、大きな目が驚愕に見開かれていく。
 その生々しい変化に、どろどろとしたものがまた、己の裡から溢れ出すのを感じながら、しげるはカイジの頬に、汚れた手で触れる。

 どろり。

 ぬるついた液体は、頬の傷をなぞるように伝い、カイジの顔を汚しながら、滴り落ちていった。






 

 

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