お花見・3


 改めて、春の風に揺れる桜の樹を、カイジは見上げる。
 この裏山に一本だけ、ひっそりと佇む、老齢の桜。
 枝の先でそよ風に揺れる、儚げな白い花を見て、カイジはほんのちょっと、バツの悪さを覚えてうつむく。

 少年の言うとおりだ。咲いてないだの枯れてるだのと、ろくに見もしないまま、この樹の前で喚いたりして。
 たったのひとつだろうと、この樹は確かに、花をつけているというのに。


 ぽりぽりと頬を掻きながら、カイジは少年と、それから桜の樹に向かってぼそりと言う。
「その……、悪かったよ。『咲いてねえ』なんて言っちまって……」
 きまりの悪さを誤魔化すようにぶっきらぼうな口調で謝りつつ、ふっと顔を上げた瞬間、カイジの目が零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。

 枯れていたはずの枝に芽吹いていく、小さな蕾。
 一呼吸の間に枝々を埋め尽くすほど数多に萌出したそれは、みるみるうちに膨らみ、音をたてて弾けるように、次から次へと可憐な花々が開いていく。

 まるで早回しで見ているような開花の光景に、瞬きひとつできぬまま、あんぐりと口を開けてカイジが呆けているうちに、老いた桜はあっという間に満開になり、頭上の青い空を覆い隠すほどに咲き乱れた。

 春風がやさしく枝を揺するたび、はらはらと舞い落ちる花びらは、ほんのりと淡い桃色に色づいている。
 まるで、根元から吸い上げた酒に、したたか酔ったような塩梅で、気まぐれな風に吹かれてざあざあとざわめく音も、気分よく笑っているかのようだ。

 しばらくの間、舞い散る花の中ぼんやりと突っ立っていたカイジは、クスクスと笑う声ではたと我に返った。
 愉快そうに狐耳をぴくぴくと動かしながら、少年はカイジの顔をじっと覗き込んでいる。

 その悪戯っぽい笑みを見て、カイジはなにか言おうと口を開いたけれども、あまりに驚き過ぎてなかなか言葉が出てこない。
 ややあって、ようやくカイジの口からぽつりと発せられたのは、
「お前、花咲か爺さんみたいだな……」
 そんな、間の抜けた感想だった。
「ジーさん? ……なに、それ」
「気にすんな。独り言だ」
 適当に誤魔化され、少年は胡乱げに眉を寄せたが、それ以上なにも追及しなかった。

「桜って、酒好きなのか?」
 こんもりと塊のような花をつけた枝を見上げながらカイジが問うと、少年はこくりと頷く。
「桜は、神霊の依り代だから。当然、神酒には目がない」
 そこまで言って、少年は目を細める。
「誰かさんとおんなじ」
「ほっとけっ……!」
 カイジが言い返すと、少年は可笑しそうに声を上げて笑う。
 その無邪気そうな笑顔にくすぐったい気分にさせられ、カイジもつられて笑った。

 稲荷神直々に酒を賜り、桜はまるで若返ったかのようだった。
 今まで咲けなかった分を取り戻そうとするみたいに、ちいさな花々をいっぱいに咲き誇らせる枝から、粉雪のような花びらが、あとからあとから降ってくる。

 少年は白い顔を上向かせ、うすく開いた口から赤い舌を覗かせて、はらはらと舞い落ちる小さな花びらを、掬い取ろうとしている。
 その白い髪も、すでにたくさんの花弁で飾られていた。

 ーーガキめ。

 カイジが笑いながらからかってやろうとした瞬間、強い風がざあっと吹き乱れた。
 思わず目を瞑りそうになるカイジの視界が一瞬、ピンク一色に染まる。

 息もできなくなるくらいの、花の香り。
 満開の花でずしりと重い枝々がざわざわと揺らめき、埋め尽くされてしまいそうなほど大量の花びらの向こうに、睫毛を伏せ天を仰ぐ少年の、線の細い横顔が見え隠れする。

 その光景に、カイジは息を飲んだ。
 次の瞬間、ほとんど無意識のうちに、降り注ぐ花びらを掻き分けるようにして、カイジは少年の方へと、まっすぐに手を伸ばしていた。


 細い腕を強く掴むと、少年はカイジの方を見る。
「……なに」
 鋭い目は珍しく、驚きに丸く瞠られていた。
 その表情を見てハッとしたカイジは、慌てて少年の腕から手を離す。
「……いや、その……悪い……」
 しどろもどろに謝りながら、カイジはひどく動揺していた。

 急に、不安に襲われたのだ。
 桜の壁に隔てられ、少年がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてーー

 なんて、ポエマーも裸足で逃げ出すようなこっ恥ずかしいことを、一瞬とは言え本気で思ってしまっただなんて。

(そんなこと、死んでも言えるかっ……!!)

 口を手で覆い、カイジはこみ上げてくる羞恥にひとり煩悶する。
 そんなカイジを余所に、少年はカイジに掴まれた自分の腕を、じっと見つめていた。

 いったいどれほどの強い力で掴んだものか、少年の白い膚には、カイジの指の痕が、くっきりと赤く残ってしまっている。

 しばしの間それを眺めたあと、少年は顔を上げた。
「ねえ」
「っはい!?」
 真っ赤な顔で、大袈裟なほどビクッとするカイジに、少年は足音もなく、近づく。
「え……ちょっ、ちょっと……」
 ポーカーフェイスでじりじりと迫られ、カイジは思わず後ずさったが、構わず少年は距離を詰め続け、やがて、カイジの背が桜の幹に、とん、と当たった。
 追い詰められて息を飲むカイジの顔を、少年は至近距離でじっと見つめる。

 整った白い顔の中、紅玉の双眸から送られる、射るような視線。
 カイジの心臓が、ドキドキと騒ぎ始める。

 今、少年はおそらく、神さまの力を使ってはいない。
 それなのに、カイジは今までにないくらい強く、その瞳に惹きつけられてしまった。

 逃げ出したいのに、体が、まったくいうことを聞かない。
 まるで金縛りにあったかのようで、左胸に埋まっている器官だけが、うるさいほど暴れて存在を主張している。
 ついさっきまで、父か兄のような気持ちで少年を見守っていたのが嘘みたいな、おかしな気分になってくる。

 舞い散る薄桃の花びらの中、カイジはごくりと唾を飲み、耳まで紅潮した顔で少年と見つめ合う。

 やがて、微かな衣擦れの音とともに、少年が腕を持ち上げ、カイジの頬を白い指でそっと撫でた。
 ひんやりとした感触に、カイジの体が竦む。

 桜の花とは比べ物にならないくらい赤く染まったカイジの顔を、宝石のように光る瞳で見つめながら、少年は軽く目を伏せ、爪先立ちになって伸び上がった。

 迫ってくる少年の美しい顔に、指一本動かすことのできぬまま、カイジは思わず、ぎゅうっと目を瞑る。
 ふたりの距離が縮まり、今にも重なろうとした、その瞬間。

 ひらひらと舞い降りてきた一枚の花びらが、いたずらにカイジの鼻先をくすぐり、
「ーーッくしゅん!!」
 口を手で塞ぐ暇もなく、カイジは馬鹿でかいくしゃみをした。

「…………」
「あっ! わ、わり……」
 至近距離でまともに毒霧を食らい、地獄の鬼も真っ青の凶相を浮かべる少年に、カイジは慌てて謝る。
 濡れた顔を忌々しげに手の甲で拭いながら、少年は底冷えする表情でカイジを睨みつけた。

 切るような視線に晒されて小さくなりながらも、張り詰めた空気が緩んだことに、カイジは心の底からホッとしていた。

(危なかった……あのまま行ったら、き、キスーーしちまうとこだった……)

 なんだか妙な雰囲気に流されて、少年ととんでもないことをしなくて済んだことに、カイジは胸をなで下ろす。

(キスなんてしちまったら、明日からどんな顔してコイツに接すればいいんだよっ……想像しただけで、軽く死ねるっ……!)

 不機嫌そうな顔の少年から目を逸らし、カイジはひとり赤面する。
 そんなことよりも、少年に迫られたということ、また、少年とキスすることに桜の花びらほどの小さな嫌悪感も湧かなかったという事実をこそ、カイジは問題にすべきなのだが、この鈍い男は、そんなことにまるで気づく気配すらないのであった。



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