水底の灯台



 暗くて深い海の中を、泳いでいるような日々だった。

 ほんのわずか先すら見えない、右も左も上も下もわからない。目標も目印もなにもなく、どの方向に進路を取ればいいのかわからないまま、ただ溺れるように泳いでいる。
 いや……そもそも、自分は『泳いでいる』と言えるのだろうか? 息継ぎすらままならず、もがいてもがいて、無様に黒い水を掻くだけの日常。溢れた涙など、たちまち海水に溶け、混ざり合って消えてしまう。
 上を見上げれば、遥か頭上に光さす水面が揺らめいているけれども、果たして浮上したいのかどうか、自分の願望すらあやふやで。とにかく、なにもかもが中途半端で、宙ぶらりんの毎日だった。

 しかし、そんな日々を無為に食い潰していたある日、オレは灯台を見つけたのだ。
 それは真っ白で、人のかたちをしており、真っ暗な海の底にあっても、凛と立って光っていた。

 初めて出会った日のことを、よく覚えている。
 なけなしの全財産を賭けたギャンブル。相手連中の纏う不穏な空気は嫌というほど感じていたけれど、卑怯な手を使って毟られたのが許せなくて、なにより奴らにまんまと嵌められた自分自身が腹立たしくて、無謀だとわかっているのに、相手に飛びかかるのを止められなかった。
 案の定返り討ちにされ、殴られ蹴られて負け犬みたいに蹲って、でもそんなのはお決まりの展開だったし、歯を食いしばって耐えていた。
 ひとりで耐え抜くのには慣れていた。溢れた涙と鼻血が塩辛くて、海の中みたいだった。

 だが、そんなオレの頭上から、ふいに一筋の光が射した。……その姿を見たとき、冗談じゃなく、そう思ったんだ。

 顔を上げると、噎せ返るような闇の中にくっきりと、浮かび上がるような白い姿があって。
 涙でぼやけた視界の中で、静かに佇んでいる立ち姿に、束の間痛みを忘れてぼんやりと目を奪われていると、急に周囲が騒然として、連中が光に恐れをなしたように逃げていった。
 よく見ると、オレを蹴っていた男がひとり、いつの間にか地面に倒れて呻いていて、この白い男がやったのだと理解する前に、大丈夫かい、と手を差し伸べられた。

 ああ、オレは、助けられたんだ、と。
 そこで初めて気がついて、また、視界がぼやけた。

 傷だらけで地面に這いつくばって見上げるその姿はやけに白く眩しくて、まるで灯台みたいだと思った。

 あのとき、オレは自分の灯台を見つけたんだ。


 ツキから見放されているような自分だが、灯台を見つけられたことは本当に僥倖だった。
 それは遥か遠い場所にあって、どこまで泳いでも辿り着けないような気さえしたけれど、それでも進むべき方角がわかったことで、呼吸はだいぶ楽になった。
 オレのように男を目標にして、泳ぐものは他にもたくさんいるようだった。
 灯台を見つけてから、オレは水面を見上げることをしなくなった。水底に見つけた光に向かって、この暗い水の底の底まで、潜っていこうと思った。いつか灯台に辿り着ける日が来ることを信じて、ひたすら水を掻き続けていた。

 必死だった。死にもの狂いだった。苦しかったけど、以前ほど辛くはなかった。
 でも、ある日突然、灯台は消えてしまった。跡形もなく、忽然と、姿を消してしまったのだ。

 信じられなかった。だけど実際に、眠るようなその姿を見て、信じるしかなくなってしまった。
 呆然とし過ぎて、涙も出なかった。
 着慣れないスーツでだいぶ涼しくなった夜の道をふらふらと帰るとき、ついなんどか振り返りそうになって、その度にそれを踏みとどまった。
 やけに生ぬるい風が頬を撫でて、振り返るな、って言われた気がした。その風は九月の半ばの、あの蒸し暑い夜、長い長い道をオレのうちまで歩いて帰った、あの夜の風によく似ていた。

 隣を歩いていた、白い横顔を思い出す。そのとき唐突に、オレが灯台にしていた彼もまた、水底を泳ぐもののひとりだったのだということに気がついた。
 暗い海の底の底を、オレなんかよりもずっと優雅に、しかし一秒たりと止まることなく、彼も泳ぎ続けていたのだ。
 そんなことに今さら思い至って、オレは唇を噛んだ。もっと彼のことを知りたかったし、話したかったし、近づきたかった。そんな願望が波のように押し寄せてきたけれど、でも、もう遅すぎた。
 相変わらず涙は出なかった。そのことが、彼と自分との距離をあらわしているような気がして、なんだか悔しくなったのを覚えている。


 あれから、もうずいぶん経った。
 いろんなことがあったけれど、今でもときどき思い出す。初めて出会った、あの夜のこと。
 深い闇の中に凛と佇む、白い姿。あのとき、オレは彼を見つけたと思っていたけれど、実際は逆で、オレが彼に見つけられたんだと、今ではそう思う。

 灯台が消えても、光の軌跡は今でも残っている。くっきりと白く、残像のように。
 それを目指して、オレはまた泳いでいくのだ。そうして辿り着く場所はまったく違うかもしれないけれども、彼もまたひとりで泳いでいた、この暗く深い海の中を。

 かけがえのない、その名を口にしてみる。
「赤木さんーー」
 透き通る九月の風のごとく、どこまでも澄み渡っていきそうなその響きが、水底を目指して泳ぎ続けるオレの呼吸を軽くした。







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