虎の尾を踏む 短文
「前々から思ってたんだけどよ、カイジ」
三和土に立って革靴を履く白いスーツの後ろ姿を眺めながら、カイジは「はい」とぼんやりした返事をする。
ここ最近急に寒くなってきたから、うすい寝巻きに裸足のままでフローリングの床の上に立っていると、あっという間に足裏から体が冷えてくる。
七部丈のパンツのポケットに手を突っ込んだまま、カイジが軽く身震いしていると、靴を履き終えた赤木がくるりと振り返り、呆れたように言った。
「お前なんだって、いつもそんな難しい顔で見送るんだよ」
しなやかな白い手がつと顔の前に伸ばされて、カイジは息を飲む。
反射的にぎゅっと目を瞑って身を竦ませると、眉間に乾いた長い指がぴたりと押し当てられた。
そのまま、無意識にそこに寄せていた縦皺を伸ばすように擦られ、クスリと笑われる。
……あんたのこと、心配してんだろうが。
口には出さず、カイジはうすく目を開くと、さらに顔を険しくして赤木を睨みつけた。
赤木が代打ちを引き受ける麻雀は、ヤクザが絡むようなキナ臭く、それも大掛かりなものばかりで、敗れればいくら神域の男とて、ただで済まされるはずがない。
赤木が負ける可能性など、ほぼ皆無だとわかってはいるけれども、完全にゼロだと言い切ることができない限り、カイジがこの年上の恋人を心配してしまうのも、当然のことだと言えよう。
むっつりと押し黙ってしまったカイジに、赤木は細い眉を上げる。
「いってらっしゃいのキスくらい、してくれたっていいんだぜ」
カイジの気持ちを知ってか知らずか、そんな軽口を叩いて、皺が深まる一方のカイジの眉間を、赤木は指で軽く弾いた。
『神域の男』を心配するだなんて烏滸がましいことなのかもしれないし、他愛ない赤木の軽口や、揶揄われることには慣れっこなのだが、真面目に心配している自分を茶化されたみたいで、カイジはちょっとムッとした。
……ふざけやがって。オレがどんな気持ちで、あんたを……
「じゃあな」
そう言って、赤木は踵を返そうとする。
このまま出て行かせるのは、ものすごく面白くない。
そう思うのと同時に、カイジは赤木の方へと腕を伸ばしていた。
後先なんて考えていない、衝動的な行動だった。
白いスーツの襟をぐいと掴んで乱暴に男を引き寄せ、無理やり唇を重ね合わせて舌を捻じ入れる。
心配、だとか、大好き、だとか。
普段言えそうで言えなくて、ずっと喉許に蟠りつづけている言葉も、唾液に溶かして一緒に捻じ込んでしまうつもりで、深く深く舌を絡めた。
赤木は別段、動じた様子もなく、突然のカイジの行動を静かに受け入れている。
赤木があまりに微動だにしないので、いったいどんな顔でこの八つ当たりのような口づけを受けているのか、見るのがすこし怖くなってきて、カイジはずっと、固く目を瞑っていた。
息が苦しくなってきたところで唇を離し、は、と深く息をついたあと、カイジはゆるゆると瞼を持ち上げる。
赤木は、真顔でカイジを見つめていた。
淡い色をしているのに、こんな至近距離でも底を見通せない不思議な瞳を見返しながら、カイジは出来るだけにこやかに、赤木に向かって笑ってみせる。
「いってらっしゃい。……で、もう帰ってこなくていいです」
心配でたまらない本心とは裏腹の、まったく思ってもいないことを、淡々と吐き捨てる。
苛立ちに任せて挑発的な態度を取るカイジを、赤木はただひたすら、じっと見つめ続けていて、カイジは間近で斬り込まれるような、視線の鋭さに怯みそうになる。
それでも、目を逸らしたくなるのをどうにか堪え、カイジは虚勢を張ってその双眸を睨み返していた。
すると、なんの前触れもなく赤木の手がスッと伸びてきて、後頭部をグッと強く押さえつけられた。
「……ん……ッ!」
強引に重ねられる唇。
カイジは見開いた目を白黒させる。思わず、押し殺した声が漏れた。
微動だにしなかったさっきのキスが嘘のように、荒々しく傲慢にカイジの口内を這い回る舌。
まるで吐息すら絡め取って奪おうとするようで、混乱に瞠目するカイジの視界の中、眩しいほど白い瞼と短い睫毛に囲まれた瞳には、ひどく獰猛な色がハッキリと滲んでいた。
本能的な恐怖に竦み、後ずさりしようとするが許されず、頭が痛むほど強く押しつけられてさらに口づけを深められる。
頻繁に角度を変えては口内を蹂躙され、飲み込みきれずに溢れた唾液がカイジの唇の端から滴り落ちる。
意味のある言葉など、もはや一言も紡げない。ひたすら、呼吸を保つことだけで精いっぱいで、カイジは赤木の胸のあたりを、縋りつくようにぎゅっと掴んだ。
先ほど自ら仕掛けたキスとは比べ物にならないほどの苦しさに、生理的な涙がじわりと膨らんでくる。
それでも離してもらえなくて、じわりと恐怖に駆られたカイジがくぐもった悲鳴をあげる頃、ようやく赤木はカイジを解放した。
透明な糸がふたりを繋ぎ、すぐに切れ落ちる。
背を丸めて激しく噎せながら、カイジは必死に苦しい呼吸を整えた。
酸欠で虚ろに潤んだ大きな目からひとすじ、つうと涙が零れ落ち、赤木はそれを舌で掬い取ると、カイジの耳許に唇を寄せて囁いた。
「すぐに終わらせて帰るからな。……覚悟しとけよ、お前」
鼓膜を擽る湿った声に、カイジの背がゾクリと粟立つ。
赤木はニコリともしないまま、荒っぽい手つきでぐしゃぐしゃとカイジの髪を乱すと、踵を返して出て行った。
玄関の扉が閉まる音を聞き、思い出したようにカイジはその場にヘナヘナとへたり込む。
ひとりになった部屋に響く、秒針が時を刻む音を聞きながら、しばらく惚けたように虚空を眺めていたが、やがて、赤木の表情や息の根を止めるようなキスを思い出すと、寒さのためではなくぶるぶると胴震いした。
(なんか……すげぇ、怖かった……)
背を丸め、はーっ……と深く息をつく。
赤木は珍しく、本気で苛立っているように見えた。
出会ってから今まで、カイジはあんな赤木を見たことがなかった。
赤木があんな、取るに足らない挑発に乗ってくるだなんて、夢にも思わなかった。
眉間を小突かれたときみたいに、軽くあしらわれるものだとばかり思っていたのに。
鋭い目の奥にちらついていた、静かに燃える炎のような色を思い出し、カイジの背筋がぶるりと戦慄いた。
「帰ってこなくていい」という言葉がカイジの本心ではないことくらい、当然、赤木は見透かしているだろう。
それがわかっていてもなお、その一言が、ああまでも赤木の不興を買ったのだとしたら。
カイジは知らず虎の尾を踏んづけてしまった恐怖に慄きながらも、同時に体の芯がカッと熱を持つような、奇妙な高揚を覚えた。
「帰ってこなくていい」などという挑発に、本気の苛立ちを覗かせるその男は、紛れもなく自分の恋人なのだ。
それを再認識させられるようで、ゾクゾクと体が痺れ、鳥肌がたつ。
無意識に手を擡げ、熱くなった耳を触る。
蘇るのは、鼓膜を焦がすような赤木の声。
『……覚悟しとけよ、お前』
(オレ、殺されちまうかも……)
赤木が帰って来たときのことを考えると、怖くて体が竦み上がるのに、心臓は期待に逸るように鼓動を速め、沸き立った血を全身に送る。
帰ってきた虎に骨も残さず喰い殺されるのを想像すると、もう涙ぐむくらい興奮してしまって、カイジは自分のダメさ加減に項垂れつつも、虎の帰りをそわそわと心待ちにしてしまうのであった。
終
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