Coyote 過去拍手お礼





 その男の名を、アカギは久々に耳にした。

 代打ちを引き受けた組の組長が、「面白い男がいるらしい」と世間話のつもりで口に出したのが、その男の名だったのである。

 深夜のスナック。
 隣でグラスを傾けていたアカギの手が止まったのを見て取って、組長はわずかに眉を上げる。

「お前、その男と知り合いか?」
 アカギはすこし目を伏せ、唇に笑みを乗せて答えた。
「まあ……昔、ちょっと」

 呟いて、それ以上は語ろうとしないアカギに、組長も深入りせず、そうか、とだけ答え、グラスを干した。



 その男は最近、裏社会で注目を浴びているらしい。
 組長がまことしやかに語る男についての数々の噂に耳を傾けながら、その男とともに過ごした日々を、アカギは思い出していた。


 怠惰でお人好しで、すぐに人を信じては煮え湯を飲まされ続けている、甘い男だった。
 それでいて、時にハッとするほどの才気で、勝負の場に嵐を巻き起こす、稀有な輝きを放つ男だった。

 その男と離れて何年になるか、アカギはもう覚えてはいなかったが、思いがけずこんな形でその名を耳にして、アカギはすこしだけ、愉快な気分になった。

 元気そうじゃない。

 心の中だけでそう呼びかけて、グラスを口に運ぶ。



 静かに笑うアカギの横顔を眺め、組長はわずかに驚く。
 懐かしんでいるような、どこか嬉しそうな。
 なんどか代打ちを依頼して、こうして酒を酌み交わす機会もあったけれど、アカギのこんな表情を見るのは初めてだった。

 どうやら、結構な親しい間柄だったようだ。アカギにそんな存在がいたことにさらなる驚きを隠し得ぬまま、組長は男の話を続ける。

「野良犬のような男だと蔑まれることも多かったが、近ごろではその評価も覆りつつあるらしい」
「野良犬」

 呟いて、アカギはくつくつと喉を鳴らす。

「オレも、最初はそう思ってたけど。実際そんなかわいらしいもんじゃないでしょ、あの人は」

『あの人』という親しげな呼び方に目を丸くしたあと、好奇心を掻き立てられるまま、組長はアカギに詰め寄る。

「なんだ? その男、犬に見えて実は狼だとでも言いたいのか?」

 眉を寄せる組長に、アカギはさらに首を横に振る。

「それも、ちょっと違うかな」
「じゃあ一体、何にだったら例えられるんだ? お前から見た、その男の印象は」

 痺れを切らしたように問いかけられ、記憶の中の横顔を頭の中でなぞりながら、アカギは考える。


 数々の神話を持ち、犬とも狼とも、似て非なる生き物。
 ヒトに易々と騙され、追い詰められているかと思えば、時には悪魔や神すらも鮮やかに欺いて番狂わせを起こす、まったく異なる二つの顔を持つその獣の名を、アカギは笑って口にした。







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