絆される



 肌寒い朝。
 まだ外も薄暗い時間に、ベッドからするりと滑り出て、床に落ちている服を次々と身に着けていく白い背中を、布団の中からカイジは睨むようにして見つめていた。

 最悪だ。目を覚ましちまうなんて。その背中を見送るなんて真似、ぜったいにしたくなかったのに。
 オレが寝てる間に、もっとスマートに出て行けねえのかよ。いつもはそうしてるだろ、なんで今日に限って。

 声には出さずに毒づいて、カイジは軽く唇を噛む。

 つきあい始めた当初から、カイジはうすうす勘づいていた。
 この男とは、相性が悪い。
 と言っても、性格や体の問題ではない。むしろそれらの相性は良い方で、ふたりの間には波風ひとつたたず、だがそれゆえ、カイジはアカギと関係を持つのではなかったと、ときおりひどく後悔するのだ。

 寝てしまったら、どうにも離れがたくなった。
 アカギの方はなんとも思っていないだろうが、自分のような情の強い人間がアカギとつき合うということは、茨の道を裸足で突き進むような愚行なのだということに、カイジは気づいてしまった。
 いつも自分の知らない場所をふらふらして、いつ死んでもおかしくないような刹那的な生き方をして、そんな風にしか生きられない赤木しげるという男を好きになってしまったことは、小さくはない苦悩をカイジにもたらした。

 この狭い部屋を出る朝、男はいつも、カイジが眠っている間にいつの間にか消えている。
 体の裏表がひっくり返ってしまうような行為を散々しておいて、なにも言わずにいなくなる。それはそれで怨みごとのひとつも言いたくなるのだが、こんな風にその背中を見送るのは、気分的にもっと最悪だった。
 顔なんて見たら、声なんて聞いたら、きっと後悔するに違いない。アカギがこの部屋を出て行くことは、いつだって誰にも覆せない決定事項なのだから。
 だから声もかけられないし、触れることだって、もちろんできない。ただ男を見送ることしかできなくて、そんなことするぐらいなら、目覚めたときにいなくなっていてくれた方が多少はマシだと、カイジは思うのだ。

 お前なんか。

 逆恨みのようにして、カイジは思う。
 しかしその後に続く言葉をどうしても見つけることができなくて、カイジの眉間に刻まれた皺はますます深くなる一方だった。



 男は服をすべて身につけ、常に携行している鞄を手に取る。
 そのまま出て行くものと思いきや、白い面がくるりと自分の方を振り返ったので、カイジは慌てて目を閉じた。

 内心、冷や汗をかきながら寝たふりをするカイジの耳に、ゆっくりと床を踏んで近づいてくる足音が、ひとつ、ひとつと飛び込んでくる。

 やがて、ベッドの傍らにアカギの立つ気配がして、カイジはわけもなく全身を緊張させた。
 眠ったふりをしているカイジの顔を、じっと眺めているような沈黙のあと、アカギは静かな声で言う。
 
「……起きてるんでしょ? 世話になったね」

 確信的な物言いにカイジは内心飛び上がったが、ここで目を開けるのはなんとなく癪だし、なによりこれから出て行こうとする男の顔を今、見てしまうわけにはいかないから、カイジはかたく瞼を閉じ合わせたまま、狸寝入りを続ける。

「……」

 ふたたび、沈黙。
 アカギがどんな顔をしてそこにいるのか、カイジは見ることができないが、その視線が己に注がれているのを感じて、突き刺さるようなそれにじりじりといたたまれなさが募ってくる。


 と、ふいにアカギの気配がぐっと近くなり、カイジの心臓が跳ねた。
 ふわりと漂うハイライトの香。自分を男から離れがたくさせるそれを、まともに嗅いでしまったカイジが「あ、マズい」と思うのとほぼ同時に、乾いた大きな掌がカイジの鼻と口をピタリと覆うように被さってきた。
(……?)
 謎の行動に内心首を傾げつつも、カイジはそのまま寝たふりを続けていたが、当然、段々と息が苦しくなってくる。
 それでもどうにか頑張ろうとしたものの、頭がクラクラしてきた段階でいよいよ命の危険を感じ、とうとう目を開いてしまった。

 アカギと目が合うと、鼻と口を覆っていた掌はすんなりと離れ、その瞬間、カイジは体を折って激しく咳き込む。
 ベッドの傍らに膝をつき、そんな自分をのほほんと眺めているアカギを、真っ赤な顔と充血した涙目で、カイジはギロリと睨みつけた。
「っは、お、前っ、ぁにしてん、だよっ……!」
 酸欠と咳のせいでところどころ声を途切れさせながらも、カイジはアカギをどやしつける。
「起きてるくせに返事しないから、あんた、死んじまったんじゃねえかって思って」
 涼しい顔でそんなことを言うアカギに、カイジの怒りのボルテージは急上昇した。
「たった、今っ……! そう、なりかけたわっ……!」
「よかった」
「なにがだっ! ちっとも、よかねぇっ……ん、むっ……」

 いきなり口を塞がれ、カイジは目を白黒させる。
 今度は掌ではない。アカギの唇が被せられたのだ。
 思いもよらぬ行動に息苦しさも忘れ、きょとんと見開かれた目で瞬きを繰り返すカイジを、至近距離で見つめたあと、アカギはそっと、唇を離した。

「……あんたが生きてて、よかったよ」
 完全に硬直してしまったカイジに、すまし顔でかけられたのはそんなふざけた言葉で、カイジは怒ろうとしたけれど、間近で笑うアカギの顔を見たら、中途半端にその気も削がれてしまった。
「……次やりやがったらマジ、殴る……」
 そんなことをグダグダ言ってないで、今すぐ殴ればいいものを、我ながら甘い。大甘だと情けなくなりながらカイジがぼそぼそ言うと、その甘さにつけ込むように、アカギはニヤリと笑う。
「それって、鼻と口を塞いだこと? キスしたこと?」
 調子に乗った問いかけに、カイジはますますムスッとしたが、しばしの沈黙ののち、
「……前者」
 と律儀に答える。
「そう。じゃあ、キスはもう一回、してもいい?」
 内緒話でもするような声でそう囁かれ、カイジにはもう頷く以外の選択肢などなく、むくれた顔で目線を逸らしつつもわずかに顎を引けば、すぐにまた、よく馴染んだ感触が重なってくる。
 歯を磨いたばかりなのか、その息も舌もひんやりとしていて、ああそうだ、コイツはこのあと部屋を出て行くんだったと、カイジは思った。

 ひどい男だ。人の気も知らずに、こんなことをするなんて。
 いや、この男のことだ。自分の気持ちなど、手に取るようになにもかもすべて見透かしているのかもしれない。
 その上でこんなことをしているのであれば、なおのこと残酷だと、カイジはやはり、アカギのことを恨めしく思う。
 
 お前なんか。

 声に出さずにそう呟いて、それでもやはり、カイジはその先にどうしても言葉を続けられない。
 惚れ抜いている。嫌いになどなれるはずがないのだ。
 それがどんなにしんどい恋の相手であっても。

 絆される。ままならないその感情。

 逃れられない業のようなそれをやむなく受け入れるように、カイジはゆっくり、瞼を閉じた。








[*前へ][次へ#]

25/35ページ