猫と逆鱗



 しげるが眠っている。

 この季節には珍しくよく晴れ、気温の高い午後。
 ついさっきカイジの部屋に転がり込んできたしげるは、すぐにベッドに直行してすやすやと寝息をたてはじめた。
 挨拶もなしに上がり込んでベッドを占領する厚かましさにカイジは閉口したが、きっと徹マンかなにかで疲れてるんだろう。
 しばらくはそっとしておいてやるかと思いながら、カイジはテレビのボリュームを下げ、食べかけだった昼飯のカップ麺の残りを啜り始める。

 窓からは目を刺すような、昼下がりの白っぽい日差しが燦々と部屋に差し込んでいて、宙を漂うホコリをきらきらと光らせている。
 これ食い終わったらひさびさに掃除でもするか、などと思いながら大盛りのカップ麺を食していたが、スープの一滴も残さずきれいに平らげると、とたんに物憂くなった。

 ベッドに背中を預け、カイジはしばしぼんやりとする。
 満腹感に浸りながら、放心の体で見るともなしにテレビを眺めていると、ここ最近では稀な部屋の暖かさも相俟って、すぐに瞼が重くなってきた。

 振り返ると、ベッドの上で、しげるが背中を丸めて眠っている。
 寝心地が良いとはけっして言えないであろう、安物の固いマットレスとうすい掛け布団に挟まれて、それでもしげるは心地よさそうに寝入っていた。

 その寝姿を眺めるうちに眠気がピークへと達し、カイジはしげるを起こさないようにそっと布団を捲り、その隣に潜り込んだ。
 いつもはつめたい布団も、高い気温としげるの体温のおかげで、ぬくぬくと暖かい。
 まるでここだけ一足先に春が訪れたかのようで、腹がくちくなったのも手伝って、とても満ち足りた気分になった。

 しげるは壁に背を向け、体をまるくして眠っている。
 その様子が、なんだかとても猫じみて見えた。
 カイジが自分の片腕を枕に横になると、ベッドが狭いせいで、抱き合っているのとほぼ変わらない距離感になる。

 向かい合ったしげるの寝顔が近い。
 白くやわらかい髪、血の気の薄い清潔な頬。
 短い睫の縁取る瞼はしっかりと閉じ合わせられており、うすい唇があえかな寝息をたてるのに併せ、ときおり神経質そうに痙攣するのだった。

 安心しきっているように見えて、実は眠っている間でも周囲の気配に神経を尖らせているのではないかと、普段の動物じみたしげるの鋭さを知っているカイジには思えてならず、そう思って眺めているとなおのこと、その姿はすらりとしなやかな若い白猫のように見えてくるのだった。

 とろとろとまどろみに落ちかけているカイジの目には、真っ白な毛で覆われた猫耳としっぽさえ見えるようだった。
 無論、それが単なる錯覚であることは、カイジにもわかっている。
 それでも、普段の気まぐれで生意気な態度を知っているからこそ、それが寝顔の下にすっかり隠れている今のしげるは、やはり白くてふわふわとやわらかい愛玩動物めいて見えるのだった。

 半分以上眠りに落ちた状態で、夢と現のあいだをぷかぷかと漂う心地よさの中、カイジは飼い猫にするような手つきでしげるの頭を撫でる。
 さらさらな髪の感触が冷たくて、カイジは無心に手を動かした。
 いつもならしげると一緒に眠ってもこんなことしないはずのカイジである。すでに半ば朦朧とし、夢の中へと片足を突っ込みかけているのであった。

 あたたかい部屋、あたたかいベッド。ほどよく満たされた腹と、快いまどろみ。
 そして隣には、猫……のような、少年。

 惰眠を貪るのに、これほどの好条件が整っているのだ。
 カイジの意識などもはや風の前の塵といった具合で、安らかな夢の世界へ押し流そうとしてくる圧倒的な力の前に、カイジが完全に落ちるのも時間の問題だった。

「それ、やめて」

 カイジの意識が、ふいに現実へと揺り戻される。
 声の主はいつの間にか切れ長の目を開いていて、至近距離にあるカイジの顔を、ひどく不機嫌そうに見つめていた。
『それ』とはいったいなんのことだ、と、半分寝たままカイジは考え、惰性のように動いてしげるの頭を撫で続けている自分の右手に気がついた。

 これか、と思いながらしげるの顔を見て、カイジはニヤリと笑う。
 未だ半分眠りの中にいるカイジには、怒った顔のしげるが、まるで毛を逆立てる猫のように微笑ましく見え、
「だってお前、猫みてぇだから」
 そう言って目を細めたまま、手を退けようとはしなかった。

 しげるは眉間に刻まれた皺をさらに深くしたが、カイジの手を払いのけるようなことはせず、抗議の視線を送りながら、黙り込んでいる。
 起き抜けのためか、しげるにしてはおとなしいその反応と、半ば覚醒しきっていない意識とが、カイジを増長させた。
 こうやっておとなしくしてると、こいつもかわいらしいもんだな……
 などと思いながら、カイジは頭を撫でていた手をそのまま下へずらしていく。
 滑らかな頬の丸みを確かめるように撫で、子供らしさを集約させたような頤の下、まだ未発達な喉仏のちょうど上あたりを、指先でこちょこちょと擽った。
 もはや寝落ちも時間の問題で、瞼がほぼ閉じきっているカイジには、しげるがほとんど本物の猫みたいに見えていて、
「よしよし」
 喉を擽りながら、そんなことまで言った、その瞬間。
「! いってぇ……!?」
 右手に走った強い痛みに、カイジは目を見開いて絶叫した。
 その隙にしげるは素早く起き上がり、カイジの右手を捻り上げたままその腹の上に飛び乗る。
「ぁぐっ」
「やめてって言ったよね? なのに、どうしてしつこく猫みたいに扱ってくるの?」
 全体重をかけて腹部を圧迫される苦しさと、いつもよりずっと低い声の響きで、カイジはハッキリと目が醒めた。

 能面のような表情。
 凍てつく瞳でまっすぐ射るように見下ろされ、カイジは総毛立つ。

 カイジはようやく悟った。
 捻りあげられている右手が、しげるの逆鱗に触れてしまったのだということ。

「あれだけオレの嫌がること、したってことはさ。同じように嫌なことされても、文句言えないはずだよね?」
 ニコリともせずに事実上の死刑宣告をされ、カイジの全身からサーッと血の気が引いていく。

 目の前にいる少年は猫などという可愛らしい生きものなどではなく、喉を撫でられて喜ぶどころか、むしろそこに逆鱗を持つ怪物に近いのだ。
 夢見心地から覚めた瞬間、そんなわかりきっていた事実に気付き、己の愚かさにカイジは絶望する。

「わ、悪かったっ! 許してくれっ……!!」
 青ざめて平謝りするが、時すでに遅し。
「いいよ、謝んなくて。オレも、謝らないからさ」
 今にも舌舐めずりしそうな、邪悪な表情でしげるは言い、カイジがなにか言う隙すら与えず襲いかかる。


 こうして、この一見猫のような怪物の逆鱗に触れてしまったカイジは、頭からつま先まで余すところなく、おいしく頂かれてしまうのだった。






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