神無月 ケモ耳しっぽ注意



 秋も深まる十月の、ある日の昼下がり。
「最近の天気予報って、本当アテにならねぇんだよな……」
 そんなことをぶつくさ言いながら、俄に降り出した雨に濡れてしまった洗濯物を、カイジは大急ぎで取り込んでいた。
「おいっ……! のんびり寛いでないで、お前も手伝え、居候っ……!!」
 ベッドに背を預けてダラダラとテレビを眺めていた少年は、大きな狐耳をぴくりと動かしてカイジを見る。
「なんでオレがそんなことしなくちゃならねえんだ。人間ごときがオレをこき使おうなんざ、思い上がりも甚だしいぜ」
「お前こういうときばっかり、神さまの威光を笠に着やがるよな……」
 わがままな子供の神さまとの暮らしにすっかり慣れてしまったカイジの、まさに神をも恐れぬ物言いに、少年はムッと眦を吊り上げた。

「だいたい、そんなに文句ばっか言ってるのに、なんで毎日観てるの? これ」
 少年はテレビの画面を指さす。
 ちょうど、情報番組の合間の天気予報が流れていて、溌剌とした美人の気象予報士が、明るい声で前線の動きなんかを伝えていた。
「え? なんでって……そりゃ、お前……」
 テレビ画面をチラリと見て、カイジは意味深に口籠もる。
 少年は一瞬首を傾げたが、すぐにピンときたように、耳をまっすぐに立たせた。

「こういうオバサンが好みなの? あんた」
 鼻白んだような顔で少年が言えば、
「なっ……、お、オバサン言うなクソガキっ……!」
 カイジはなぜか顔を赤くして怒る。
 笑うとえくぼのできる、小顔の愛くるしいお天気お姉さんは、当たり前だがふたりの諍いなど与り知らぬように、画面の中で喋り続けている。
「この人、あんたより年上だよね?」
「そうだけどっ……お前にオバサン呼ばわりされるほど、年増じゃねえよっ……! まだ二十四だって、こないだテレビで……!」
「ふーん、詳しいんだ」
 しっぽを大きく揺らし、「オレには理解できない趣味だね」とせせら笑う少年に、カイジは額に青筋を立てながらも、引きつった顔で笑みを作る。
「まぁ……まだ当分、この人の良さはわかんねぇだろうな。お前みたいなションベン臭いガキには」
 その言い草に少年は白い毛を逆立て、ぐるる……と低く喉を鳴らした。

 しばし、野良犬と野生の狐のように剣呑な目つきで、ふたりは睨み合う。

 ややあって、先に目を逸らしたのは少年の方だった。
 細い眉を寄せたまま、バカバカしいというように、目を閉じて軽くため息をつく。
「まぁ、いいさ。そうやってあんたがオレのことガキ扱いし続けるんなら、こっちにだって考えがある……」
 呟きざま、すっくと立ち上がった少年に、カイジはちょっとビクッとした。
「なっ……なんだよっ……!」
 身構えるカイジを無視し、少年は玄関へと向かう。
「おっ、おい……どこ行く気だ? まさか……家出……?」
 少年の後を追いながら、カイジはつい、思春期の不良息子を心配するような口調になってしまう。
 カイジをぐるりと振り返り、少年は明らかに苛立ちを滲ませた声で答えた。

「出張だよ。もうすぐカンナヅキだろ?」

 思いがけぬ少年の返答に、混乱したカイジはおうむ返しで問う。
「出張? カンナヅキって……」
「イズモへ行くんだよ。しばらく帰ってこないから、そのつもりで」
 そこでようやく、『カンナヅキ』は『神無月』を、『イズモ』は『出雲』のことなのだとカイジは理解する。

 なるほど、それなら合点が行く。
 日本中の神さまが出雲に集う月。八百万の神の端くれである少年にも、出雲へ『出張』する義務があるのだろう。
 カレンダーの十月はもう終盤に差し掛かっているが、神さまの暦は現在使われているものとは多少、ズレているのに違いない。

 そこまで考えて、まてよ、とカイジはある事に思い当たる。
「お前、去年の今ごろはずっとうちにいたじゃねえか」
 カイジが指摘すると、少年はなんでもないことのように、
「ああ……去年はサボったから。麻雀覚えたてで、雀荘に入り浸ってた」
 などと宣う。
「え〜……」と顔を引きつらせるカイジを余所に、少年はさっさとスニーカーを履き、耳としっぽを隠して言った。
「そういうわけだから。寂しくても泣いたりすんなよ、おっさん」
 ニヤリと笑って憎まれ口を叩く少年に、
「お前こそ、ホームシックになって逃げ帰って来んじゃねえぞ」
 と、カイジは応酬する。
 少年は愉快そうに喉を鳴らし、ドアを開けて外へと出て行った。

 あまりに唐突すぎる展開に、カイジはしばらくぽかんとしたまま玄関先に突っ立っていたが、やがて激しさを増してきた雨音にハッとして、
「やべっ……洗濯物っ……!!」
 と叫ぶと、大急ぎで居間へと取って返したのだった。



 神在月の出雲に集った神さまたちは、来年のことについて会議をしたり縁結びの相談をしたりする……と、人間の間では言われているらしい。
 年に一度の大きな会議なのだし、決して少年のように、『思い立ったが吉日』というような軽いノリで行くようなものじゃないのでは、とカイジは無性にツッこみたかったが、少年は宣言していたとおり、その日からずっとカイジの部屋に帰ってこなくなった。
 ちょっと近所のコンビニまで出掛けただけで、すぐに帰ってくるのではないかとカイジは怪しんでいたのだが、そんなこともなく、カイジはちょくちょく神社を覗いてみたりもしたが、少年の姿は見受けられなかった。
 どうやら、嘘を言っていたわけではないらしい。


 ……と、いうわけで、カイジは急に一人暮らしの生活へ舞い戻ることとなった。
 最初の数日こそ、やけに広く感じる部屋に戸惑ったりもしたカイジだったが、もともと一人の生活が長かったので、すぐに感覚を取り戻した。

 久方ぶりに少年との同居から解放されたカイジの生活は充実していた。
 好きなときに好きなことをして、パチンコや競馬もやりたい放題。少年がいるときにはちょっとだけ頑張っていた料理も、まったくしなくなって、あっという間に三食コンビニ弁当かカップ麺という不摂生な生活に逆戻りである。

 誰にも邪魔されない生活の、なんという開放感。存分に羽を伸ばしながら、なんだかんだで自分はひとりが好きだったことを、カイジはしみじみと思い出したのだった。



 しかし、十月のカレンダーを破る頃になると、カイジはちょっとだけ、今ごろは出雲にいるであろう少年のことが気にかかり始めた。
 一年以上ひとつ屋根の下で過ごしている相手なのだ。お人好しのカイジでなくとも、情のひとつくらい湧いてしまうのが人の性というものだろう。
 バイト先のコンビニのチキンを、少年が好んで食べていたことを接客中にふと思い出したり、よくふたりで歩いた銀杏並木がすこしずつ色づき始めているのを見て、隣に誰もいないことに違和感を覚えたり。

 カイジが特に少年のことをよく思い出すのは、就寝前だった。
 最近は肌寒くなってきて、ひとりで眠る布団が冷たい。
 口酸っぱく注意しても床で寝入ってしまう少年を、抱き上げてベッドに運ぶ習慣もなくなって久しく、今じゃ懐かしさすら感じる。
 なにより、あのふかふかの、カイジ専用のしっぽ枕がなくなってしまったのが、地味にストレスだった。

 今日も今日とて、労働を終えたカイジはシャワーを浴び、クタクタの体をベッドに預ける。
 少年と暮らすようになってからお役御免になっていた安物の枕を、最近ふたたび使うようになったが、一度しっぽ枕の心地よさを知ってしまったカイジには、もはや硬すぎて寝心地が悪い。心なしか、少年がいた頃に比べ、眠りも浅くなった気がしている。
 しかし、そんな枕でも無いよりはマシだ。カイジは深くため息をつくと、寝具の冷たさに身震いしながら目を閉じた。

 今ごろ、少年はどうしているのだろう。
 ちゃんと会議に出席しているのだろうか?
 去年はサボっていたというから、えらい神様から大目玉を食らっていたりして。
 神さまでも普通の中学生みたいに、日頃の素行の悪さについて説教されてたりするんだろうか。

 今はそばにいない少年へと想いを馳せているうち、己の体温で布団も温まってきて、カイジはとろとろと眠くなってくる。

 ……ちゃんと、帰ってくるよな? あいつ……

 そんなことをつらつらと考えている間に、カイジは自分でも気づかぬうちに、深く寝入ってしまっていた。






 その晩、カイジは夢を見た。


 月明かりだけが照らし出す闇夜。
 白い玉砂利が敷き詰められた、見知らぬ開けた場所に立っている。

 傍には大人数人がかりでも腕が回りきらないような、とても大きな樹が立っている。その幹はなぜか、雪で覆われているかのように真っ白に染まっていた。
 目線を上げると、頭上を覆うのは瑞々しい緑色の葉。その先の方がやはり、氷柱のように白く垂れ下がっている。

 どうやら、その白いものは雪ではないらしい。その正体を見極めようとするが、月の光だけではどうにもうまくいかない。
 それでも目を眇め、カイジが四苦八苦奮闘していると、
「なにしてるの?」
 笑みを含んだ低い声に、そう話しかけられた。


 声のした方を見ると、いつの間にか、数メートルほど離れた場所に、ひとりの男が立っていた。
 男はカイジと目が合うと、砂利を鳴らしてゆっくりと近づいてくる。

 足音が近づくにつれはっきりとする男の容姿に、カイジは目を瞠った。
 雪白の髪、紅玉の瞳。闇の中光るような白妙の衣と、深緋の指貫にははっきりと見覚えがあった。
 そしてなにより特徴的な、三角の耳と狐の尾。

 ちょうどカイジと同じ年ごろであろうその男は、少年をそのまま大人にしたような姿をしていた。


 呆気にとられて固まっているカイジの目の前で立ち止まると、男は面白そうにカイジの反応を眺め、鋭い目を弓形に細める。
「ひさしぶり」
「おっ、お前っ……!」
「あんたがオレを恋しがってるみたいだったから、会いに来てやったよ」
 喉を擽るような笑い方にも聞き覚えがあって、カイジは目の前にいる男の正体が少年なのだと確信する。
 なぜ、とか、どうやって、とか、いろんな疑問で頭の中がいっぱいになり過ぎた結果、カイジは男の姿を穴が開くほどじろじろと見て、
「でかくなったな、お前……しばらく見ない間に……」
 とだけ、呟くので精一杯だった。

 落ち着いてよく見てみると、少年には一本しかなかったはずのしっぽも、男には三本生えている。
「神さまは成長が早えんだな……」
 ため息混じりに驚嘆するカイジを見て、男はどこか得意げな様子で耳をぱたりと動かした。
「仮の姿だけどね。他の神連中から毟り取った霊力で、一時的にこの姿になってるだけ」
 さらりと言い放たれた言葉を、カイジはもちろん聞き逃さなかった。
「お前っ……! まさかそれが目的で出雲に出向いたのかよっ……!?」
「あたりまえじゃない。そうでもなけりゃ、誰が好き好んでこんなつまんない会議に顔出したりするかよ」
 腕組みをしてつけつけと言う男に、カイジは呆れ果てる。

 おかしいと思ってはいたのだ。あの少年が、真面目に『出張』だなんて。
 だけどまさか、一年に一度の大切な会議の合間に、他の神さまと博打で遊んで、あまつさえ負かした相手から力まで毟り取っていたなんて。
 氏子が知ったら卒倒しそうな、悪童の所業である。

「お前、マジで天界に帰る気あんのかよ……?」
 ため息まじりの声もどこ吹く風、男は三本のしっぽをゆらりと揺らし、カイジに近づく。
「そんなことより。……どう?」
「は? なにが……?」
 要領を得ぬ返事に、男は苛立ったようにずいとカイジに迫る。
「あんたがオレをしつこくガキ扱いするから、ちょっと育ってみたわけなんだけど。どうか、って聞いてんの」
「ど、どうって……」
 至近距離で顔を覗き込まれ、カイジはたじろぐ。

 青白い月明かりの下、男の姿はふんわりと淡く光っている。
 神々しいその姿は、まるで地上に現れたもうひとつの月のようだ。
 毛並みや瞳の色は少年と変わらないし、凛とした立ち姿や涼やかな面差しにも少年の名残が確かに感じられるのに、まったく別の神に見えるのは、静謐な凄みを増しているせいだろうか。
 端整な白面の中で、切るような鋭さを宿すふたつの赤い瞳に射抜かれると、心の中のどんな嘘や誤魔化しも暴き立てられてしまいそうで、疚しいことがなくてもヒヤリとしてしまう。

 男の醸し出す雰囲気に気圧され思わず後ずさりながら、あらゆる語彙を尽くしても形容し尽くせぬようなその荘厳さを、カイジは率直に、
「な、なんか……怖え……」
 と表現した。

 ピクリ、と白い耳を動かし、男はわずかに目を丸くする。
 それから、なにか言いたげにカイジをじっと見つめてなんどか瞬きをしたあと、
「……そう」
 とだけ呟いて、黙ってしまった。

(あ、あれ……?)
 ぴんと立てられていた狐耳が、心なしか下がったように見えて、カイジはなぜか焦る。
 その表情は変わっていないのに、なぜだろう、カイジには男がしょげているように感じられたのだ。
(もしかしてオレ、リアクション間違えた……?)
 どういう反応を返せば正解だったのかはまったくわからないけれども、とりあえずそんな気がしてならず、カイジが
「え、えーと……」
 などと、しどろもどろに呟いた、その時。

 一陣の強い風が、ひゅう、と吹いてきて、頭上の木の葉をざわざわと揺らした。
 思わず目を瞑りそうになるカイジの目の前で、男は顔を顰めて鼻をむずむずと動かし、そこそこ大きなくしゃみをする。

 と、その瞬間、白い輪郭が闇に溶け、一呼吸の間にふたたび像を結び直したその姿は、カイジのよく知る少年のそれに戻っていた。


「……」
「……」
 お互いに丸くなった目を見合わせて、カイジと少年はしばしの間、ぽかんとその場に立ち尽くしていた。


「か、神さまも、くしゃみとかするんだな……」

 言いようもなく気まずさの漂う空気を払拭しようと、とりあえず明るく言ってみたカイジだったが、だんだん可笑しくなってきて、ついにぷっと噴き出してしまう。
 ものすごく不機嫌そうに顔を顰める少年に悪いと思いつつも、カイジはなかなか笑い止むことができなかった。

 博打には目覚ましい才を発揮するのに、神さまらしいことはからっきしで、姿だけは一丁前の大人に変身しても、くしゃみひとつで元の姿に戻ってしまう、まだまだ子供のお狐さま。
 ようやく、本当の意味でちゃんと少年と再会したような気がして、気が緩んだせいで笑いを収められないカイジを、少年はギロリと睨みつける。
「笑うな」
「……ハイ」
 神さまとしては未熟だとはいえ、少年にとって人ひとり操ることなど造作もないのだということを忘れていたカイジは、赤い瞳に魅入られそうになり、慌てて笑い止む。


 改めて少年と向かい合い、どこかバツが悪そうに目線を逸らすその顔を見て、カイジは表情を和らげる。
「悪かったな」
「……なにが」
「笑ったこと。あと、執拗にガキ扱いしたこと」
「……」
「だからさ、お前……、」
 そこまで言って、カイジはひとつ、咳払いをする。
「お前、早く帰って来いよ。……枕がなくなっちまったせいで、眠りが浅くてしょうがねぇ。こんな妙な夢、見ちまうほどにな」
 照れ臭さについ憎まれ口を利いてしまうカイジに、少年は一本だけのしっぽをふさりと揺らす。
「……」
「な、なんだよ……なんか言えって……」
 無言のまま顔をじっと注視され、いたたまれなくなったカイジが言うと、少年はゆっくりと口角を持ち上げた。

「……あんたの女の趣味は、まったく理解できないけどさ。年上の良さってのは、まぁ、わからなくもないよ」
「……は?」
「こっちの話」

 明らかにはぐらかされたが、いつもは皮肉っぽく歪んだ笑みばかり見せる少年が、珍しくくっきりと笑ったので、なんとなくカイジはそれ以上追求できなかった。


「そろそろ時間だ。あんたが目を覚ます頃……」
 頭上で輝く月を見上げ、少年は呟く。
「まぁ……つまんない会議なんか抜け出して、早々に戻ることにするよ。あんた存外、寂しがってるみたいだし」
「寂しがってなんかねえっつうの……! つーかお前、ちゃんと真面目に会議に出ろって……!!」
 うす赤くなって怒るカイジに、少年はいつもみたいにニヤリと笑う。
「それじゃ。いますこしだけ、いい子にして待ってなよ?」
 そう言って、くるりと踵を返した少年の背中に、カイジは咄嗟に、声を投げた。
「手土産くらい持って来いよなっ、バカ狐っ……!!」
 少年の口から、鈴のように軽やかな笑い声が上がるのとほぼ同時に、突風が、ざあ、と木の葉を揺らす。
 風圧の強さに、カイジは思わず目を瞑ってしまう。
 風はしばらくの間止むことがなく、カイジの視界を遮り続けた。




 次に瞼を持ち上げたとき、カイジは自室のベッドの上に寝転がっていた。
 カーテンの隙間からは細く朝の光が差し込み、しんとした部屋の中に、水道の蛇口から水の滴る音だけが響いている。

 寝ぼけ眼で天井を見上げ、カイジはぼんやりする頭で、たった今見た夢の内容を反芻した。

 元気そうだったな、あいつ。
 相変わらず自分勝手で生意気で、だけどどこか憎めない少年の姿を思い出す。

 しかし……、夢の中に出てくるなんて、本当はあいつのがよっぽど、オレのこと恋しがってんじゃねえ?
 しかもガキ扱いされたくないからって、わざわざ成長した姿で会いに来るなんて。

 あいつも案外、かわいいとこあるじゃねえか、などと自分に都合のいいことを考えながら、カイジは寝転んだまま、大きく伸びをする。

 頭の下には、相変わらず硬い枕の感触。しかし、寝苦しい夜ともきっと、あともうすこしでオサラバだ。
 そうなるまでに、さんざん散らかった部屋の片付けでもしておいてやるかと、カイジはむくりと起き上がり、いつもより軽やかな動作で布団から抜け出したのだった。





[*前へ][次へ#]

22/23ページ