後悔先に立たず
アカギがひさしぶりに来たから、外でふたりで呑むことにした。
行きつけの居酒屋。平日の夜にもかかわらず店内はほぼ満席で、テーブル席が開いてなくてカウンターで並んで呑んだ。
何ヶ月ぶりだろう、コイツとこうして酒を酌み交わすのは。
滅多に顔を見せないヤツだから、会話をするとつい饒舌になってしまう。
と言っても、オレの方は前にコイツと会ったときとなんの変化もなく、バイトとしょぼい博打の日々で、積もる話なんてなにもない。
それでも、会話の糸口を見つけていろんな話をしようとするのは、コイツの声が聞きたいからだ。
静かでやわらかい声に耳を傾けていると、周りの騒がしさが嘘のように遠く感じられた。
アカギは積極的に自分のことを話したがる性質ではないが、たいていのことは訊けば鬱陶しがらずに答えてくれる。だから、オレはくだらない事をたくさん訊いて、コイツの答えにひたすら相槌を打った。
だから会話の内容なんて結構どうでもよくて、ひっきりなしに質問するから酒も食事もあまり進まなくて、それでも近ごろ稀なほど、ふわふわと心地よく酔っていた。
オレはきっと、コイツの声に酩酊しているのだ。そう思った。
『酒は呑んでも呑まれるな』っていうけど、オレはコイツの声に、表情に、仕草に、すべてに呑まれまくっていた。
自覚はあったけど、止めようがなくて、ずーっとふにゃふにゃ笑っていた。
いつもは泣き上戸なはずなんだけど、愉しくて愉しくて仕方ない。どうしたって、顔が緩んじまう。
「愉しそうだね」
って言うアカギも静かに笑ってるから、コイツも愉しいのかな、そうだったらいいなって思った。
結局、その店に閉店までいて、外に出る頃にはもうすっかり出来上がっちまってた。
呑んだのは確か、生中を数杯程度。それでも、頭のてっぺんから爪先まで酒でひたひたになったみたいに、歩き方すら危うくなってた。
「酔った……」
千鳥足で歩くオレを、隣にいるアカギがじっと見ている。
「そんなに酔っぱらうほど、呑んでなさそうだったのに」
「お前がいるからな……」
オレの答えに、アカギはちょっと驚いたような顔をする。
それが可笑しくて笑っていると、なにもないところで躓きそうになって、咄嗟にアカギが腕を掴んで体を支えてくれた。
「大丈夫?」
耳許でそう訊かれて、曖昧に頷く。
体が近づくと、アカギの声の振動が体に直接響いてくるみたいで、オレは自分よりわずかに背の低いアカギの体に、ほとんど寄りかかるようにして歩いた。
あらら……、とアカギは苦笑したけど、黙ってそのままにしておいてくれたので、オレはますます気分を良くする。
寒い夜だった。だからなおさら、くっついていると相手の体温が心地がよかった。
夜空に星が光ってて、それがやけに多く、輝いて見えるのは、やっぱり傍にコイツがいるからだって思った。
アパートの階段を上って、部屋の前まで来る。ポケットから鍵を取り出して鍵穴にさし込もうとしたけど、手許が覚束なくてなかなかうまくいかない。
首を傾げながらもたもたしていると、後ろからふわりと抱きつかれて耳を甘噛みされた。
「焦らすなよ」
「急かすなって……」
クスクス笑いながらようやくささった鍵を回し、ドアを開けて中に入ると、玄関先の壁に体を押しつけられてキスされる。
腹ペコの肉食獣みたいに唇に食らいつかれて、思わず声を上げて笑う。すげぇ求められてるって感じで、興奮した。ドアの閉まる音を合図に、オレたちは縺れ込むようにして、互いを貪る行為に惑溺していったのだった。
翌朝。
伊藤開司は最悪だった。
昨夜アカギと呑み始めてからのことを、びた一秒覚えていない。
……わけではなく、むしろ逆。
呑んでる最中の気持ちの悪い思考回路も、公道をいちゃつきながら帰ったことも、部屋についてすぐ雪崩れ込んだ行為のことも。
すべてを子細に記憶しているからこそ、気分はどん底だった。
今しがたカイジが目を覚ましたとき、すでにベッドの隣は空いていた。
浴室からシャワーの音が聞こえる。
ベッドの上に起き上がったまま、カイジは頭を抱えた。
どっと押し寄せてくる記憶の波に、嫌な汗が止まらない。二日酔いすら微々たるもので、頭はうんざりするほどクリアに冴えていた。
生中数杯程度では記憶を無くすにはほど遠く、しかし昨夜のカイジは、強かに酔っぱらっているような状態だったのだ。
いや、記憶が残っている分、普通の酔いよりタチが悪い。はしゃいでテンションが上がりすぎた結果、こんな厄介な酔い方をしてしまったのだ。
生々しく蘇るのはアカギの表情、声、仕草ばかりで、いかに周りが見えてなかったかを思い知らされる。
人の目なんてまったく気にも止めなかった、昨夜の自分の首を絞めてやりたいとカイジは呪わしく思う。
行きつけの居酒屋で、帰りの路上で、アパートの部屋の前で、誰かに見られていたかもしれない……。
そう思うだけでのたうち回って叫び出しそうになるのを、ベッドの上でカイジが必死に耐えていると、下着姿のアカギがぬっと姿を現した。
短い髪をタオルで拭きながら部屋に入ってきたアカギは、カイジが起きていることに気づき、口を開く。
「カイジさん、昨日はーー」
「覚えてない」
アカギがなにを言おうとしたのかはわからない、しかしカイジは即座にそう返事をしていた。
無理やり自分にそう言い聞かせるような、やたらときっぱりした物言いだった。
アカギは軽く眉を上げたあと、片頬を吊り上げてニヤリと笑う。
「そう。残念」
そう言って、ゆっくりと近づいてくるアカギの姿を見て、カイジの口から「うっ」という呻き声が漏れる。
アカギの白い体のそこかしこに、狂ったように散りばめられている痕、痕、痕。
鮮やかに紅い花びらのようなそれらは、カイジが今必死で封印しようとしていた記憶の蓋を、容赦なくこじ開けようとしてくる。
苦悩するカイジの様子を、アカギはベッドの傍らに立って面白そうに眺めていた。
この悪漢にはカイジの思考など腹の底まで見通してしまえるようで、
「そんなに嫌そうな顔しなくても……あんたの体にもあるでしょ、似たような場所に、オレのつけた痕が」
などと、嫌がらせのように言ってくる。
腹立たしさに、カイジはキッとアカギを睨めつけた。
クソっ……! すかしたツラしやがってっ……!
元はといえば、コイツが悪ぃんじゃねぇかっ……!!
「お前がっ……!! 滅多に来ねえからっ……!!」
だから昨日はヘンに浮き立った気分になってしまって、結果あのような醜態をさらす羽目になったのだと、カイジは完全なる逆恨みでアカギを責める。
しかし、アカギはわざとなのか本気で言っているのか、
「あらら……、そりゃ、寂しがらせて悪かったね」
などと、トンマな返事を寄越す。
まるで暖簾に腕押し、柳に風のアカギには、なにを言っても無駄なのだった。
カイジは深く深くため息をつき、そのまま空気の抜けた風船のようにしおしおと萎れる。
アカギにいくら怒ったって、昨晩、冬の空気よりよっぽど寒いことを山ほどしでかしたという、救いようのない事実は変わらない。
カイジは思わず涙目になる。
後悔先に立たず。
カイジは頭の中でそう呟いたつもりだったが、どうやら声に出ていたようで、
「あんたは、たってたけどね。わりと元気に」
アカギが涼しい顔でそんなことをほざくので、カイジは枕をむんずと掴むと、腹立たしいその面へと思いっきり投げつけた。
終
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