邂逅・2
どれくらいの時間がたっただろうか。通りからのヒトの気配がまばらになったころ、カイジの耳がぴくりと動き、ある気配を捉えた。素早く立ち上がり、神経を張り巡らせる。
感じ取ったのは、得体の知れない存在感。
――犬、ではない。明らかに、自分より小さい生き物の気配。なのに、雷が落ちたときのように身体中の毛がびりびりと逆立つ。
近付いてくる。にもかかわらず、足音ひとつしないのが異様だった。
カイジは闇に慣れた目を凝らし、相手の姿を探す。
「ふふ、どこ見てるの。こっちだよ」
突然、降ってきた声に、カイジははっと視線を上げる。
廃ビルの、ガラスの填まっていない窓枠の上。そこにいたのは一匹の猫だった。
三角の耳のてっぺんから尾の先まで、すべてが雪のように白い。太くまっすぐな尾としなやかな体躯、日本猫としてはかなり大きい部類に入る、立派な雄猫だった。
白猫は置物のように前肢を揃えて座り、長い尾を体に巻き付けるようにしてカイジを見下ろしている。
薄暗い路地の中でもぼんやりと光るように見える白い毛並みの中、二つの黒い瞳が冴えざえと強い光を放っていた。その鋭さは、見ているだけで身を切られそうなほどである。
威嚇のうなり声を発しながら、カイジは内心焦っていた。長い野良生活で磨かれた野生の勘は、相対しただけで相手の力量をおよそ正確に推し量ることができる。
だが、この猫は違った。まるで掴めないのだ。体から発せられる気、佇まい、匂い、すべてが今まで出会ったことのないような巨大な力をもってカイジを圧倒する。そしてそれは、どこまでも続く闇のように、果てがないように感じられた。
ただの猫ではないことは明らかである。体力を激しく消耗している今、この白猫とやりあうのはマズい。それだけは何としてでも回避せねばならない。
カイジは声が上ずらぬよう、細心の注意を払って問うた。
「ここはお前の縄張りなのか」
お前のテリトリーを侵害するつもりはなかった、ということを言下に滲ませつつ、すばやく周囲に視線を投げて逃走経路を考える。万が一相手が攻撃してきたときのためだ。
白猫は愉快そうに目を細め、ぐるる、と喉を鳴らした。
「いいや。縄張り、なんてものには興味がなくてね」
歌うようにそう告げて、白猫はカイジの目の前にすとんと降り立った。カイジがほんの少し、首を伸ばせば容易に噛み殺すこともできる距離。そんな場所に立って平然としている白猫に、カイジは動揺する。
白猫はすんすんと鼻を鳴らして空気の匂いを嗅ぐ。
「ずいぶん、遠くから逃げてきたみたいじゃない」
「……」
カイジは答えず、背中の毛を逆立てて白猫を睨めつける。が、そんなことお構いなしに、白猫はひらひらと歩いてカイジの隣へ移動しようとする。『近付くな』という忠告をこめてひとつ吠えると、白猫はヒゲをそよがせて笑った。
「クク……そんなに怯えないでよ」
「……!」
カイジの頭にカッと血が上る。
恐れを見抜かれていたことと、自分より小さい生き物にそんなことを言われたこと。二重の屈辱にカイジは一瞬、我を見失いかけた。
本能の赴くまま、目の前の小さな体に飛びかかりそうになるのを、カイジはめいっぱい四肢を踏ん張ることで踏み留まった。
危なかった。怒りにまかせて手を出していたら、どうなっていたかわからない。よしんば勝てたとしても、この白猫相手じゃ無傷ではすまなかっただろう。
そうなると、あの若い雄犬との勝負を前にして大きな足枷をつくることになる。
一時の激情に流されることの愚かさを、越えてきたいくつもの修羅場の中でカイジは嫌というほど知っていた。
自分の中で渦巻く怒りをなんとか抑え込み、血走った目でぜえせえ息をするカイジを、白猫は静かに見つめる。
「あんた……面白いな」
ニヤリと笑い、白猫はおもむろにカイジに近づいた。怒りを静めるのに必死だったカイジは、反応するのが遅れて白猫の接近を許してしまう。
「! 何をっ……」
「じっとしてなよ」
白猫はカイジの首元に顔を埋める。口と牙を器用に使い、カイジの毛並みにくっついた白い羽のような草の実を取った。それを地面の上へ吐き捨て、ふたたびカイジの体に口を寄せる。そうして、カイジの体についた草の葉や実を、白猫はひとつひとつ取っていく。
白猫の行動に混乱しながら、カイジは微動だにできなかった。猫にしては大きいとはいえ、自分より体は一回り以上小さいのだ。それなのに、なぜか『じっとしてなよ』の一言に気圧されたように動けない。鼻の上に皺を寄せたまま、低く喉を鳴らしつづけることしかできなかった。至近距離で白猫を見ることになり、カイジはその右前肢の付け根に裂けたような傷跡があるのに気付いた。
白猫は大きく伸び上がり、カイジの逆立った背中の毛にも口を寄せる。
やがて、カイジは喉を鳴らすのをやめた。この白猫には、自分に対する敵意が感じられない。なにを考えているのかまったくわからなかったが、体を害されているわけではないので、されるがままにしておくことにした。
ひどく落ち着かない気分だったが、ヘタに抵抗してこの猫を怒らせたりしたら、さっきの我慢が水の泡になりかねない。悔しいが、じっとしているほかなかった。
他者に触られるのが嫌いな尾にまで触れられたときは反射的に体が逃げそうになったが、なんとか踏み留まって知らん顔を貫いた。
体の他の場所よりも長い、尾の毛にわだかまった異物感が根気強く取り除かれていく。体に走る緊張が白猫に伝わっていないかと気が気でなかったが、白猫はなにも気にしていない風に、黙々とカイジの毛並みを整えつづけた。
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