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過去拍手
樫山・2



「陛下!」
 回廊を歩く天帝の前に、ふいに一つの影が躍り出た。
 一瞬、腰の剣に手を遣り掛けた樫山だったが、しかしその影の正体に気付き、慌てて手を止める。
 天帝につき従っていた家臣達も、同様に戸惑ったような表情を浮かべるばかり。
 何故ならば、その影は彼等もとても良く知る人物――天帝の一人息子であり、また唯一の後継者である皇子だったからである。


「陛下。新宮建築の件、今一度、お考え直し頂けませんか」
 周囲の戸惑いを余所に、皇子は天帝の傍らに片膝をつくと、深々と頭を下げた。
「相次ぐ出兵や築宮で、ここ暫く出費が嵩んでおります。このままでは国庫が破綻しかねません。どうか陛下」
 額が床へ着くほどに、なおも首を垂れる皇子だったが。
「・・・・自宮にて謹慎するよう、一昨日申し伝えたはずだが?」
 しかし、天帝は息子を無感情な瞳で一瞥したのみで、歩みを止めることは無かった。
 それでも皇子は一縷の望みをかけ、その足下へと言葉を紡ぎ続ける。


「はい。しかし、あのような建造物は今の我が国には必要無いのではないかと、」
「――衛兵」
「はっ」
「皇子を自宮まで送り届けるように」
「、陛下っ」
「・・・・ですが、」
 天帝から淡々と発せられた命令に、対立する親子を交互に見遣っていた衛兵は、暫し言葉に詰まる。
 無論、衛兵にとって天帝の命令は何時如何なる時でも絶対である。絶対なのだが、あまりに必死な皇子の様子に、その身体を引っ立てるのは些か躊躇われたのであった。


「陛下!どうかお聞きください!!」
 とうとう身体を起こし、去り行く父の背中へと更に言い募ろうとする皇子‥‥しかしその肩へ、静かに手を置く者があった。
「・・・・樫山?」
 この時になって初めて学友が居る事に気付いたらしい、驚いたような表情を浮かべる皇子に、樫山は黙したまま首をそっと横に振った。
「今はなりません、殿下」
「しかし樫山、陛下に何としても、」
「・・・・陛下は、」


 言い掛け、しかし思わず黙り込んだ樫山の視線を追い、振り返った皇子の目には、全く歩みを緩める事無く何事も無かったかのように廊下の角を曲がって行く、父親の姿が映るばかりだった。
「・・・・」
「さ、こちらへ」
 その後ろ姿を見詰めながら唇を噛みしめた皇子の肩へ。
 樫山はもう一度、宥めるように手を置いた。







「――陛下はおかしい」
 言い捨てた後、翠茶を一息に飲み干した皇子を、樫山は黙ったまま見詰めていた。
 二人が居るのは、私邸宮内にある皇子の私室。
 学舎で机を並べていた頃には日参していたものだったが、樫山が「東の剣」の一員となった最近では、めっきり足が遠のいていた。
「殿下」
 窘めるように呼びかけるが、聞いてくれ、と皇子は首を横に振る。


「最近の陛下はおかしい。妙な商人を出入りさせる、華美な宮を建てる、出兵を繰り返す。・・・・国庫が逼迫していると訴えれば、足りない分は増税すれば良いときた」
 もう一杯くれ、と差し出された杯に追加分を注ぎつつ、樫山は先ほど目の前を通り過ぎていった彼の人を思い出す。




 数年前までの天帝は、今とは全く違っていた。
 むしろ計画的で堅実な施政で、他国にも知られていたものだ。
 それが、今の無謀な浪費状態へと変わったのは。




「・・・・おかしくなったのは、母が亡くなってからだ」
 両手で杯を包みながら、皇子は唸るように呟く。
「陛下の、いや父の目を見たか?樫山。まるで石ころを眺めるみたいに俺を見た。俺という存在に全く興味がない・・・・いや、」
 ぐっと、その手が強く握りしめられる。「――母を失ってから、あの人の目には何も映っていない」


 感情を何処へ忘れてきたかのような、静まり返った表情。
 常に遠くを眺めているかのような、穏やか極まりない瞳。




「あの人は、『人』である事を止めてしまった」




 せめて怒りでも浮かべてくれれば、まだ救いもあると言うのに。
 彼の人は、それすらも放棄してしまっている。
 流れ来る案を吟味する事も無く、ただひたすら頷くだけだ。
「――きっと陛下には、帝妃様が必要でいらっしゃったんでしょう」
 庇い立てする訳では無かったが、取りあえず樫山は天帝の援護を試みる。




 彼の人の嘆きは大きかった。
 全てが色褪せてしまうほどに。
 それ程までに、亡き人を必要としていた。




「それでも人は、その損失を埋めていく。その隙間と折り合いをつけていく。・・・・でもあの人は、立ち直れなかったんだ」
「それは、帝妃様を深く愛していらっしゃったからこそ、」
「違う樫山。弱いんだよ、あの人は。ただ弱すぎるんだ」
 杯を両手で抱えたまま背を丸める皇子は、自分の言葉に自分自身が傷ついていくようで。
「・・・・」
 そんな学友を痛々しく見つめながらも、樫山は思わず想像してしまう自分を止められなかった。




 もし。
 もし、この目の前の人が居なくなったら。
 ・・・・自分も、どうなるか分からない、と。




「例え必要不可欠な人を失っても、思考を停止してはいけない。現実を放棄してはいけない。『人』である事を止めてはいけない。――それは、上に立つ者のするべき事ではない。絶対にしてはいけない」
 言い聞かせるように呟いた皇子は、やがて吹っ切れたように顔を上げると、樫山の顔をじっと見つめた。
「だから樫山、お前は俺より先に死ぬんじゃない」
「、殿下」
「俺にはお前が必要だ」
「・・・・そういう事は、奥方様におっしゃるものですよ」
「藤緒も必要だけど、お前も必要なんだ。仕方ないだろう」


 どこか拗ねた様な口調にやれやれと溜息をつきながらも、心の中で密かに喜んでいる自分が居る事に気づき、樫山は小さく苦笑する。
 こんな状況で何と不謹慎な、と謗りを受けても文句は言えない。




 自分が必要としている御方から、必要だと言われる。
 しかしそれは、何と幸福な事だろう?




「笑うなよ、本当に必要なんだから」
 そんな樫山の表情を勘違いしたらしい、ますます拗ねたように言い募る皇子に、分かりました、と頷いた。








「――しかし、本当に何とかしなければ」
 本日何杯目かになるか分からない翠茶を受け取りながら、皇子は再び唸る。
「このままでは、確実にこの国は傾く。父の、いや陛下の目を何とか覚まさせないと」
 独り言のような呟きに耳を傾けながら、樫山はそっと見守り続けている。
「樫山」
「はい」
「お前は絶対に、俺より長生きしろ。俺を、」


 言い淀んだ後、意を決したように皇子は言葉を続けた。「――俺を、死ぬまで『人』でいさせてくれ」
「・・・・仰せのままに、殿下」
 誓うように皇子を見つめると、樫山は全心を込めて頷いた。


◆◇◆◇◆

皇子時代の悩む天帝とそれを見守る樫山、でありました。
本編には出てきませんが、前天帝末期は結構暗い時代だったりします。



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