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蝶々結び
言葉になれなかった疑問符


「ひよりさん。突然ですが、明後日の午後、私に付き合って下さいませんか」
「明後日…?」
「ABCオープンの観戦チケットがあるんです。一緒に行く予定だった方が急遽来れなくなってしまいまして」
ABCオープンは世界のトッププロが一同に会するテニスの大会です。と、続けて柳生は丁寧な説明を付け加える。
「え?そんな大きな大会だったら、私じゃなくて違う人を誘った方がいいんじゃ…それに部活もあるし…」
どうして自分を誘ってくれるのかひよりには分からなかったが、柳生は見計らったようにその理由を口にした。
「たまには息抜きも必要ですよ。ひよりさんは少々、真面目過ぎると思います」
柳生に真面目過ぎると言われるくらいなのだから相当なのかもしれないと、ひよりはつい笑ってしまう。
「分かった。じゃあ部活を抜けられるか幸村くんに聞いてみるね」

この会話をしたのが2日前。つまり今日がその大会当日。
ひよりはこのことを幸村にまだ言えていなかった。
「おはよう」
クーラーボックスを運ぼうと屈んだ時、幸村の声が背後から聞こえた。
「おはよう、今日も暑いね。あの、幸村くん。ひとつ相談が…」
「何?」
「今日の午後、部活抜けていいかな?柳生くんがテニスの大会に誘ってくれて…」
柳生の名を出すと幸村は納得したように微笑んだ。
柳生がこの大会に行くことは以前に聞いていた。まさかひよりを誘うとは思ってもいなかったが。
「ひよりが行きたいなら、いいよ」
「ホントに?」
「ひよりからお願い事をするのは珍しいからね。会場は全国大会と同じ場所だし、プロも見ておいて損はないと思う」
幸村はこう言ったが、もう一つ理由があった。ひよりに学校以外のこの世界をもっと見てほしいと思った。
それを口にすればひよりはまたもう一人の自分を気にしてしまうのでは、という不安からこの理由は言わなかった。
「ありがとう!」
そういえば、こちらに来てから学校以外に足を運ぶことは今までなかったな、とひよりは思う。
小さな子が喜ぶように、ひよりは初めてのお出かけに胸を躍らせた。

「幸村くーん!!」
コートの向こう側から女の子の声が聞こえた。ひよりと幸村がその方角を見ると、知らない制服を着た女の子が大きく手を振っていた。
そしてもう一度女の子は叫ぶ。
「幸村くーん!久しぶりー!」
女の子は一呼吸おいてからこちらに歩いてくる。
「…来たか」
ひよりの後ろで呟いたのは仁王。
それに当然のようにひよりは振り向く。しかし視線が合った仁王からは先程の呟きがなかったように、おはようさん。と眠たげな挨拶を聞くだけで、ひよりもおはようと返すしかなかった。
幸村と仁王の様子を見て、知り合いらしいことだけは分かった。
「彼女は北海道の学校の寿葉ちゃん。ひよりとも知り合いだよ」
幸村が女の子を紹介する。ひよりにとっては彼女の名前よりも北海道と言われたことに気が取られた。北海道からわざわざ来たのかとか、そんなことを思った。
「今年の標的はどうやらお前さんみたいじゃの」
「…そのようだ」
二人は苦笑していたが、同時に楽しんでいるようにも見えた。もちろんひよりには何のことなのか検討もつかず、ただ女の子が側に来る姿を見ていた。

「仁王くんもひよりちゃんも久しぶり!」
幸村の隣に到着すると寿葉は笑顔を見せた。言葉には独特の訛りがあり、少し違和感を感じる。
「なんかひよりちゃん雰囲気変わったね?初め分かんなかったべ」
言われてドキリと鼓動が大きくなる。ここで動揺してはいけないとひよりは小さく深呼吸をした。
そんなひよりを気にすることもなく、寿葉は幸村に向かって拝むように両手を合わせる。パン!といい音がした。
「また練習見てってもいい?」
「ダメだと言っても帰らないだろ?」
「まぁね!だってみんなに会えるの一年振りだべ?挨拶だけで帰るなんて出来ませーん」
寿葉は楽しげに胸を張ってみせた。
それを見て幸村と仁王は肩を竦めるように視線を合わせる。
「あ!丸井くん切原くん!クッキー作ってきたんだけど食べるー?」
寿葉は独特のテンションで丸井と赤也がいる所に走っていった。
ひよりは、積極的で自由な人だな、という印象を受けた。
寿葉が鞄から出したクッキーを嬉しそうに頬張る丸井と赤也。その喜ぶ表情を見て、女として、少しだけ悔しい感情が過ぎった。
「アイツら餌付けされとるわ」
「あの二人に自覚はないんじゃないかな」
「…私も今度作ってこようかな」
思わず出てしまった言葉にひよりはハッとする。
何か言われるかと思ったが、幸村と仁王からは同時に「え?」と意外そうな声が漏れるだけだった。

寿葉は練習の合間を見てよくレギュラーに話しかけていた。
対してレギュラー達は邪険にするでもなく、かといって歓迎している様子でもなかった。
ただの友達という風にも見えず、ひよりは違和感を感じていた。
太陽が大分高い位置に来て、新しい氷と保冷剤を取りにひよりはコートを離れた。
その後を追ってきたのは寿葉だった。
「氷持ってくるだか?オイラも手伝うよ!」
他校生に手伝わせることは出来ないとひよりは一度断ったが、寿葉の半ば強引な申し出は更に勢いを増した。結果逆らうことは出来ず、お願いすることにした。
「オイラもマネージャーやってんだから、任せてよ!」
部活用に生徒が使っていい製氷機があるのは保健室の側。
保健室を通るのなら救急箱の中身を補充しておこうと、ひよりはひらめく。
「ごめん、部室に寄るからちょっと待ってて」
「うん分かった」

自分のロッカーを開けようとしてひよりはその手を止めた。
これは自分のロッカーじゃなくて、もう一人の私のもの。
救急箱はこのロッカーに入っている。幸運にも今まで必要とすることはなかったのでこのロッカーを開けることはなかった。
開けたくなかった。まるで心の中を勝手に覗くようで、ひよりは遠慮していた。
もし逆の立場だったら私はどう思うだろう。嫌な思いをするのではないか、と思考が傾く。
…遠慮?
遠慮しなくていいと先日言われたばかりではないか。
柳生と丸井の言葉を思い出してひよりは深呼吸し、ロッカーに手をかけた。
ガタ、と音をたててロッカーを開ける。もう一人の自分と共有している記憶にある通り、救急箱はロッカーの一番取りやすい所に置いてあった。
救急箱を片手で抱えると、ひらりと足元に何かが落ちた。

「…写真?」
ひよりは屈んでそれを覗き込む。
その写真には、レギュラー達ともう一人の自分が写っていた。背景はフェンスと空。どこかの屋上だろうか。
身に覚えがないのに自分が写っている。それは自分ではないのだから当然と言えば当然なのだが、もう一人の自分を見てひよりは不思議な感覚に捕らわれた。
もうひとつ、その写真には不思議なことがあった。
みんな制服を着ているのに、幸村だけが薄い青緑のパジャマを着ていた。
「…なんだろう、これ…」
胸騒ぎがした。
見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感にも似た気持ち。
「ひよりちゃん?まだかかる?」
寿葉が部室のドアを開けた。ひよりは慌ててその写真をロッカーにしまい、そこを離れた。
「大丈夫、行こう」
寿葉は少しだけ首を傾げたが、ひよりの言葉を聞くと何もなかったように先を進んだ。

「この前跡部様が来たんだってね?オイラもその日に来ればよかった!会いたかったよ!」
製氷機を開けながら寿葉は先程赤也から聞いた情報をひよりに確かめる。
跡部の知名度はやはり相当なものだなとひよりは感心してしまった。
「跡部くんが好きなの?」
ひよりの素朴な疑問に寿葉は信じられないという表情を浮かべた。
「だって跡部様だよ?ひよりちゃんも前はカッコイイって言ってたべ?」
「えっ」
寿葉の言い方からするに、嘘ではないらしい。
「なんかひよりちゃん、ホントに別人みたいだ」
「そうかな…」
当たり障りのない相槌を打ちながらひよりは氷をクーラーボックスに入れる。
ざらりざらりと氷と氷がぶつかる音は涼しげに聞こえた。
「まぁ跡部様もいいけど、今注目してるのは青学の越前くんと幸村くんだな」
越前という名に心当たりはないので何とも言えなかったが、幸村の名前には自然と反応し、屈んでいたひよりは寿葉を見上げる形になった。
「幸村くん?」
「そう。幸村くん、最近の調子はどうだ?」
何と答えればいいのか、ひよりは言葉を詰まらせる。
調子が悪いようには見えないけれど、実の所、部活にいる時間と外出している時間は半々くらいだ。その中からひよりが感じられることは寿葉が欲しがっている答えではない気がした。
「幸村くんだけじゃなくて、みんな全国に向けて頑張ってると思うよ」
製氷機とクーラーボックスを閉めてひよりは立ち上がる。
「…そっか。そうだよね」
やはり求められる答えとは違ったようで、残念そうに寿葉は少しだけ声のトーンを下げた。

「今日はずっと練習を見ていくの?」
保健室を後にして並んでコートに向かいながらひよりは尋ねる。
救急箱をクーラーボックスの上に乗せ、間に挟んで二人で片方ずつボックスを持ち上げているので、自然と歩幅は同じリズムになっていた。
「ううん、午前だけ。今日はこれからABCオープンを観に行くだよ」
ん?と聞き覚えのある単語にひよりは足を止めそうになる。
「それ、私も行くよ。柳生くんと一緒に」
「ホント!?じゃあ会場まで一緒に行こうよ。都会の電車は乗り慣れてないから一緒の方が助かるんだ」
と寿葉はお願いにも似た提案をした。
「私はいいけど、一応柳生くんにも聞いてみないと」
そうは言ったものの、優しい柳生が断るはずはないとひよりは思う。
「じゃあ私、先に戻って柳生くんに聞いてくるべ!」
寿葉はクーラーボックスから手を離してコートに走っていった。
解放された片方は引力に正直で音を立てて地面にぶつかる。ひよりはバランスを崩して少しよろけながら寿葉の背中を見送った。
「………」
寿葉の行動に何とも言えなかったが、改めて自由な人だなとひよりは思った。

クーラーボックスを持ち直そうとした瞬間、校舎から出てくる人物が目に入る。
真田だった。朝に練習している姿を見たけれど、いつの間にかコートにはいなかった。
「校内にいたんだ」
真田は頷く。
「合宿の件で職員室に用があった」
「お疲れ様……え?合宿?」
「…聞いていないのか?」
一瞬、間が空いた。昔の漫画でいうなら、・・・の後にカラスが飛んでいるような、そんな間だった。
真田は咳払いをしてから合宿のことを簡単に説明した。当然自分も参加だと言われ、ひよりは頷くことしか出来なかった。
説明が終わった後、真田はクーラーボックスに触れる。何も言わなかったがコートまで運ぼうとしていることを察してひよりは慌ててそれを止めた。
「運ばなくていいよ!」
しかし、という風に真田はひよりを見る。
「これは私の仕事だから。私がやるから」
これがここでの存在理由のひとつだから。真田にはそう言っているようにも聞こえた。
気持ちだけ受け取っておくね、とひよりはボックスを持ち上げながら付け足した。
「先に戻っているぞ」
ひよりの責任感を受けて、背中を見せた。

「…あっ、真田くん!」
「なんだ」
ひよりは先程の写真のことを尋ねようと真田を呼び止める。
振り向いた真田の顔には帽子の影が出来ていて、表情がよく見えなかった。
「えっと…」
何故か、聞いてはいけない気がした。
あの写真の幸村のことを聞きたかったのに、ひよりはその疑問を口にすることは出来なかった。
「…午後の部活は抜けるから、よろしくね」
数秒の後、真田は頷いてコートへ歩いていった。その数秒の間にもしかしたらひよりが何か言い淀んでいることを悟ったかもしれないが、真田はそれに触れなかった。

幸村がよく不在になることや、あの写真のこと。
私には言えない何かがあるんだろうとひよりは思う。
しかしひよりにも言えないことがあったので、何が何でも聞き出そうとは思わなかった。
私が言えないことは、いつか言うことになるかもしれないし、黙ったままかもしれない。
いつ戻れるか分からない日常的な非日常の中、ひよりはクーラーボックスを運びながら自分の世界が今どうなっているのかを想像した。





になれなかった


「柳生くんもいいって!」
コートに戻ると寿葉が嬉しそうに駆け寄った。
「そろそろ行きましょうか」
既に制服に着替えていた柳生を見て、ひよりは急いで出かける準備をした。



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