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蝶々結び
背後に咲く花が聞いていた



教室棟を一通り探してみたがひよりの姿はなかった。
どこへ行ったのだろうと教室の窓から外に視線を向けると、珍しいものが視界に飛び込んできた。

青い蝶。
蒼い空に羽を広げてひらひらと舞うその蝶に幸村はデジャヴを感じた。今朝見た夢にとても似ていたからだ。
目を奪われるようにその蝶の行方を辿れば、花壇の方へと飛んでいく。
理由は分からないがひよりがそこにいるのではないかと直感して、幸村は花壇に向かった。
蝶を追うように校舎を出たがその時にはもう蝶は見当たらなかった。

「…見つけた」
ひよりは花に背を向けるように、膝の高さまである花壇の隅に座り込んでいた。
両腕で体を抱えて俯く姿が、いつも以上に小さく見えた。
「隣、いい?」
幸村が声をかけるとひよりが視線を合わせてきた。見つめる瞳は不安に溢れて、睫毛が微かに震えていた。しかし直ぐに視線は逸らされ、ひよりの視界には自分の足が映る。
了承の言葉を待たずに幸村はひよりの隣に腰掛けた。
しかし何と言葉を繋げていいのか分からず、訪れるのは二人の沈黙。
「…ひより、何かあった?」
返答はなかった。部室での様子から、尋ねても答えてくれないのではないかと予想はしていたので驚きはしなかった。
「言えることだけでいいから、教えてほしいな」
幸村は出来るだけ優しく声をかけることに努めた。

言いたくない、もしくは言えないことは誰にだってある。
けれどそれは自分達にはあまり関係のないことだと思っていた。
個性の強い者同士これまでも衝突することはあったが、それも無駄なことではなく今の信頼関係に繋がっている。
それはひよりにも言えることだった。選手とマネージャーという違いはあるけれど、俺達と同じようにチームを想い、優勝を願っている。自意識過剰と言われてもいい。俺はそこに確かな絆を感じていた。
そんなひよりの、突然の異変。
これまでと同じように、いやもしかしたらこれまで以上に、不安に揺れるひよりを支えたいと思った。力になりたいと、そう思った。

幸村も視線を落として地面を見つめていると、ぽつりとひよりが呟いた。
「私が、」
「…ひより、が?」
焦る気持ちはあったが、幸村はそれを出さないように気を付けた。
「誰だか分かりますか…?」
答えを聞かなくても分かりきったことだった。現に幸村はひよりの名前を呼び、追いかけてきたのだから。
幸村はひよりの言葉の意図が読めず、数回瞬きを繰り返した。幸村を見つめるひよりの瞳は真っ直ぐだった。
どういう意味だろう。瞬時に色んな角度から解釈してみようと試みたが、向けられたのが何故敬語なのかさえも分からなかった。
「私は、あなたが誰か分からないんです」
そう言われて幸村の頭を過ぎったのは記憶喪失という言葉。しかしその言葉はどこか腑に落ちなかった。
「どういうことか、詳しく教えてくれないかな」

追いかけてきてくれたこの人になら。ひよりはそう思った。この人ならこの混乱を鎮めてくれるかもしれない。
ひよりはゆっくり頷いて、ぽつりぽつりと自分に起こっていることを話し始めた。

自分に起きた何か。初めに感じた違和感。両親のこと。
知らないはずの生活を断片的に知っていること。
そして、人間関係が分からないということ。
決して整理された言葉ではなかったが、幸村はひよりの言葉を一言一句逃さないように聞いた。
逆に幸村が答えられること、ここはどこなのか、どういう関係なのか、幸村が知っているひよりはどんな人間か、そういったことはひよりが注意深く聞いていた。

「…頭おかしいって思いますよね」
話せることを一通り伝えた最後に、ひよりは呟いた。
「確かに初めて聞く現象だけど、信じるよ」
幸村が笑顔を見せると、ひよりは困り顔のまま少しだけ口角を上げた。
ひよりは内心で驚いていた。このような話を聞けば、普通は笑われるか避けられるかのどちらかだと思っていた。
加えて、焦ったり困ったりする様子も幸村にはなく、とても落ち着いているのが不思議なくらいだった。
「記憶喪失ではないみたいだね」
「それはハッキリと違うって言えます。昨日までの記憶はあるから」
ただ、今朝目覚めたらその記憶の先には繋がっていなかった。
「私は秋川ひより。でも、あなたの知っている秋川ひよりじゃない」
「名前も容姿も、親も同じ。でも両親が異変を感じてる様子はなかった。環境だけが違うってことだね」
ひとつひとつ確認するように幸村はひよりの反応を見つつゆっくり喋る。

「自分じゃない自分か…いたらいいなって思ったことはあるけど」
幸村はひとつの可能性に行き着いてそれを言葉に匂わせた。ひよりから疑問の視線が向けられたのでそのまま幸村は続けた。
「パラレルワールド」
ひよりはハッとした。何故その言葉が今まで自分の中に出てこなかったのか、そう思う程、実感のようなものがあった。
「SFとかでよく聞く単語だけど、並行世界っていうのかな」
幸村のそれはとても拙い説明だった。しかしそれこそSF小説のような状態の渦中にいるひよりには十分だった。
「例え次元は違ったとしても、元は同じ人間だから記憶が交差したりするのかもしれない」
ただの予測に過ぎないけど。そう付け加えて幸村はひよりの言葉を待った。

「じゃあ…じゃあ、ここにいた私は…あなたが知っている秋川ひよりは…?」
これも予測に過ぎないけれど、そう前置きして幸村が答える。
「入れ替わった…ということかな」
「そんな!」
急にひよりの声が大きくなり、幸村は一瞬目を見開いた。こんな大きな反応を見せたのは初めてだったからだ。
「向こうに…何かあるの?」
「だって本当の私は…っ!」
そこで言葉が途切れた。ひよりには続きを言うことが出来なかった。
それを察してか、幸村は問い詰めることはしなかった。
「言いたくないなら言わなくてもいいから」
「…ごめんなさい」
「君が謝ることじゃないさ」
ひよりはつい泣きそうになり、もう一度ごめんなさいと告げて顔を両手で覆った。

もし。もし入れ替わっていたのなら、きっと彼女は私よりも混乱しているに違いない。
確信があった。私と彼女には決定的な、大きな違いがあったから。
それを思うと居た堪れなくなり、涙で視界が滲むようだった。


「部活、戻らなくていいんですか…?」
問いかける本人にも言えることだったが、ひよりはとてもそんな気にはなれなかった。
「君が俺だったらどうする?」
「え?」
ふわり、そんな表現が似合う笑顔を向けられ、ひよりの鼓動が少し跳ねた。
「君が落ち着くまで一緒にいるよ」

ひよりが、ここに来て初めて本当の笑顔を見せた。
それは少し申し訳なさそうなものではあったが、とても安堵した、幸村や他のメンバーも知っているひよりの表情だった。
しかしその笑顔を見て幸村は否と思い直す。
昨日までのひよりと今隣に座るひよりは姿こそ同じであるが、別人なのだと。

「挨拶、してなかったね」
静かな敷地の中、唐突な幸村の言葉にひよりは目を丸くした。
「初めまして。俺は幸村精市。立海大附属中の3年でテニス部の部長。宜しくね」
立ち上がって礼儀正しくお辞儀をする幸村からは人の善さが表れていた。
ひよりもそれに倣って慌てて立ち上がりお辞儀を返す。
「秋川ひよりです。よ、宜しくお願いします」
幸村の右手が差し出されたので、それを快く受けて握手を交わす。手が繋がれたと同時に幸村は微笑んだ。
「同学年だから敬語は止めよう。それと、俺は今まで通りひよりって呼んでいいかな?」
「あ…」
ひよりには断る理由もなく、はいと言いかけて、笑って「うん」と頷いた。
繋がれた手が離れてひよりはどこか寂しさを纏った右手を見ると、今までで一番優しい声が降ってきた。

「大丈夫。きっと元のひよりに戻れるから」










今まで溢れそうで、でもギリギリのところで抑えていた涙が堰を切ったように流れ出した。
ひよりを取り巻いていた不安や混乱が、その言葉で一気に風化していった。
きっと帰れる。そう信じさせる力が、その言葉にはあった。






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