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蝶々結び
軌跡を辿って帰途につく


食堂のドアが開かれる音がして、ひよりは振り向いた。
まさか誰かが来るとは思ってもいなかったのでひよりは仄暗い中で目を凝らす。しかしそれが誰であるかを認識した瞬間、ひよりはその人物に背を向けた。
「…ひより」
幸村だった。ひよりは呼びかけに応えることが出来ず、ただ鼓動が大きくなるのを感じていた。
何故ここに来たのだろう。何故私を呼ぶのだろう。疑問はあったが、言葉が出なかった。無視しようなんて思っていない。でも、どう応えればいいのか分からなかった。
背中で、幸村が近付く気配を感じた。
「…そのままでいいから聞いてほしい」
幸村はひよりの背中に優しく言葉をかける。それでもひよりがこちらを向くことはなかった。
「ごめん」
それを耳にして、ひよりは血の気が引くようだった。
やっぱりそうなんだ。私を受け入れることが出来なくて、彼はごめんと言ったんだ。分かっていたつもりでも実際に本人から言われると、立っていることすら困難に思えるくらい心が揺さぶられる。
「…謝るのは私の方だよ」
声を出すと同時に涙が零れそうだった。しかしひよりは寸前で堪える。
「また入れ替わってごめんなさい」
堪える程に、視界はどんどんぼやけていく。
「…ひより、そうじゃない」
「私はここにいちゃいけないのに。みんなが優しいからそれに甘えて迷惑をかけて。幸村くんだって、大会に集中したいのに…」
「違う」
「違わないよ!本当なら何の邪魔もなかったのに、私がここにいるせいで丸井くんやもう一人の私の気持ちを無下にしたの!」
肩が震えている。必死に大きくする声は、それでもとても弱く。ひよりは自分の言葉で自分を傷付けている。
「幸村くんだってそう思うでしょ?私が現れなかったら良かったのに、って」
その衝動を抑え切れなかった。これ以上傷付くひよりを見てられなかった。
「そんなこと思ってない!」
幸村はひよりの背中を抱き締めていた。その行動に驚いているのか、ひよりは抵抗せず幸村の腕に包まれている。
抱き締めると目で見るよりも震えが直に伝わってくる。俺はこんなにもひよりを不安にさせていたのだと幸村は実感し、後悔し、そして言葉を続ける。
「怖かったんだ」
「…幸村くんにも、怖いものがあるの?」
「あるさ。例えば、この腕を広げてしまったらひよりがいなくなってしまうんじゃないか、とか」
この言葉にひよりは反応を見せる。抱き締める力を少し緩めると、ひよりはゆっくりと幸村に向き直った。向けられた瞳は、予想していた通り潤んでいた。
「…幸村くん」
ひよりは幸村の言葉を汲んで、それを確かめるような視線を向ける。信じられない、という表情。
幸村はふっと笑いかけ、その疑心を消す為に再度抱き締める腕に力を込めた。
「ひよりをどんどん好きになっていくのが怖かったんだ。好きになって、傍にいたくて、いなくならないように束縛したいくらいだよ。でもそれはひよりにとって迷惑になると思ったから、目を合わせることが出来なかった」
本当にごめん。幸村は囁くように、願うように声にした。願うのは、ひよりがどうかこの想いを拒みませんようにと。
幸村はひよりの反応を待った。その間も抱き締めたままであったが、ひよりが離れようとするのならそれを受け入れるつもりだった。しかしひよりはそんな素振りを見せないので、幸村はこの一秒一秒を噛み締めていた。ズルイと言われるだろうか。けれど次の一秒でひよりが離れてしまっても、後悔しないように。
ひよりの腕が動くのが分かった。幸村は離れる覚悟を決める。しかし数秒迷ったひよりの両腕は幸村を押し退けることはなかった。
「私も怖かった」
ひよりも、幸村の背中に腕を回していた。
「私は戻ってこれて嬉しかったし、みんなも優しかったけれど、幸村くんが私を受け入れてくれなかったらって。幸村くんに嫌われたんじゃないかって、怖かった」
幸村は緊張が解けて、カラカラだった喉がいくらか潤うような気がした。試合時ですらこんなに緊張したことはない。こんな感覚は久しぶりだなと、少しおかしかった。
「嫌いになるなんて出来ないよ。こうしてずっと抱き締めていたいくらい、ひよりが好きだから」
「ありがとう。私も、幸村くんが好き。いくら消そうと思ってもダメで、もう、この気持ちに嘘は吐けないよ」
ひよりが笑う為に目を細めると、涙が流れた。堪えることを止めた涙はどんどん零れ落ちる。その涙の分だけひよりが自分のことを想っていてくれたのだと悟り、幸村も泣いてしまいそうだった。

この想いには期限が設けられていることはお互いに分かっていた。いつか離れなければならないのは十分に理解していた。
けれどお互いにそれを口にすることはなかった。まるでそれが魔法が解けてしまう呪文のように思えたのだ。
だから今だけは。傍にいられる間だけでいい。
この魔法が解けるまでは、抱き締めていたい。





翌日。合宿最終日となる本日は、合宿中に目立ったミスや弱点を徹底的に克服するメニューが組まれる。そして最後に、対青学をシュミレーションする試合形式が行われた。
昨日よりも集中している幸村とひよりだったが、休憩中に揃って欠伸をしていたのが柳の目に留まった。彼らが人前で欠伸をするなど、もしかしたら初めてかもしれない。
「眠れなかったのか?」という疑問を2人にぶつけてみる。
「うん、ちょっとね。大丈夫、コート内には持ち込まないよ」
「えっと…うん、ちょっと。ごめんね、練習にはちゃんと集中するから」
と、これまた揃って同じような反応を見せ、その端で丸井が笑っていた。そして幸村と丸井の左頬に少しの違和感を覚える。
昨夜の消灯後に何かあったのだろう。しかしそれが何なのかまでは聞くべきではないなと柳は結論付ける。色恋沙汰に容赦なく突っ込むなど、それは野暮というものだ。
「今日は調子が良さそうだな」と、いつもの厳しい表情を僅かに緩めて真田が言った。
「ああ、昨日は迷惑かけてすまなかった。もう迷いはないよ」
幸村の言葉を受けて、真田はそうか。と返すだけだった。他人が聞けば酷く無関心な響きだが、それを見ていたジャッカルは「真田も素直じゃないな」と小さく笑った。仲間が見れば、嬉しそうなのが容易に伝わる。
「それ誰の仕業じゃ?」
「うるせー」
「幸村と相打ちとは中々やるのぅ」
「…分かってんなら聞くな」
「お、当たりか。俺の読みも参謀レベルじゃな」
「うわ、やられた…」
「詳しくは聞かんよ。けど丸井にしてはいい判断だと思うぜよ」
「…仁王が他人を褒めるとか、気持ち悪ぃ」
「プリッ」
そんな会話がされていても誰も気に留めることもなく。当然、ひよりも知る由もなく。ただ、ひよりは欠伸に加えてくしゃみをするので、柳生はそれを気にしていた。
「もしかして、夏風邪ですか?」
「え?ううん大丈夫だよ。ちょっと昨日の寝方が悪かったのかも」
「どういうことですか?」
そう言われてひよりは昨夜のことを思い出す。
幸村が想いを告げてくれた後、二人で残っているスイカを食べた。明日に備えて休まなければいけないと分かってはいるけれど、その場は離れることが出来なくて食堂のソファで話している内、寄り添うように2人とも眠ってしまったのだ。
気付いた時にはもう直ぐ職員が食堂にやってくる時間で、慌てて部屋に戻ったのは誰にも見られていないはず。
別に真実をそのまま告げても良かったのだけど、少し恥ずかしくて躊躇う。思い出すだけで顔が熱くなっていく。どう答えようか思案していると、先に口を開いたのは柳生だった。
「気を付けて下さいね」
まるで全てを理解したように笑ってそう言うので、ひよりは更に顔を赤くした。

「俺、昨日の夜にフと思ったんスけど…」
試合の順番待ちをしている赤也が珍しく神妙な顔でひよりに話かけた。ひよりは何か心配事だろうかと様子を窺う。
「どうしたの?」
「やっぱり、ひより先輩の世界にも俺達っているんですかね?」
そう言われてひよりは水原のことを思い出す。自分達のように、確かに「もう一人」は存在していることをひよりは知っている。
「…確証はないけど、多分いると思うよ」
「でもそれって、やっぱり別人ってことっすよね」
「もしかしたら、みんなテニスしてないかも」
「うわっ、そんな俺想像出来ねぇ!」
赤也が言うように彼らがテニスをせず別の生活を送っているというのは、中々想像し難くて赤也につられて笑ってしまう。
テニスがあったから今をこうして過ごしている。彼らとテニスは、切っても切れない関係だと思う。
「でも、どうしてそんなことを?」
「もしかしたら意外と近くに住んでたり、街とかですれ違ったりしてたら面白いなと思って」
「可能性はあるよね」
「っスよね!俺思うんですよ。先輩の世界に俺達がいたとして、全然関係ない別々の生活をしてたとしても、いつか絶対出会うんじゃないかって」
まるで将来の夢を語る小さな子供のように、赤也の瞳はキラキラしていた。
「性格が違っても環境が違っても、なんかのきっかけで、絶対どっかで繋がりますよ!」
それは本当に、砂粒みたいな小さな可能性のひとつに過ぎない。けれど赤也が余りにも堂々と断言するので、否定する気持ちは消えてひよりもそう思えてきた。
「そうだね。私もそう思う。」
信じたかった。この世界の数日間で繋がれた絆は本物だと思うから。それがあちらの世界にも反映するのではないかと思った。
「…だから、元に戻ったって寂しくなんかないっすよ。先輩は一人じゃないっす。俺達が会いに行きます」
最後に赤也はそう言った。今までの明るい声が一転、真剣みを帯びた声で。それでひよりは気付く。赤也が本当に言いたかったのはこのことだと。
再び戻ってきたひよりが不安に揺れているのは赤也から見ても瞭然だったのだろう。その理由についてまでは恐らく知らないだろうが、それでも向けてくれる気遣いと優しさに、ひよりは心が温かくなる。
「…うん、いつか絶対会おうね」
まだ見ぬもう一人の赤也に届けと、ひよりは空に呟いた。



陽が傾き、空が橙に染まる。早起きの星がいくつか目覚めて瞬きをする時間、ひより達はこの4日間お世話になったコートと宿舎の清掃をした。
練習の疲労のせいか、それとも明後日から始まる全国大会に思いを馳せているのか、メンバーの口数は少なかった。
それはひよりも同じだった。合宿が終わることによっていよいよ大会が始まると実感し、まだ当日ではないのに妙に緊張する思いだった。それに加えて、どうか全国大会を見届けることが出来るようにと、宛てのない願いを繰り返した。
一通り清掃を終え、職員に挨拶を済ませ、真田が明日からの予定を確認した。
「明日は大会に備えて個々でしっかり調整をしておくこと。休みだからと言って気を緩めるな」
明日はひよりがこちらにきて初めての休みだった。テニス部としてはギリギリまで練習をしたいのは山々だが、その気持ちが焦りオーバーワークになりかねないので大会前日は部活を行っていない。
「17日は学校でアップをしてから会場に向かう。開会式に出席、初戦は午後の予定だ。いいな。」
それぞれの返事を受け、真田は幸村に視線を向ける。何か言うことはあるかと、その視線だけで窺った。
幸村は小さく頷いてから一歩前に出た。
「合宿お疲れ様。今年は色々あったけど、練習の成果はいいものが出たと思っている。あとはいつも通り、勝つだけだ」
凛とした声はどこか冷酷なようにも聞こえて、だけど誰も否定することはしなかった。皆の目的はただ一つ、全国三連覇。それだけだ。
「皆を信じている。」
イエッサー!と、声が重なった。どの声も強く熱く、そして大会への期待感に満ちていた。
「俺からは以上だ。…ひより、何か言うことはあるかい」
「えっ、私?」
突然話を振られてひよりは驚く。普段なら構わないがこのような場面で話をするなど考えてもいなかった。
何もないよと断るよりも先に隣にいた仁王に背中を押されて、ひよりは不可抗力で前に出ることになった。
皆の視線も集まり、そうなってしまうと後には引けなかったのでひよりは戸惑いながら口を開く。
「合宿、お疲れ様でした。私は仕事が出来ない時もあったけど、みんながまた強くなってるのはよく分かるよ。全国、頑張ろうね」
「当たり前っすよ!」
「それと、みんなには本当に感謝してる。この合宿だけじゃなくて、こっちに来てから沢山助けてもらったし、色んなものをもらったよ。本当に楽しかった。ありがとう」
「…なんだよそれ。もうお別れみたいな言い方するなよ」
しんみりした空気の中、苦笑してジャッカルが言う。ひよりはそんなつもりはなかったのだが、言われてみると確かにそのように聞こえるので、つられて苦笑した。
「…ごめん、そうだよね。じゃあ最後に、もう一人の私の分も想いを込めて、一つだけ」
もう一人の、と言われて皆は疑問に思うが、ひよりは気にせず思いっきり空気を吸い込んだ。
「常勝!立海!!」
元々声を張り上げることはしないひよりの、今までにないくらいの大きな声が響いた。
目をぎゅっと閉じ、これでもかと口を開いて体全体で叫ぶその様は確かにもう一人のひよりを見ているようで。メンバーはごく自然に同じように空気を吸い込み、同じ言葉をひよりに返した。
そして笑顔を交わす。このメンバーで三連覇する。それが出来る。優勝を疑うことなど誰もしなかった。

帰りは行きと同様にバスを使って学校まで戻り、解散となる。
ひよりはどうしても抵抗があったが他に交通手段がある訳でもない。まだ恐怖心は消えていない。皆が次々と乗り込んでいく様子を見ていたが、ついに残るのは自分だけになってしまった。
ひよりは緊張して呼吸が浅くなる。鼓動が速くなる。けれど今のままではいけないと、意を決してステップに片足を乗せた。
視界に誰かの手の平が映ったのはその時だ。
「大丈夫、俺がついてるよ」
幸村が一段上から手を差し伸べていた。視線が合うと、幸村は更に柔らかく笑顔を携えた。
「…ありがとう」
ひよりは幸村の手を取ってステップを上がる。そのまま繋がれた手は離されることなく、ひよりと幸村は2人席に並んで座った。
隣に幸村くんがいる。怖くて逃げ出したい状態でも、手を繋いでいてくれる。それだけでひよりは安心することができた。
触れた部分から伝わる幸村の体温を感じながら、動揺せずに帰れることを確信した。




辿


自分勝手だとは分かっていても、その誘いを持ちかけた。いついなくなってしまうか分からないこの状況で、可能な限り一緒にいたかった。
独占欲とも言うのかもしれない。自分がこんなに誰かに執着するなんて思ってもなかった。
突然の誘いにもひよりは快く応じてくれたので、帰り際に約束を交わした。
「明日迎えに行くよ。街に出掛けてテニスをしよう」
休みの日までテニスをするのかと誰かに笑われてしまいそうだけど、これが一番いいと思った。
俺達を繋いでくれたのはテニスだし、純粋にひよりとテニスをしたかった。勝敗を意識せずテニスが出来るのは、きっと楽しい。それに、独りで練習していた時とは違う。俺は自分も大切にすることをひよりに教えてもらったんだ。
「それじゃあ、お疲れ様。おやすみ」
髪に触れて今日のさよならを告げると、ひよりは微かに顔を赤くして「おやすみ」と返してくれた。そんな些細なことでもとても可愛く見えて、俺は本当に果報者だと思った。



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