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蝶々結び
星の下で目覚める


それが視界に入った時、もしかしてと思った。
雨が弱くなり、もう外に出ても支障がないくらいの小雨の中、青い蝶が飛んでいた。
その蝶は何度見ても鮮やかな青で、ワザと目の前に現れているように思えた。自分達を見て楽しんでいるような、観察しているような、妙な感じがした。
蝶に気を取られていると再び真田が姿を見せた。秋川がスイカを食べようと皆に声をかけている、真田はそう言った。
戻ってきたひよりにもう一人を重ねてしまいそうであまり気は進まず、後から行くとだけ伝えた。
すると真田は何も言わずに俺の腕を掴み食堂へと歩き出した。訳が分からない。引かれるままに足を進め、食堂のドアの前で腕は自由になった。
中からは賑やかな声が聞こえる。自分達以外は皆揃っていた。
「秋川が、また入れ替わった」
そして静かに真田は告げた。何を言っているのか、訳が分からない。
「…え?」
「会えば、考えがまとまるのではないか?」
ドアの前に促された。ドアノブに手を掛ける。
けれど開けることはなく、俺はそこから離れた。
「…すまない。後で必ず行くから」
真田の眉間に皴が出来た。それだけで不満が十分に伝わってくる。
俺はそれを見ないフリして背を向けた。



窓から差し込む外灯の明かりだけを頼りに、ひよりはキッチンの冷蔵庫の扉を開けた。
ひよりはそれを確認して直ぐに扉を閉めた。弱く唸るような機械音だけが辺りに響く。
冷蔵庫には昼間に置いたスイカがそのまま手付かずで残っていた。

幸村が食堂に姿を現すより先に、雨が上がり快晴が広がった。
仕方なく幸村の分のスイカを冷蔵庫に入れ、一同はコートに向かった。コートには先に幸村がいた。「練習再開だ」と言ったその姿は、戦う時の、近付く隙のない幸村だった。
ひよりと幸村が顔を合わせたのはその時だった。しかし皆がラケットを握ればひよりも慌しく動くことになる。幸村との再会を喜ぶ前に練習に専念するべきだと思い、ひよりは昨日までと同じように行動した。
練習中もひよりは思わず幸村に視線を向けていた。だけどそれが返されることはなかった。
再会を喜ぶどころか、言葉を交わしていない。幸村は視線すら向けてくれなかった。
その後、雨が降っていた分を取り戻す為に練習は日が暮れても続いた。解散の声を掛けられる頃にはみんな疲れきっていて口数も減り、練習の厳しさを物語っていた。
そしてもう夜更けと言ってもいい時間。ひよりは眠れずに食堂に足を運んでいた。

幸村はひよりが戻ってきたことを知っている。知った上で視線を合わせないということは、どういうことか。ひよりの中で一つの答えが導き出された。
それは一番恐れていたこと。自分の存在を拒絶されている。
「…戻ってこれて嬉しいなんて、本当に自分勝手ね」
一番喜んでもらいたかった人に否定されていることに気付き、ひよりは自身の身勝手さを思い知る。
受け入れてほしかった。笑ってほしかった。でも私は何も言えなかった。「幸村くん」と、彼を呼ぶことすら出来なかった。
ひよりは仄暗い食堂でひとり、胸が締め付けられる、そんな感覚を実感していた。



体は疲れているのに眠れず、幸村は外に出ていた。内側に渦巻く色々な感情をコントロールすることが出来ず、ただ空を仰ぐ。月と星々が自分を見下ろしていた。
目を閉じる。昼間のことを思い浮かべた。
ひよりが視線を向けていることは気付いていた。けれど合わせることが出来なかった。
幸村は怖かった。ひよりに抱いている感情が彼女にとって迷惑ではないか。そして目を合わせて言葉を交わしてしまうと、本当の意味で彼女を手放すことが出来なくなってしまいそうだった。
手を取って、引き寄せて、抱き締めて、出来ることなら時間を止めてしまいたい。

「何してんだよ」
不意に声を掛けられて幸村は視界を開く。外灯が少ない場所でも鮮やかに映る赤い髪。姿を見せたのは丸井だった。
「消灯時間はとっくに過ぎてんの、もちろん知ってんだろぃ?」
まるで真田のようなことを言う。しかし真田と違ってそれを注意するような素振りはない。
丸井はただなんとなく外に出たのではない。恐らく、自分に用があって赴いたのだろうと幸村は判断する。
「ここにいる丸井も同罪だろ」
「ま、否定は出来ないな」
しかし丸井は用件らしいことは口にせず、少しの沈黙を持った。彼にしては珍しく、重い空気を纏っている。
「…なんでひよりを避けてんだよ」
戸惑いもなく放たれた言葉は幸村の核心を突く。
「幸村がどんな考えでそうしてんのか知らねぇけど、練習には集中してくれないと困る」
幸村は何も言えなかった。全国大会を数日後に控えているのに、自分の現状はそれどころではないのは事実だった。
「それに、ひよりに悲しそうな顔させるな」
お前は見てないだろうけどな。と、皮肉のように丸井は続けて呟いた。
ひよりがどうして悲しむのかこの時の幸村には分からなかったが、それよりも丸井がひよりのことで強気な発言をすることが気になった。
幸村は頭に血が上る感覚をじわじわと感じていた。
「どうして君がそんなことを言うんだ」
自然と言葉も刺々しくなるのを幸村は止められない。自分でも驚く程に低い声だった。
「どうしてだ?そんなの決まってるだろぃ」
止めてくれ。それ以上は言わないでくれ。
続きが予想出来る言い方に、幸村は懇願にも似た想いを喉の奥で繰り返した。しかし丸井は態度を変えることなく真っ直ぐに言い放つ。
「ひよりが好きだから」
手が熱くなった。その熱は夏の空気に溶けていくのではなく、丸井の胸元に向かっていた。
幸村は左手で丸井の胸倉を掴んでいた。手の中で縒れるTシャツで火傷してしまいそうなくらい熱く感じた。
「…何のつもり?ケンカ売った覚えはないんだけど」
丸井は平然としていた。微かに笑っているようにも見えた。それがジリジリと焼け付く。焼けていくのは、幸村の中の嫉妬心。
「俺がひよりを好きになっちゃダメな訳?それこそどうして幸村がそんなこと言うんだよ」
「ひよりの話はしないでくれ」
「嫌だね。それ、逃げてるだけだろぃ」
煽られていく嫉妬心が露わになって、幸村は右手を振りかざした。
倒れる寸前に一瞬合った幸村の視線は刺すようなもので一見冷たく感じるけれど、丸井はその瞳に隠れる熱さに気付く。それは、消すことの出来ないひよりへの想い。
その想いは向けている相手こそ違うが丸井にも通じるものがあって、矛盾するような話だが、丸井は幸村からの衝撃を受けながら安心した。
そして驚いていた。幸村がこんなにも感情をぶつけてくることに。こちらが煽ったのだから当然と言えば当然なのだが、普段も試合中も常に冷静さを失くさない幸村をこんなにも動揺させるひよりへの想いは、それだけ幸村の中で大きくなっている。

ったく、素直じゃねぇの。そう思いつつ丸井は殴られた左頬を撫でながら体を起こした。
「確かに俺はひよりが好きだ。けど、俺が好きなのは今ここにいない方だぜ」
「…え?」
「早とちりする幸村なんて、珍しいもん見れたな」
丸井は笑いながら立ち上がり、手や服の土を払う。
「別人でも姿は同じなんだ。ひよりが悲しい顔してるとどうしてもアイツを重ねてしまう」
「…だから、悲しませるなって?」
「そうだよ」
幸村は言葉を失くす。勘違いをして熱くなってしまったことに後悔した。
「雨で待機してる時、ひよりが告白してくれた。直後ひよりは入れ替わったんだ」
自分は想いを告げられなかったこと、入れ替わる寸前は体重が軽かったこと、その時も入れ替わりの原因は分からなかったこと、けれど本人は入れ替わるのを気付いていた様子を、丸井は続けて幸村に言った。
幸村は急激に鎮火した嫉妬心を持て余しながら、ただ聞いていた。
「心配すんなよ。今のひよりは俺にとって仲間以上でも以下でもねぇよ」
おどけているような、でも真剣みのある表現でいつものように丸井が言うので、幸村は緊張の糸が解けて深く息を吐いた。
「…すまなかった」
それは手を上げてしまったことへの謝罪。
「別に。ワザと嫌なカンジで言ったのは俺だし」
「…鎌をかけられたってことか」
「殴られるとは思ってなかったけどな」
そう言われると幸村は悪かったよ、と再び謝るしかない。
「正直になれよ。今俺にぶつけたみたいに、ひよりにも言ってみろぃ」
「…でも」
「…ホントは言いたくねぇけど。アイツ、OBに迫られてたんだよ」
それが誰なのか丸井は口にしなかったが、幸村は直ぐに悟る。幸村自身気にしていた人物だ。
「本当に?それでひよりは?」
「大丈夫だ、俺が割って入ったから」
そうか。とほっとする幸村を見て、丸井はひよりのことで一喜一憂するその姿が本当に幸村なのか疑いたくなる程だった。
「でもアイツが助けを求めたのは俺じゃなかった。アイツが危険を感じて口にしたのは、お前の名前だ」
聞き間違いかと思った。ひよりが俺に助けを?
水原の違和感を感じつつもその場に居合わせなかった自分が情けない。けれどそれ以上に感じるこれは。溢れてくるこれは何と呼ぶのだろう。
あぁ、ダメだ。いくら閉じ込めても簡単にその扉を破ってくる。きっとこれは、そう。愛しさと呼ぶのだろう。
「…ありがとう、丸井」
「それ何に対しての礼?俺の代わりにひよりを助けてくれて、の意味だったらいらねぇよ」
幸村はその意味も含めていたけれど、今は黙っておく。
「今、ここに来てくれて。それを教えてくれてありがとう」
あまりにも真っ直ぐに言うもんだから、丸井は気恥ずかしさを感じた。
「俺達の可能性は五分五分なんだ。どっちのひよりが残ったとしても、恨みっこナシだぜぃ」
「…そうだね」
「人のこと言えねぇけど、後悔すんなよ。じゃあな、俺はもう寝る」
ひらりと手の平を泳がせて丸井は背中を見せた。しかし歩き出す瞬間に幸村は呼び止める。




の下で目覚める


「なに?」
「俺達はイーブンだろ」
そう言って自分の左頬を指差す。笑っているけれど、幸村の目は真剣だった。
何を示しているのか理解した丸井は確かめる。
「いいのか?」
「思いっきりやってくれ」
「…幸村がそう言うなら、本気でいくぜぃ」
パキポキと指を鳴らして丸井は幸村の正面に立つ。その表情はどこか楽しそうだ。
そして目を合わせ、幸村が歯を食いしばると同時に丸井は右手に力を込めた。
耳元で拳が風を切る音がした。左頬に感じる痛みで、言葉の通り、目が覚めた。
「…ひよりに会いにいくよ」
「さっき食堂にいたのを見たぜ」
「ありがとう」




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