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蝶々結び
第三者は無関心を辞める


人の体重とは思えない程軽く感じたひよりの体が一瞬で重くなった。重いというより、元に戻ったと言った方が正しい。
その一瞬の重力で丸井はバランスを崩してひよりを抱えたまま尻餅をつくことになった。
「いって…大丈夫か?」
丸井に覆い被さるようになったひよりは顔を上げて丸井と目を合わせた。その距離は思いの外近く、丸井は即座に視線を背ける。
「ま、丸井くん…」
背けた視線はその声を聞いて直ぐ元の位置に戻る。
数秒、二人は視線を合わせたまま目だけでお互いの存在を確かめるように動けなかった。
「どうして…」
「…まさか、」
丸井がその事実を口にする前にひよりが自分の体勢に気付き慌てて丸井から離れた。ごめん、と少々たどたどしく謝りながら。
もう一人の自分と丸井がどのような状況だったかは分からないが、きっと何か話していた途中だったんだろうとひよりは想像する。
「ごめんね、大丈夫?」
もう一度謝って先に立ち上がったひよりは右手を差し出す。しかし丸井はその手を取ることはなく自身で立ち上がる。
好意を受け取ってもらえなかったことにひよりは少し残念そうな顔を見せたが、丸井は気付かないフリをした。
「ここは、合宿所だね…どうしてまた…」
辺りを見渡してひよりは確認する。
不思議と、初めてこちらに来た時よりも、元の世界に戻った時よりも、動揺が少なかった。それどころか、またここに来れたことを嬉しいとさえ感じていた。
自分の意思で容易に動く軽い足に微かに違和感を覚えるけれど気持ちが勝った。早く彼に会いたいと、募る想い。
「なんでだよ」
「え?」
「…言えなかった」
何を?と尋ねたかったが、その丸井の表情を見るとひよりは何も言えなくなった。悔しそうに、でも怒っているようにも見え、そして泣きそうにも見えた。
「止められなかった!」
これに対しては何をと聞くまでもなく、ひよりにその現実を突きつける。
丸井はその瞬間に居合わせたにも関わらず入れ替わりを止められなかったことを悔やんでいる。
私がここに来たことによって、悲しい思いをしている。
「…悪い、忘れてくれ」
それだけ小さく口にして、丸井はひよりを見ることなく背を向けた。そのまま背中は離れていく。
「丸井くん…?」
呼びかけてもその声はまるで聞こえていないように、丸井は少し俯いて前に進む。練習で失敗した時にも見せないような弱い背中だった。
丸井の姿が見えなくなり、ひよりは力が抜けたように再び床に座り込んだ。
どうすることも出来なくてただ呆然と廊下を見つめていた。

「そんなとこに座り込んで何しとるんじゃ」
背後から聞こえた声にひよりはゆっくりと振り向くと、仁王が自室のドアを開けて呆れたような表情を浮かべていた。
「…仁王くん」
その呼び方に仁王は視線を鋭くした。
「…お前さん、」
「うん、もう一人の…私。」
ひよりは笑った。それはいつか見たような悲しい表情だった。仁王の脳裏にあの日のしゃぼん玉が浮かぶ。
「今ね、丸井くんに嫌な思いをさせてしまって」
「……」
「私、どうしてまたここに来たんだろう」
今になって、混乱が体中で躍動した。先程感じていた喜びは段々と消えていく。ここにいる間は沢山笑おうって決めたのに、また泣いてしまいそうだ。
表情が曇っていくひよりをどうするべきかと仁王は思い、無言でひよりの側へ歩み寄る。
見下ろされる視線に何を言われるかとひよりは緊張したが、口を開いた仁王の声は穏やかだった。
「何があったか話してみんしゃい」
言いながらひよりの手を取って立ち上がらせる。触れられたところに冷たい体温の余韻が残った。


仁王の部屋で、ひよりは戸惑いながらも話した。
この数時間、確かに元に戻っていたこと。つい数分前に再びこちらに来たこと。理由はやっぱり分からないこと。そして入れ替わった直後の丸井の態度が変だったこと。それは多分、自分のせいだということ。
仁王は詮索するような質問は一切せず、所々に相槌を乗せてただ聞いているだけだった。しかしその相槌の間合いは不思議と相手に語らせるようなもので、ひよりも緊張や混乱が解れて自然と話すことが出来た。
本当に不思議な人だな、とひよりは思う。それが彼の魅力の一つなんだろう。
一通り話し終えた所で、ひよりは初めて仁王に返答を求める視線を向けた。それを受けて仁王はようやく口を開く。
「ひよりは、あっちの世界でのことを話しとった。どんな状況だったか、どんな思いだったか」
ひよりは名前を呼ばれたことに違和感を覚えた。その違和感は間違いではなく、もう一人の自分を指していた。
思い返してみれば、仁王が自分のことをひよりと呼んだことはないことに気付く。
「秋川は?」
そう、仁王はひよりのことを秋川と呼ぶ。初めから彼は別人として捉えていたのだと気付かせる。
やっぱり私はもう一人の代わりになることはできないんだ。そう思ったけど自分で否定した。いやそうではない、私は私としてここにいていいんだ。これは彼が私を受け入れてくれている証拠だ。
「何?」
「秋川は何を思った?」
名前のことにはお互い触れることなく、仁王は続ける。
「お前さんが話すのはその状況だけ。その時に何を感じていたか、主観的な感想がない」
「それは…」
その通りだ。特に今話したことに関しては自分の思いを省いていた。
だって、言ってしまうと止まらない気がした。それに暗くて重い感情など他人に吐露することなんて出来ない。暗い自分を知ってほしくないし、言ったことで気分を害してしまったら罪悪感が生まれる。
「…聞いたぜよ。事故のこと」
どくんと大きく心臓が鼓動するのをひよりは感じた。
「…誰から?」
その質問に仁王は気付く。誰かということは、もう一人のひよりの他にも知っている人間がいたということを。
そして一人納得する。幸村があのタイミングで席を外したことの意味を。
「ひよりから。みんな知っとる」
「…そっか。」
「自分の中に押し込める必要はない。本当のことを言ってくれんと、俺達も動けん」
やっぱり不思議だ。確かに誘導されているのにそれが苦痛に感じない。言ってもいいんだと、安堵感に似たものさえ感じる。
それでも残る躊躇いに対峙して、気持ちと共に溢れそうだった涙も我慢して、ひよりは口を開く。
「…本当は、元の世界に戻って良かったと思えなかった。もっとみんなと一緒にいたかったし、全国だって見たかった。それは現実から逃げてることだってよく分かってる。でもやっぱり、まだ戻りたくなかった」
「またいつ帰れるか分からんのに」
仁王は小さく笑った。しかしそれはからかうような言葉とは違い柔らかいものだった。
「それでもいいって思った。もう一人の私を犠牲にするのはダメだって分かってるけど、自分の気持ちを見ないフリなんて出来なかった。私、幸村くんが好きなの。幸村くんに会いたいって思ったの」
誰にも言っていない気持ちを初めて口にした。それは意外にも心をスッキリさせてくれた。そして口にする程、想いが強く濃くなっていくようだった。
聞いた仁王に驚いた様子はなく、先程のように相槌を打つだけだった。もしかしたら見透かされていたのかもしれないな、とひよりは内心で苦笑する。
もう一人の自分へ謝罪する気持ちは勿論大きい。部誌のメッセージは彼女に届いただろうか。どうか、気付いてくれてますように。
ひよりは祈るような気持ちで目を閉じる。
不意に頭を触られた。視界を開けて確認すると仁王が左手を伸ばしていた。
「よく出来ました。」
そう言って一回だけ頭を撫で、その手は離れる。ひよりは突然のことにきょとんとしてしまった。
「入れ替わりの原因や理由は分からん。けどお前さんは今、確かにこの世界に存在してる。それに遠慮することはない」
ひよりの気持ちは知っていた。あの日の屋上で気付いたが、その時は何を言うこともなかった。
けれど直接ひよりからその気持ちを聞いて、無関心や無関係でいることは出来なかった。目の前にある想いをなかったことにするのはきっと難しい。そう感じた。例え世界が違うとしても、人の想いというのは常にそこに存在して消せないものだ。
「ただ、やっぱりいつ戻るかも分からん。それだけよく覚えときんしゃい」
限りあるということ。いつかは離れなくてはならないこと。悲しいけれど、それが現実ということ。
ひよりは何度も頷いた。
「それから、丸井のことじゃが」
丸井の名前が出てひよりはハッとする。自分の気持ちに正直になるのもいいが、今は彼のことが心配だ。
「…嫌われちゃったかもね。丸井くんにとっては、私はいて欲しくない存在だもん」
自嘲するように言うと、仁王は意外そうな顔をした。それに対して何?とひよりが首を傾げれば仁王は苦笑する。
「なんじゃ、知ってたんか。丸井の気持ち」
「本人から直接聞いた訳じゃないけど…それに、もう一人の私も丸井くんが好きだよね?」
「言おうか迷っとったがそれなら構わん」
「…何?」
一息分の間を空けて、仁王は教えてくれた。
「ひよりが丸井に告白した」
自分は部屋にいたが廊下でひよりの大きな声が聞こえたと仁王は付け足した。しかしそんなことよりもひよりは告白という言葉に体温が上がるのを感じていた。
「…えっと、あれ?二人は付き合ってたんじゃなくて…?」
そして自分の憶測に少しズレがあったことに気付く。二人はお互いの気持ちを知っているものだと思っていた。
「いや、両想いなのは見てて分かるんじゃけど、それだけ。本人達は気付いてない。アイツらのそういう所だけはじれったく感じる」
「…じゃあ、その途中で私が」
「恐らくな」
先程の丸井の表情や言葉を思い返してひよりは頭を抱えた。
彼女も私と同じだったんだ。離れて誰かを想う気持ちが強くなって、だから伝えたんだ。
どうしよう。どう考えても、私は二人の想いを踏み躙ったことになる。私がもう一人の私に思いを伝えられたらと前にも思ったことがあるが、今こそその時だと実感した。それは出来ないことだと分かってはいるけれど。
「秋川が責任を感じることじゃなか」
「でも」
ぱちん。いつかと同じように仁王の指がひよりの額を弾いた。
「焦るな」
ひよりは何も言えず痛くもない額を擦る。手加減してくれたことに仁王の優しさを見ることが出来た。
「今お前さんが追いかけたら火に油になりかねん。俺が様子を見に行くから任せてくれんか」
確かにその通りで、先程も呼びかけに応えてくれなかったこともあり、きっと今は相手にしてくれないと予想できた。
それなら仁王が言う通り、彼に任せた方がいいのかもしれない。私とは比べ物にならないくらい付き合いが長いし、彼らはお互いのこともよく知っている。
ひよりはこくりと一つ頷いて了承した。
「まぁ急がんでも会うことになるが、余裕があるならアイツらに顔を見せてやれ」
「…うん」
あまり気が進まなかった。みんなに会いたいとは思っているけれど、やっぱりもう一人の自分のことを考えると罪悪感に埋もれそうになる。それに、丸井のように自分が戻って来たことを良く思わないんじゃないかと疑ってしまう。
思いのままに行動できず燻っている姿はもう一人とは真逆だなと仁王は感じながら、ひとつ提案する。
「スイカ。」
「え?」
「まだ食べとらんぜよ。せっかく持ってきたんじゃから俺達にご馳走してくれんかの」
スイカを持ってきたことをすっかり忘れていたひよりは仁王の言葉を聞いてその気遣いに感謝した。みんなに会う理由を作ってくれたからだ。
「…ありがとう」
感謝を告げると仁王は珍しく照れたような表情をした。そういう表情を見たことがなかったので彼もこういう顔をするんだと妙な感じがして笑ってしまった。
すると何笑っとるんじゃと仁王に突っ込まれてしまったが、鋭い視線もこの時ばかりは全然怖くなかった。














「頭は冷やせたか」
まだ止まない雨の中にいたであろう丸井はずぶ濡れのまま玄関の外に佇んでいた。
仁王は外には出ず屋根の下から持っていたタオルを投げつける。丸井は反射的に受け取るが、それを使う様子は見られない。
「体調崩したら選手失格。制裁。ていうかリンチ。」
冷たい言葉ではあるがそれは仁王なりの気遣いでもあった。丸井は渋々屋根の下に戻り、タオルで荒っぽく頭を拭いた。
「…お前の標準語は怖ぇよ」
そう言われて口角を上げる仁王は些か愉快そうだ。そんな表情を見て丸井はワザとらしく溜息を吐く。
「で、何か用でもあんの」
「…先に言っとくが、不可抗力ぜよ」
「何が」
「ひよりの告白が聞こえた」
さらりと言った仁王に丸井は素早く視線を向けた。その視線を一度だけちらりと見たが、仁王は降りしきる雨を見たまま続ける。
「入れ替わりは誰も悪くないし、どうすることも出来ん」
「…分かってる」
頭では理解出来る。理解しているつもりだった。けれどあの瞬間に自分の気持ちを伝えられなかったことが悔しくて。もっと強く抱きしめておけば入れ替わらずに済んだかもしれないとも思った。だから何も知らないひよりに当たってしまった。
「お前は言えたんか?」
いや、と丸井は首を振る。
「アイツ、自分が言いたいことだけ言ってった」
「ひよりらしいの」
「だな。」
同時に二人はひよりを思い浮かべ、静かに笑った。
雨に濡れたことで本当に頭が冷えた気がした。冷静になった今はこう思う。
今度は自分が言いたいことを言う番だ。今度がいつ来るかは分からないが、なんとしてもアイツにこの気持ちを聞かせてやらないと気が済まない。
その時を待てる。待つしかない。自分としては珍しいくらい気が長い判断だ。
「もしもう戻ってこれなくても」とひよりは言った。その可能性を否定することは出来ない。
けれど。次は飛んでいかないよう、強く抱きしめてやる。
「もし戻ってこなかったらぶっとばす」
丸井なりに何か結論が出たのか、吹っ切れたようにスッキリした顔をしていた。
それを見て仁王はほっとした、とは絶対口にしないが、心中で安堵した。
「…お前さんらはホント似た者同士じゃな」
ひよりにしろ丸井にしろ、「ぶっとばす」相手と向き合うことは絶対に有り得ないのにどうやって実行するというのだろうか。
仁王はからかい半分でそう思ったが、せっかく機嫌が戻った丸井をまた不機嫌にしかねないのでこの疑問は仕舞っておくことにした。
もう一つ思うのはあちらの世界に行ったひよりのことだが、大丈夫だと丸井と同じように信じるしかなかった。
空が少しずつ明るくなってきている。もうすぐ、雨は上がりそうだ。



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