[携帯モード] [URL送信]

蝶々結び
伝えたい想い


「これまでのことを知りたいなら、部誌を見てみてはいかがでしょう」
幸村が食堂を去り、少しして真田も出て行き、仁王もいつの間にかそこから姿を消していた。
残っているメンバーでぽつりぽつりと入れ替わっていた時の話をしていたが、やはり新たな事実を知ったせいか盛り上がることはなかった。
そんな中、柳生が閃いて先の言葉を口にした。
「部誌?」
「管理は任せてありますし、彼女が小まめに書いているのを見たので。部活のことはもちろんそうだと思いますが、他にも何か書いてあるかもしれません」
柳生が付け足して、ひよりはなるほどと思った。他にも何かと言われたことに対しては少し身構える気もしたが、知りたいという気持ちが優先されてひよりは勢いよく席を立った。
「じゃあ、とりあえず部屋に行ってみる!」
そしてひよりは食堂を駆け出て行った。
「あの騒がしさが、なんか少し懐かしいな」
ひよりを見送ってジャッカルがポツリと呟いた。それには誰も応えることもなかったが、丸井だけが微かに笑ったように見えた。
「丸井」
「ん?」
席を立った丸井に柳が声を掛ける。丸井は少し面倒そうに視線を柳に返した。
「少し一人にしてやれ」
ひよりの後を追おうとしていることは柳には簡単に予想できた。
その通り丸井はひよりの様子を見に行こうと席を立った。しかし確かに柳の言うことも一理あると思い、その足は進まなかった。
「…しばらく放っとけばいいんだろぃ」
「気が済めばひよりから話しかけてくるさ」
丸井の渋々な了承に柳は苦笑して宥める。
「あーっ!早く雨止まないかなー!まだ全員と試合してないし、発散したいっスよ!」
座っている椅子の前足が浮きそうなくらいの背伸びをしながら赤也がぼやく。それでも雨はまだ止む気配を見せない。
「赤也、お前はこれからペナルティメニューだ」
「は?外出れないっすよ?」
柳が当然のように言ったので、赤也は意味が分からずぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「室内で出来るものに変更しよう。勿論、負荷は同量だ」
「えーー!」
ブツブツと文句を続けるので赤也以外の者が静かに笑った。
自分達は何も変わっていない、いつもと同じこの光景に。


その部屋は去年も使ったことのある見覚えのある部屋だ。だけど、誰もいないその空間には確かに誰かが存在していた形跡を残す。もう一人の自分がここにいたことを視覚的に捉えることが出来た。
他人の部屋に入ったような違和感と落ち着きのなさに、ひよりはゴクリと唾を飲んだ。
「…なに、これ」
部誌を手にするよりも先に目に付いたのは、テーブルの上に綺麗に積まれている問題集。
この合宿には誰も宿題を持ち込まない。その為の決まり事だってある。なのにどうして?ひよりは疑問に思い、自分の名前が書かれてある問題集を開いてみる。
初めの数ページ。夏休みに入った当初に少しだけやったのを覚えている。問題集には記憶の通りひよりの文字で問題がいくつか解かれてある。
次のページを捲り、ひよりは動きを止めた。見たことのない筆跡で問題は埋められていたからだ。
知らない。なによこれ。私じゃない。私は、この問題の中にいない。
ひよりの中で違和感だったものが次第に気持ち悪さに変わる。もう一人の自分がここにいたことは頭では理解出来ていた。しかし実際目にしてみるととても怖くなった。
私がいなくても時間は進む。私がいなくても皆は変わらない。もう一人の自分がいて、ここで生活しているからだ。
この世界にいるのは自分じゃなくても良かった、ということに思い至り、冷気が全身を撫でたように感じた。
知らない筆跡の部分を全部消してしまいたい、もう一人がいた形跡を全部消してしまいたい衝動に駆られたが、ひよりは頭を振って冷静さを無理矢理引き戻すことにした。
そして部誌を手にする。フラフラとした足取りはベッドに座ることで少し落ち着きを戻した。
柳生が言った通り、部誌は毎日つけられている。内容も細かくその文面からは几帳面な性格が伺えた。
そして気になったことが一つ。もう一人の自分が書き始めた初めのページにの隅に、どう考えても部活とは関係ないことが小さな文字で書かれていた。
それは「ごめんなさい」の一言。
他のページには部活のことしか書かれておらず、恐らくこれは自分へのメッセージなんだろうとひよりは結論付ける。
「ごめんなさいって何に対して言ってんのよ…」
入れ替わったことに?歩けないことに?それとも、みんなと何かあったの?……ブン太に何かしたの?
ひよりは肩を落とす。同時に深く息を吐くと、緊張していた全身が少し解れてそのままベッドに背中を預けることになった。
天井を見上げてひよりは呟く。
「…どうしてこんなに普通にしてられたんだろう」
それはもう一人の自分への問い掛けだった。彼女のことが分かる部誌や問題集からは動揺とか迷いとかが全然見えなかった。
「これじゃ、私だけが凄く嫌な思いをしてるみたいじゃん…」
無意識にもう一人の自分を責めていた。ごめんなさいの意味が分からないことも苛立ちを生む。彼女が元の世界でどんな思いをしていたかなど考える余裕なんてない。入れ替わって自分が彼女と同じように感じたことも、今はすっかり見えない。

「そんなことねぇよ」
不意に聞こえた声にひよりは俊敏に体を起こす。
「ドア開けっ放しだぜぃ」
丸井が開けられたドアの前に立っていた。
「…ブン太」
「何か分かったか?」
丸井の問い掛けにひよりは何と答えていいか分からず、言葉を濁して笑ってみせた。
「それが全然!部活以外のこと書いてなかったよ。期待ハズレ残念!」
「まぁ、しょうがないな」
そう言いながら丸井は部屋に入り、テーブルの下にある椅子を移動させてひよりの斜め前に逆様に座る。椅子の背もたれに腕を乗せて頬杖をついた。
しょうがないで済まさないでとひよりは突っ込みたかったが、丸井には深刻さがなく軽い口調だったのでひよりは口を尖らせることで抑えた。
「なに膨れてんだよ」
「別にっ」
「ふーん、あっそ。」
お互いに冷たい言い方だが、これが二人のノリだ。こう言えば丸井も深く追求してくることはないとひよりは知っている。
「…さっき言ってた、そんなことないって何が?」
ひよりの視線が向けられ、丸井は膨らませていたガムを元に戻す。
「ひよりも色々思うことがあったんじゃねぇの?って」
「それって、もう一人の私?」
「他に誰がいるんだよ」
丸井は呆れたように笑ったが、ひよりは丸井がもう一人の自分を名前で呼んだことが気になった。確かに他に呼び方はないのだが、同じ名前でも、別人のことを丸井から聞きたくなかった。
なんか嫌だな、このカンジ。
ひよりは丸井から視線を外して少し俯く。
「アイツも突然こっちに来て、かなり戸惑ってたし」
「……」
「大変だったのはお前だけじゃねぇよ。俺達には凄く気を使ってたしな。俺には言わなかったけど、辛い事とかもあっただろうし」
「……」
「…聞いてんのか?」
「聞いてるよ」
無愛想に応えたのが悪かったのか、丸井は眉を寄せた。
「なに、なんか怒ってんの?」
「怒ってない」
「じゃあなんでそんな不機嫌なワケ?」
「なんでもないってば!」
そう言ったけど、なんでもない訳がなかった。
なんで彼女のことをそんな優しい表情で話すの?なんで彼女を庇う様なことを言うの?本当はそう思っている。でもそんなこと言える訳がない。
なによこの気持ち。もしかして、もう一人の自分に嫉妬してるの?バカみたい!
「…ワリ、なんかタイミング間違ったみたいだな」
柳に言われた通りひよりから声を掛けられるまで待っていれば良かったと丸井は後悔する。
動揺が残るひよりを落ち着かせることは自分にも出来ると思った。もう一人のひよりに対する、幸村のように。だから部屋に様子を見に来たのに、どうやら上手くいかなかったようだ。
丸井は立ち上がる。椅子はそのままに、他に何も言うことなく部屋を出て開け放しだったドアに手をかける。
「…多分、俺達はもう一人のひよりのことをずっと忘れないと思う。少しの間だったけど、アイツの存在はデカかった」
もう一人の存在のお陰で、自分の気持ちをハッキリ見ることが出来たから。丸井はそういう意味で言った。
しかしそれは伝わらず、ひよりにとって深く重くそして冷たく突き刺さる。
「何かあったら呼べよ」
そう言って丸井はドアを閉めてそこから姿を消した。
しかしその前に丸井が言ったことが脳内でリピートされているひよりには聞こえていなかった。
「……どうして」
私はここにいるのに、帰ってきたのに、どうしてもう一人の私を思うの?
帰ってきたことを一番喜んでもらいたかった。一番に話したかった。それだけだったのに、どうして。
会いたかった。離れてみて、どれだけブン太のことが好きだったか気付いたよ。今も来てくれて嬉しかった。
でもブン太は、前とは少し違う。私を見て別人のもう一人を思い出していた。何よりもこの数日間、私はブン太が何をしていたか、何を感じていたかを全く知らないんだ。
自分の中に渦巻く感情にひよりは顔を歪める。
「なによ…こんなだったら、戻ってこなくて良かった!」
そして感情の勢いのままに言い放った。
直後、視界がブレた。
「っ!?」
視界にフレームがあるとしたら、そのフレームごとガクリとずり落ちるような感覚。そのフレームの後ろにはまた違うフレームがある。垣間見えるそれは、もう一つの世界。
ひよりは胸騒ぎがした。
「もしかして、また…」
飛ばされる。確信はないがそう思えた。
「ウソ、待って、違う、戻ってこなくて良いなんて嘘だから!」
震えだす体を両腕で抱きしめて、本当はそんなこと思っていないと先程口走ったことを後悔する。そうしている間にも自分の体が軽くなっていくように感じた。ふわふわと浮いていくような、そんな感じだ。
「待って!ダメ!」
せっかく戻ってくることが出来たのに、また違う世界に行くなんて嫌だ。私はここにいたいのに!








ひよりの手がフェンスから離れて、ふらふらとコートに入る。
その瞳が映していたのは誰でもない丸井で。それに気付いた時にはひよりの横顔が目の前を通り過ぎていた。
そこからは一時停止を繰り返したようなコマ送り。
ひよりは今にも泣きそうな表情で、力ない腕を伸ばして丸井に抱きつく。
目を閉じると先程の光景が浮かび、幸村は眉間に皴を寄せた。同時に出るのは溜息。呆然として言葉も出ない、そんな状態だ。
「幸村」
不意にロビーに声が響いた。いつもと変わらない厳格な声は不思議と自分を落ち着かせてくれるように思えた。
真田は幸村が座るソファの側に歩んできた。
「やぁ」
「…随分と覇気のない声だな」
自分でも自覚があるだけに、率直過ぎる真田の意見に幸村は苦笑するしかない。
座るかい、と手の平を見せて向かいのソファを勧めたが、真田はそれには応えず幸村が座るソファの背もたれに寄った。
お互いに背を向けている状態で表情は見えない。今自分は凄く情けない顔をしているだろうから丁度いい。
「何か用?」
「別に用などない。強いて言うなら、俺も今起こっていることを整理しに来ただけだ」
真田はそう言ったが、様子を見にきたことくらい幸村は聞かずとも分かっていた。真田はそういうことを敢えて言わないこともよく知っている。
無言が続いた。そしてしばらくの後、真田はぽつりと独り言のように声を落とした。
「…お前のその様な表情をまた見ることになるとはな」
俯いていた視線を上げて斜め後ろに立つ真田を見上げる。真田は背を向けたままで幸村の表情など視界に映していない。
それなのにそんなことを言う。見透かされている気がした。
「またってことは、前にも見たことがあるのかい」
幸村は視線を正面に向き直した。ガラスに映る自分がそこにいた。予想通り、自分は酷く情けない顔をしている。声にも表れた通り、覇気がないと言ってもよかった。
真田はこう言いたいのだろう。「病に臥している時と同じだ」と。
「秋川が戻ったことが嬉しくないのか?」
「嬉しいさ」
真田が疑問を吐ききる前に食い気味に答える。間を空けると言ってはいけないことが出そうで、それを隠す為だった。
ガラスに映る真田の頭が少しだけこちらに向いた。しかし見えるのは耳と頬だけ。
「…嬉しいよ。ひよりも笑って良かったと言っていたじゃないか」
まるで予め用意された模範解答を口にしているだけに思えた。自分が発言していることなのに、言っているのは自分じゃないような、そんな感覚。
「では何故お前は笑わないのだ」
ああ、やっぱり俺は笑えてなかったのだ。笑顔もなく「ありがとう」という俺にひよりは嫌な思いをしなかっただろうか。
昨日柳が言っていたことも今なら分かる。口に出来なかった感情も今はそればかりが体を巡る。
何がきっかけだったのかは今となっては分からない。けれど確実に、ひよりに対して友情以上の想いを抱いていた。
もしかしたら初めからそうだったのかもしれない。あの時、ひよりが流した涙を見た時から…。
「…俺は真田が言う程器用じゃないから」
馬鹿だな。気付くのが遅すぎる。病気になった時も、それまで自分がどれだけ恵まれていたのかを思い知らされた。
どうして失ってからその大切さに気付くのだろう。ひよりがいなくなってから好きだと気付いても、もうどうすることも出来ないのに。
「この気持ちをなかったことにするには、少し長く居過ぎたんだ」
長くと言っても、日数にしてみればほんの半月程だ。短い。けれど体感としてはいつも一緒にいたような錯覚さえ起こす。それだけ近い場所にいた。
「……すまない、少し一人にしてくれないか」
ガラスに真田の横顔が映る。その視線は幸村を見ていた。しかし幸村は顔を伏せて俯いていたので視線を交わすことは出来ない。
それから幸村は無言を通し、次第に足音が小さくなるのを聞いていた。真田の背中は無言でガラスから遠ざかり、そこから消えた。

もう一度ひよりに会いたい。
しかしそれは同時にこちらのひよりに再び違う世界へ行けということになる。そんなこと間違っても口にしてはいけない。
例えば、自分の手でどうにか出来ることだったらどんなことをしてでもそれを実現させるのに。けれど世界を越えるなんてどうすればいいのか見当もつかない。
「……ひより…」
呟いた声は自分でも驚くくらい弱くて、そこに切実な願いを秘めていた。










ひよりは懸命に床を蹴って走った。ドアを開けて、丸井を必死に呼んだ。だけどちゃんと走れているのか喋れているのか分からなかった。それくらい体の感覚が消えそうだった。
揺れる視界に丸井を捕らえて、帰って来た時と同じように飛びついた。
「うおっ!なんだよ…って、おい、お前軽くねぇ?」
丸井はひよりの体を簡単に受け止めて、その違和感に首を傾げる。
しかしそれに応えている程ひよりには時間がなかった。
「ブン太!」
「なに、え、どうした」
ひよりの異変に気付いたが、丸井がその理由を聞く間もなくひよりは続ける。
「私っ!ブン太のことが好きだから!大好きだから!」
丸井が何か言おうとしているのが分かったがひよりは勢いを弱めない。
今、言わなくちゃいけない。今言わなければ、ずっと言えないままかもしれない。
「もしもう戻ってこれなくても、ずっと大好きだから!」
「おいひより、何言って…」
「だからもう一人の私に言っといて!ブン太に手を出したらぶっとばすって!」
それはとてもひよりらしい告白で、丸井は思わず笑った。
ひよりが抱きついていることでお互いの顔は見えない。しかし直ぐ傍で丸井が笑ったのを感じ、嬉しそうに、でもどこか悲しげに、ひよりはそっと笑顔を浮かべた。
視線を少し上げると、青い蝶が見えた。
室内に蝶がいるなんて変なの。そう思ったが、次第に蝶の周りから景色が変わっていく。水に溶ける絵の具のようにじわりと、ゆらりと。
遠慮がちに抱きしめられているはずの体が浮いたように感じた。
飛ぶ。そう察した瞬間、見えているのはもう丸井達がいる世界ではなかった。




[*前へ][次へ#]

あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!