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蝶々結び
止まない雨


ほんの一瞬。ほんの一回の瞬き。
目を閉じて再び開けると、まるで瞬間移動をしたように景色が変わった。
その景色がどこなのか判断する前にガクンと視界が滑り落ちた。倒れるように座り込み、腕と上半身の力だけでゆっくりと体を起こす。慣れた作業だった。
辺りを見渡す。自分の部屋は荒れた形跡を残す。床に物が乱雑に落とされていて少し散らかっていた。机に飾ってあった写真立ても落ちて、その面は泣いているように割れていた。
カーテンは閉じられていた。そこから漏れる光はぼんやりしている。音を意識すると、外は雨が降っていることに気付く。
薄暗い部屋にひとり。言い様のない孤独感が襲ってきた。
ドクドクと心臓や血管が脈打つ。体温が上がって、直ぐに下がり冷や汗が流れた。腕の力が抜けて、体は床に伏せる形になった。
妙にリアルな白昼夢でも見ていたような気分。肩にはまだ先程赤也が触れた感覚が残っている。指先に蝶が止まった感覚もある。
信じたくない。でも現実は今ここにある。この状況を説明する答えはひとつしかない。
私は、元の世界に。元の自分に。
「……戻って、きた…」
もしかして本当に夢だったのではないかと、ひよりは足元に転がっていたデジタル時計に手を伸ばして液晶を見る。時計が示す日付は8月の半ば。
自分があの世界へ行った日から時間はあちらの世界と同じだけ進んでいる。ということは、夢ではない。
じゃあどうして。どうしてこんな突然。

そこまで考えが及んで、ひよりはハッとする。
あちらに行ったのも突然のことだった。いつ戻ることになるかなんて予想できないのは当然だ。
これが本来のあるべき姿。私がいる場所。
どうしてなんてとんだ間違いである。元の世界に戻れたことは喜ぶべきことだし、自分にとってももう一人の自分にとっても良いことだ。それは、周りにいる人達にも共通して言えることだろう。
素直に喜べないのはきっと突然のことに混乱しているせいだと、自分に言い聞かせる。
ぐっと、何かに堪えるように下唇を噛んだ。
でも、戻るのであればもう少し待ってほしかった。せめて、彼に想いを伝えるまでは。





先程までの晴天が嘘のように、突然雲行きが怪しくなり強い雨が降ってきた。天気予報でも当てられなかった突然の雨は夏特有の通り雨とは違い、まるで梅雨に戻ったような雨だった。
やむを得ず練習は中止、メンバーは宿舎へと戻った。いや、雨が降っていなくても練習どころではなかったかもしれない。
食堂で各々好きな場所に座り、その中心にいるひよりは柳生が用意した麦茶を一気に飲み干した。
「……本当にひよりなのか?」
ひよりの隣に座る丸井がとても言いにくそうに口にする。ひよりは表情を曇らせて丸井だけでなく皆の顔を順番に伺う。
丸井が問いかけてきたことは、皆の意見を代弁しているものだと気付く。
「…信じられないの?」
ショックだった。何が原因か分からないがこの数日間、自分は体が違うものになって、知らない世界にいた。それが元に戻った。みんな手放しで喜んでくれると思ったのに。
例え中学の間だけといえど沢山の苦楽を一緒に過ごしてきた仲間に、自分の存在を疑われているのだ。
「私は秋川ひより!なんでそんな他人を見るような目なの?私は戻ってきたんだから!」
バン!とひよりの右手がテーブルに叩きつけられた。
掌がジリジリと痺れる。けれどそんな痛み、今はどうでも良かった。
「…ひより、今、戻ってきたと言ったな」
窘めるように言った柳にひよりは少し身構える。
「…い、言ったけど何よ」
「お前が状況をどのように解釈しているのか教えてほしい」
「え?どういうこと?」
柳が何を確かめようとしているのかその言葉だけでは分からず、ひよりはもう少し答え易くしてくれないかと聞き直す。
「…ではこうしよう。今まで、どこにいた?」
まるで警察の取調室で尋問されている気分だ。この張り詰めてどんより重い空気がそう感じさせている。
ひよりはそれを吹き飛ばすように溜息をひとつ吐いた。そして思い出したくないがこの数日間のことをひとつずつ頭に浮かべていく。
「知らない場所よ。正確には知ってるけど知らない場所っていうか…私は私で、家も家族も同じ。けど、それは自分じゃないし私の家族でもない。私が住んでる街でもない。でもそこでの記憶みたいなものは所々あって、なんて言ったらいいのかな…」
「…もう一人の自分?」
「そう、それ!違う世界の私!ナイス仁王!」
「ビンゴ、だな」
丸井が呟いて皆と目を合わせた。それを受けて、皆は今まで不確かだった入れ替わりの事実を確かなものにする。
「信じてくれた?」
「まぁ、信じるしかないだろうな」
「でしょうね」
ジャッカルと柳生がぎこちなく笑った。やっと見せてくれたメンバーの笑みにひよりは嬉しくなり、満面の笑顔を浮かべる。
ああ、知ってる表情だ。これがひよりの笑顔だと皆がそう思った瞬間だった。
「…何はともあれ、戻って良かったの」
「ちょっと、本当にそう思ってるの?相変わらず胡散臭いなぁ」
ひよりに言われて仁王は目を逸らしたくなった。良かったと言ったのが100%本心かと聞かれると、素直に頷くことが出来なかったからだ。
しかしそれにひよりは気付かない。
「思っとる思っとる。のぅ、赤也?」
「え?あ、そ、そうっスよ!良かったっス!」
自分に意見を求められるとは思ってもいなかった赤也は突然話を振られて慌てて同意した。
正直な所、まだ整理が追いついていないようだ。
「私がいない間、ここにいたのはもう一人の私でしょ?どんなカンジだったの?」
「どんな…そうっスね、なんか不思議なカンジでしたよ」
「…不思議ちゃん?」
「いや、そういう意味じゃないっスよ。なんつーか、優しい人っていうか」
「…お前と違ってとても真面目な性格をしていた」
それまで黙っていた真田が口を開いた。ひよりは視線を赤也から真田に移し、帽子のつばに隠れる表情を伺った。
「何よ嫌味?もうちょっと真面目になれって?」
真田が言ったことが嫌味でないくらい、当然ひよりは分かっている。分かった上でからかうような応答を返す。
「全く、お前は相変わらず捻くれた解釈をするな」
「はいはい。どーせ捻くれてますよー」
ああ、随分と久しぶりに感じる。みんなとのこういったやり取りがこんなに楽しいものだったなんて、今まで知らなかった。
自分がそう思うせいか、みんなも同じ気持ちを共有しているようにひよりは感じていた。
「ね、ブン太はどうだった?」
「…やっぱ、お前はお前でないとな」
丸井が初めて笑顔を見せた。久しぶりに見る丸井の笑顔に、ひよりは沢山の安心感を得る。
やっぱり私がいるのはここでなくちゃ。あんな自分は、二度と見たくない。
「あ、そういえばちゃんと言ってなかった!」
何のことかと皆は不思議そうにひよりを見る。
「幸村!」
不意に自分の名が呼ばれて、幸村は驚いてひよりと視線を合わせる。
するとひよりはこれまで以上の笑顔を見せて言った。
「テニス部におかえり!これでみんなで全国に行けるね!」
「…あぁ、ありがとう」
自分を呼ぶ聞き慣れた声。だけどそれはつい数十分前とは全く違う。そんなことを考えている自分が愚かだと幸村は思った。
戻ってきたひよりはこんなにも自分の復帰を喜んでくれている。なのに、自分はひよりが元に戻ったことを心から喜べなかった。
皆と笑う見慣れた光景。数日前までは普通だったそれも全然違うものに感じられた。例えるなら、視界の色が微かにくすんだような。
丸井の隣で笑うひよりとそれを受ける丸井と、第三者として見ている自分。ひよりの帰還を喜ぶこの光景に自分だけが取り残されている気がした。

「それで、入れ替わる原因に心当たりはあるのか?」
空気は随分と緩和されて、談笑を交わすには心地いいものになった。そんな中、ジャッカルがひよりに問いかける。
ひよりは自分で注ぎ足した麦茶を再び一気に飲み干して、濡れた口元を手の甲で荒っぽく拭いた。
「…さぁ、朝起きたら突然だったから。でも、」
「でも?」
不安そうに向けられた視線に丸井は続きを促す。ひよりは少し言い淀んだが、誰かに聞いてもらいたい思いが作用して話し始めた。
「もう一人の自分は、凄く辛い思いをしてるんだなってことは分かった」
それを聞いて幸村はハッとする。もしかしてひよりが言おうとしている続きは、皆が知らない事故のことではないかと。
口止めをされている訳ではなかったが、いくらもう一人の自分でも他人の口からは言ってほしくないのではと、幸村はあちらのひよりを思う。
「なんでだよ?あっちでもテニスしてたんじゃねぇの?」
丸井はひよりが言う辛いの意味が読めず首を傾げる。
「ちょっと前まではね。でも今は歩くこともままならない状態だから」
ひよりは昔話でもするように、存在しない想像のように軽く言い放った。
え?と、幸村以外の者がその意味を理解できずに瞬きを繰り返す。
「詳しくは知らないけど、なんか梅雨時期に事故に遭って、歩けないくらいの怪我をしたみたい」
初めて聞くもう一人のひよりの本当の姿に、皆は言葉を失った。
それに気付いていないのか気にしないのか、ひよりは続けてあちらの世界でのことを話し進めた。

初めは何が何だか分からなかった。どうして足が動かないのかも分からなかった。
どうして私が。どうしてこんな目に。
常にイライラしていて、物に当たったり家族にも当たった。
急に別人のようになった私に家族は驚いていた。そりゃそうよね、だって姿は同じでも正真正銘別人だもん。
一回だけ言ったの。私はあなた達が知ってるひよりじゃないって。でも当たり前だけど信じてくれるどころか、別人格を語る私にどう対応していいか分からなくなったみたいで。
優しかったけど、腫れ物を扱うような家族になんだか凄く悲しくなって。言ったのはそれっきり。
どうしようもない状況を何とかしたくてもう一人の自分を調べたりした。
不安でいっぱいで、久しぶりにあんなに泣いた。リハビリとか、とても行ける状態じゃなくて。そんな気分にもなれなかった。
あんな状態だったら誰だって一度は思う。これは本当の自分じゃない。もう一人の自分がいたら…って。
幸村ならよく分かるんじゃない?もしかしたら同じことを過去に思ったかもしれないね。
やっぱり思うのは、どうして私が。どうしてこんな目に。
もしこの状況から抜け出せるなら、誰でもいい。願いを叶えてほしい。自由な体を、自由な私を、もう一度。

「何が起こったのかは分からない。けどこうして戻ってこれたんだし。終わり良ければ全て良し!ってね」
あちらでのことを一通り話し終えて、ひよりはそう締めくくった。
しかしその明るい声とは裏腹に空気は再び重みを増していた。
「…何よ、なんでみんなそんな暗いの?」
誰も反応を返してくれない様子を見ると、ひよりはまさか、と口にする。
「まさか、知らなかった…?」
その沈黙は肯定を示していた。
ひよりは全部知っているものだと思って話していた。もう一人の自分が告白してると勝手に思っていた。
「…ごめん、少し席を外すよ」
「え?幸村?どうしたの?」
ひよりの問い掛けに苦い笑顔を浮かべただけで、幸村は静かに食堂を出て行った。
「…………」
幸村がどうして出て行ったのかひよりには分からなかった。何とも言えず、ひよりは皆と同じように黙り込む。
雨音は一向に静まる気配がない。
これも何故か分からないが、ひよりはその雨音を憂鬱に感じていた。今まで雨に対してそんなことはなかった。
この嫌なカンジは、もう一人の私の記憶と感情のせいかもしれない。なんとなく、そう思った。








流れ込んでくるような、でも確かに自分の中に疼いているこの感情は誰のものなのだろうか。
「どうして私が。どうしてこんな目に…」
口が勝手にそう発音していた。これは自分の意思で声にしたのではない。
ひよりはうつ伏せになっている体を起こした。力を入れると両腕は震える。私の体はこんなに弱いものだったかとひよりは胸が痛んだ。
「これは本当の自分じゃない。もう一人の自分がいたら…」
まただ。もしかしてこれは、もう一人の私が言っている言葉…?
自分と彼女は今、どこかで繋がっているのではないかと疑う。その直後に、そんな訳がないと自嘲した。
例え今の言葉が彼女が言ったものだとしても。私はその感情をよく知っている。入れ替わってあちらの世界に行くまで、常に頭の端で考えていたことだった。
誰かがこの浅はかな願いを叶えてくれたというのだろうか。だから私は世界を越えたの?もう一人の自分を犠牲にして。
泣きたいのに、まるで枯れたみたいに涙は流れなかった。本当に枯れていたのかもしれない。もう一人の自分が沢山泣いたのかもしれない。
もう一人の私は今、笑っているだろうか。元に戻れたことをみんなで喜んでいるだろうか。

ひよりの代わりに、空は強い涙を地面に打ち付けていた。




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あきゅろす。
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