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蝶々結び
沈黙から見出せるもの


朝食をとる父、キッチンに立つ母。両親に変わった所は特に見当たらなかった。
時間になると父が先に出発し、見送る母。それを、朝食を口に運びながら眺めるひより。
混乱しているひよりにとって、そのいつものような風景は落ち着きの材料となり考える余裕をくれた。
しかし時間はそうではなかったようで、ひよりは母に急かされて玄関を出ることになった。

玄関を出れば、部屋の窓から見下ろした通りの見知らぬ街。
後ろで玄関のドアがガチャリと閉まる音が聞こえて、同時にひよりは歩き出す。

知らない街なのに道順が分かる。
行先には知らない学校があることは予想出来た。現に今、ひよりは見たこともない制服を着ているのだから。

一体どういうことなんだろう。
私じゃない私がここで生活している。そんな感覚。
私は何故ここの生活のことを知っているのか。
毎日通っていたであろう通学路を進みながらひよりは考え込んでいた。

しかし分からないことがあった。
家族以外の人間関係、それはどんなに探しても手繰っても記憶の欠片は見当たらなかった。

例えば、こちらに向かってくる知らないおばさんがすれ違い様に声をかけてきた。
「行ってらっしゃいひよりちゃん」
相手はひよりのことを知っている。しかしひよりはそのおばさんが誰なのか知らない。
戸惑いつつも会釈を返すとおばさんはこう言って笑ったのだ。
「あら、いつもより元気がないわね。今日はテストか何か?」

元気がない?
混乱はしているけど、体調に問題はない。朝ご飯だってお母さんにしっかり食べさせられた。

そのおばさんだけじゃない。
恐らく近所に住んでいるのだろう、ランドセルの小学生にも話しかけられた。勿論この小学生も誰か分からなかった。

でもそれが当然であるように、ひよりは通学路を歩く。
きっと学校も知らない人ばかりだ。そう予想したひよりの後ろから声が響いた。

「あれ!?ひより先輩じゃないっスか!」
名前を呼ばれてひよりは素直に振り向いた。
少し離れた所から走ってくる人物は同じ学校の制服を着た男の子。癖の強い黒髪と人懐っこい表情を持っていた。
しかしひよりには誰か分からない。
「どうしたんスかこんな時間に?先輩も寝坊っスか?」
ひよりに追いつき隣を歩く少年は悪戯っぽく笑った。

先輩ということはこの子は学年が下。
肩に担いでいるラケットバックを見ればテニスをしている人だと分かるのだが、ひよりにはそれに気付く余裕がなかった。
相手のことを知らないということを、相手に知られてはいけない。相手まで混乱させてはいけない。その思考で頭がいっぱいだった。
辛うじて笑顔を返しただけで何も言えないでいるひよりに少年は気付かないのか気にしてないのか、笑って言葉を続ける。
「つかマジで急がないとヤバイですよ!走りましょ!」

その言葉が駆け出す合図。ひよりは少年に手を取られ、引かれるまま足を速めて、風を切っていた。
露出している肌にあたる温い風。じわりと伝う汗。この感覚を味わうのは随分と久し振りのような気がした。



予想通り知らない学校に到着しそのままテニス部の部室に足を運んだ。
そこでひよりは、朝起きて一番に考えたのは朝練のことだった、と思い出した。
「男子テニス部…」
「え?何か言いました?」
部室のドアの横に掲げられているプレートを見て無意識に呟いた声。少年に聞き返されてひよりは首を左右に振って咄嗟になかったことにした。

「おはざーっす!セーフ!?」
勢いよく部室のドアを開けて一緒に登校した少年が声を大きくした。
「アウトだ」
少年の背中で部室の中まで見えなかったが、奥から清閑な声で遅刻が報された。
「えぇ!?今日は大丈夫でしょ、柳先輩!」
少年に続いて部室に入れば、テニス部のメンバーが数名いるのが見えた。ひよりはその人数を確認することもせず直ぐに俯いた。目を合わせたくなかった。
「どこにそんな根拠があるんだよ…」
「赤也お前、時計の見方も分かんねーの?」
後ろ手でドアを閉めたはいいが、どのような行動をとって良いか分からないひよりはそこから動けずにいた。
「ミーティングだけだからといって遅刻はいけませんよ」
「ちぃとも学習しとらんの」
これで赤也と呼ばれた少年以外の声は5人目と、視界を下げているひよりは耳で人数を数えていた。
話し方からして、赤也よりも学年が上であることが分かる。しかしそれは自分にも言えることなのか確信が持てなかった。
「たるんどる!」
6人目の声は威厳に溢れていて、驚いたひよりは無意識に肩が竦んだ。
「ちょ、待っ!殴るのは待って下さいよ真田副部長!今日はひより先輩も一緒ですよ!?」

ぐっ、と重力に引かれた。一瞬視界が揺らいで、それにハッとして顔を上げれば目の前には黒い帽子を被った怖そうな人。
両肩に少しの圧力を感じたひよりは首を動かしそれを確認すると、ほぼ同時に赤也がひよりを盾にするように顔を隠した。
「ね、ひより先輩っ」
何でもいいんでフォローお願いします!小声でそう付け足して赤也は自分よりも小さな背中に更に隠れようとする。
「真田。赤也。」
先程の人物とはまた違った静かな一言は、ひよりを挟む二人の動きを簡単に抑えた。赤也の両手はひよりの肩から離れ、真田と呼ばれた威厳ある人物は頭の高さまで挙げていた右手を下ろした。
「ひより。」
そして、その静かな声は続けられた。自分が呼ばれたと理解した時には既にその人物と視線が合っていて、ひよりの鼓動は先程走った時とは全く違う、嫌な速度の上げ方をした。
「…ひより?」
再度、名前を呼ばれる。

室内にいるひより以外の8人が異変を感じた瞬間だった。
一斉にその視線がひよりに向けられ、ひよりにとってそれは本当に刺さるようなものに感じられた。

「…ご、ごめんなさ…っ」
何故だか分からないが謝罪の言葉が出ていた。しかしそれを言い切る前にひよりは後ろにいた赤也を避けて部室のドアを開けた。
そして、振り返らずに走った。

開けられたままのドアから登校してくる生徒達の声が聞こえる。
8人は数秒の間ドアの向こうを見ていたが、次第にそれぞれに目を合わせた。
「なんだ?アイツおかしくねぇ?」
「えぇ…何か様子が変でしたね…」
「挨拶どころか、一言も喋らなかったな」
何かおかしい。それは簡単に悟ることが出来たが、その何かが分からなかった。
「赤也、一緒に登校してきたんだろう?」
幸村のその声は問い質す様に赤也にかけられた。何かおかしいと思う所はなかったか、そう尋ねられていると赤也は受け止め口を開く。
「…その、急いでたんで…」
走ってきた通学路とひよりの様子を思い返してみたが赤也には幸村に答えられるような発見はなく、それを弱く伝えただけだった。
そうか、と幸村は口を閉じた。

「あ、でも!ひより先輩、笑ってなかった…っス…。いつもよりも表情が固かったというか…」
ひよりは笑顔を作っているつもりだったが、赤也にとってそれは笑顔に感じられなかった。赤也が知っているひよりは、向けられた相手が一緒に笑いたくなるくらい、もっと明るい笑顔を持っているからだ。

「…ミーティングは明日にしよう」
幸村の提案にメンバーはそれぞれ頷いた。そして幸村は席を立ち、開けられたままのドアに向かう。それを止める人などおらず、むしろそれがひよりにとって一番良い方法ではないかと皆が思った。
「明日は時間厳守だからな」
幸村は穏やかに笑ってドアに一番近い赤也の肩に触れた。
それから、今は姿を消したひよりの背中を追うように幸村はドアを潜った。











笑っていなかった。
それだけでひよりに何か起きていることは明白だった。
「ひより…」
ひよりを探して呟かれた声は、酷く不安に揺れていた。








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