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蝶々結び
密やかな息吹


「本日は有難うございました」
幸村がバスに乗り込もうとするOBに一礼した。それに倣いメンバーも軽く頭を下げる。
本日の練習を終え、空はもう紅く染まっていた。
OBが全員バスに乗り込み、エンジンがかかる。震えだした車体からひよりは少しだけ視線を外した。
数秒経ってもエンジン音が遠ざかることなく、不思議に思い視線を戻す。
それと同時にバスのドアが開かれ、水原がステップを降りてきた。
「…秋川」
何か忘れ物だろうかと思っていたメンバーは口にされた名前に反応してひよりを見る。
水原が歩んできたので、戸惑いはしたがひよりは皆の前にいた幸村よりも数歩前に出た。
「…その、悪かったな。迷惑かけて」
水原がひよりに迫ったことを知らない者が聞けば怪我に対しての謝罪になるが、水原はその意味で言ったのではない。
ひよりもそれを読み取り、なんとなく受け取りきることもできずにその言葉を持て余した。
「全国、応援してるぜ。頑張れよ」
何も言わないひよりを気にし、水原は続けた。本心だった。
ひよりは薄く笑った。嘘と捉えたのか本心と捉えたか水原には分からなかった。
少し苦い感情が口の中に広がるようだったが、水原は笑ってみせた。
「あんまり話してると後ろで睨んでるヤツにまた何か言われそうだ」
そう言われてひよりは後ろを振り向く。メンバーの中で唯一不機嫌そうに、ガムを膨らませて視線を鋭くしている人物がいた。
「…本当に悪かった。それじゃ」
ひよりが反応を返す前に水原はバスに乗り込んで姿を隠した。
運転手から発車しますと声をかけられてひよりはバスから離れる。
間もなくバスは走り出した。
やはり、水原は悪い人ではない。頑張れと言ってくれた気持ちは嘘には見えなかった。
でもあの水原にはもう会うこともないんだろうと、小さくなるバスの背中を見ながらひよりは思った。
宿舎に戻ろうと後ろを向くと丸井と目が合った。少し困ったような、呆れたような、丸井はそんな表情で。丸井も水原を嫌いにはなりきれないのだろうと、ひよりは笑みを返した。



夕食を終えて解散した後、ひよりはテーブルに向かっていた。
部屋のドアがノックされて返事をする。ドアの向こうで応えたのは柳だった。
「今朝、何か用事があるようだったが」
そう言われてひよりはハンカチのことを思い出す。自分から言っておいてそのことをすっかり忘れていた。
「ごめん、ちょっと待ってて」
部屋のドアを開けて柳を迎え入れてからひよりは鞄を探った。
目的の物は直ぐ見つかり、畳んだ折り目の他に皺がないかを確認する。
よし大丈夫。と思い、立ち上がって柳と視線を合わせた。
「…宿題をしていたのか?」
ひよりがハンカチのことを言うより先に柳の疑問が渡された。すらりと動く柳の視線を辿れば、背後のテーブルに広がった問題集や教科書。
「あぁ、うん」
「こちらのひよりの為にならないという理由で宿題はやらないと聞いたんだが」
「えっと…」
それだけ聞けば他人を思う人の善さが表れているが、ひよりはそこまで考えていた訳ではなかった。恐らく幸村か柳生が柳にそう伝えたのだろう。
隠す理由もなかったのでひよりは素直に答えることにした。
「そのつもりだったんだけど、ちょっと違うかなって」
「違う?」
「もう一人の私は、向こうで凄く頑張ってると思うから。私だけ楽するのは良くないと思ってやっぱりやることにしたんだ」
別人だとしてもやっぱり自分は自分で、切り離して考えることは出来ない。
もう一人の自分がどうしているのかは分からないけれど、想像することは出来たから。ひよりは続けて柳に告げた。
柳はもし良ければ、と前提してから言葉を続けた。
「俺が宿題を見よう」
中々進まない問題集のページ。それに気付いた柳は分からない所を教えてくれると言う。
「え?そんなの悪いよ。自分でやるから柳くんは体を休めて」
「自分でやるという取り組みは殊勝なことだが、あまり進んでいないように見える」
「…その通りです…けど、やっぱり悪いよ」
柳が教えてくれるのなら一人より進行も速くなるだろう。それはとても嬉しいことだ。しかしひよりは柳の時間を奪う申し訳なさからその申し出を受け取れなかった。
「残りはどれくらいだ?」
「えーっと…数学と理科が10ページずつくらい…」
「それなら今夜中に終わるだろう」
言い終えると柳はひよりを通り過ぎてテーブルの前に進んだ。どうやら柳も引き下がる様子がなく、むしろその行動が食い下がったものだったのでひよりは断ることを諦めた。
手にしたままのハンカチは後で渡そうと、とりあえず鞄に戻した。
「…じゃあ、宜しくお願いします」
言いながら席に着く。もう一つの椅子を隣に引き寄せて座る柳とは思ったよりも近い位置だった。
しかし水原の時のように嫌な感じがしないのは、柳の優しさが溢れているせいだろうとひよりは思った。




ひよりと水原との間に何かあったことは確実だ。それを丸井が知っていることも間違いない。
幸村はOBが帰る際のひより達のやり取りを見て確信していた。
しかしひよりは勿論丸井もそのことを口外するようなことはなく、訊ねようにも訊ねにくい雰囲気もあった。それなら無理に聞くこともない。
他のメンバーも同じように見ぬフリをしているのか、幸村には分からなかった。ただ、自分一人が凄く気にしているようでなんとなく腑に落ちない。
これじゃまるで、仲間外れを嫌がる子供だ。
少し頭を冷やそう。そう思い幸村は宿舎を出た。
それが当然のようにコートに足を向けると、真田が壁打ちをしていた。
夕食後の自由時間、体を休める者が多い中、真田は未だラケットを握っている。とんだテニス馬鹿だ。しかし他人のことは言えないなと幸村は苦笑した。
「真田」
呼ぶと真田が振り返った。突然現れた幸村に驚くこともなく、真田はただ目を合わせる。
「少し根を詰め過ぎじゃないか」
幸村が口にしたのは労わる言葉だったが、言っても無駄なことは分かっていた。現に一番の頑固者はラケットを離すことはおろか、その場から動こうともしない。
「…昼間の練習は物足りない?」
「いや、メニューに問題はない。自分が納得出来ないだけだ」
いつもの顰め面に悔しさが表れているようだった。その悔しさは自分を見ているようだった。
「…焦ってる?」
真田の視線が外れた。図星のようだ。
青学のルーキーに敗れたことを悔いる真田は大会前よりも自分に厳しくなった。
「俺はお前や蓮二のように器用ではないからな」
焦りは、皆どこかで感じているのかもしれない。それをどう処理するかは各々だが、真田はこういうやり方でしか解消することが出来ないのだろう。
「俺も器用な方じゃないと思うけどな」
幸村は苦笑した。器用であれば、誰もいないコートで独りで練習することはしない。ただ真田と違うのは、それを誰にも見せないということだけだ。誰かに発見されれば、仲間達は自分に付き合うことは予想できた。だから合宿中は個人練習を控えている。
「関東大会、俺は約束を守れなかった」
「…………」
「全国では必ず勝つ。今年も優勝旗を持ち帰ってみせる。」
真田の意志は固い。そんなことは知っている。しかし幸村には違う風に聞こえた。
「…間違えるな」
自分一人で果たそうとしているように聞こえたのだ。
「その約束を誓ったのはお前だけじゃない。勿論、俺だけでもない」
真田は幸村の訂正に訝しげな目を向ける。幸村は続ける。
「みんなで誓ったものだ。」
「……そうだったな。言い方が悪かった」
真田は今それを思い出したように呟いた。
みんなで誓ったことを忘れていないのならそれでいい。そう思ったのは本心だが、もう一つ幸村は思うことがあった。
真田の先程の言い方は、俺だけがコートにいない光景を描いているように聞こえた。しかしそれは流石に疑い過ぎだろうと、口にはしなかった。
俺は戻ってきた。皆と共にコートに立っている。分かりにくいが、それを誰よりも喜んでくれたのは真田だ。
そしてもう一人。全員で全国に臨めることを一番に喜んだのはもう一人のひよりだった。遠くない記憶の中に今のひよりはいない。
「…さっきの真田の言葉、ひよりに言ったらどう思うかな」
不意にひよりの名前が出たことに真田は内心で驚く。先程までよりも幾分か声が優しく聞こえたからだ。
「恐らく、幸村と同じことを言うのだろうな」
「え?」
「自分もその約束を守るつもりだ。もう一人の自分の為にも、と」
それはあくまで、ひよりが全国大会を終えるまでここにいられると仮定したものだ。
幸村はその仮定を信じたくなった。こちらのひよりを蔑ろにしている訳ではない。ただ、可能ならば今のひよりと大会を迎えたいと思った。
自分でも不思議だ。ひよりが早く元の世界に戻れるように、そう思っていたはずなのに。
幸村はその思考を溜め息に変えて吐き出した。頭を冷やしに来たのにこれでは意味がない。そう思い、ひとつ提案する。
「真田、ラケットを貸してくれないか」
突然の申し出に、真田は眉間に皺を寄せて疑問を表した。
「壁相手よりも、俺を相手にした方が効率的だろ?」
悪戯っぽい言い方とは逆に、幸村の目に鋭さが光った。



ガコン。ロビーに音が響く。自販機の中のスポーツドリンクが取り出し口に落ちた。
軽く汗をかいた体は水分を採りたがっていた。もう少しコートにいると言う真田を残して幸村は先に宿舎に戻った。
体を動かしたせいか、頭は割りとスッキリしていた。
「幸村くん」
体を軽く曲げてドリンクを取ると、背後から自分を呼ぶ声。幸村は姿勢を戻しながら振り返った。
ひよりが小走りで駆け寄ってきた。
「…運動してたの?」
「あぁ、真田と少し打ってきたんだ」
「言ってくれればドリンクくらい用意したのに」
幸村が持つペットボトルに気付いてひよりは気遣いの言葉を口にした。
ひよりがそう言ってくれることを嬉しいと感じつつも、いや、と幸村は否定した。
「自由時間にその仕事を強制する訳にはいかないよ。ひよりも何か買いに?」
「うん、柳くんに」
「蓮二?」
柳がひよりにこのような頼み事をするとは思えない。何か別の理由があってその名を出したのだろうと幸村は聞き返した。
「宿題を見てもらってたの。それでお礼に、と思って。柳くんには必要ないって言われたんだけどね」
「…そう。」
チャリ、と自販機が小銭を飲む音が聞こえた。自販機は一斉にボタンを光らせて押されるのを待っている。
ひよりは片手を顎に当てて少し難しい顔をしていた。
ピ。指定されたものが落ちる。ボタンに指を伸ばしたのは幸村だった。
「蓮二はこれがいいと思うよ」
幸村が手にする2本目のボトルは緑のラベル。
はい。と手渡すとひよりはボトルを見つめた。
「緑茶…イメージ通りだね」
ひよりは笑った。その笑いの裏に柳を思い浮かべていることは誰が見ても分かる。
幸村も笑顔を返したが、まるで愛想笑いをする時のように自分の表情が固く感じた。そうなる理由が分からなかった。
「選んでくれてありがとう。それじゃ、」
「あ、ちょっと待って」
手を振ろうとひよりが手の平を見せた時、それを遮るように幸村は口を開く。
「予備のグリップテープってあるかな」
「? うん、持ってるけど」
意図が読めないひよりは質問に答えつつも首を傾げる。
「明日でもいいと思ったけど、今貰ってもいい?」
真田に借りたラケットのグリップをダメにしてしまったんだ。幸村はそう続けた。嘘ではないのに嘘を取り繕うような言い方で、幸村は内心で苦笑する。
「そっか。部屋にあるから、寄ってくれたら直ぐ渡せるよ」
行こっか。と、ひよりが言い、二人はロビーを後にした。


「お待たせ」
ひよりがドアを開けると、視界に柳の姿が映る。柳はひよりよりもその背後にいる幸村と目を合わせた。
幸村よりも先に柳が口角を上げた。その微笑の意味を読み取ることは難しいと幸村は感じる。
「これで足りるかな?」
「あぁ、ありがとう」
ひよりが戻ってきて幸村に確認すると、また直ぐにひよりは体を翻した。
「柳くんも、これ」
そして柳に何かを手渡す。
「借りたままだったから返そうと思って」
ひよりが差し出すハンカチを見て、柳は「あぁ」と声を漏らした。まるで本人も忘れていたような、そんな相槌だった。
「ありがとう。」
「別に持っていたままでも構わなかったが」
平然と言う柳にひよりは笑った。
「そういう訳にはいかないよ。それと、宿題も見てくれてありがとう」
はい、とひよりは柳の手の平にハンカチとペットボトルを乗せる。柳は受け取ったハンカチをじっと見、一瞬だけ幸村に視線を移す。
その視線は幸村にもひよりにも分からない程僅かな時間で、直ぐに柳はひよりに視線を戻した。
「泣いてもいいが、泣き過ぎは良くないぞ」
それは、ひよりが泣いている姿を柳に見せたことがあるということなのか。
幸村には判断しかねたが、その言葉を聞いて、グリップテープとボトルを持つ手が微かに力を増した。それは幸村自身も気付かない程のものだった。
「…気を付けます」
恥ずかしそうに、申し訳なさそうにひよりは俯く。
それを宥めるように柳はひよりの頭を軽く撫でた。
なんだろう、この感情は。その光景を見ていられず、幸村は二人から視線を外した。
「ひよりセンパーイ!…あれ、部長も柳先輩もここにいたんスか」
空けたままのドアから顔を覗かせたのは赤也。いると思っていなかった幸村と柳の姿に驚いていた。
「先輩達もDSで対戦しません?今盛り上がってるんスよー。ねっ!行きましょう!」
返事を聞く前に赤也はひよりの手を取って廊下に出た。
「え、ちょ、私ゲームとか苦手で…」
「だーいじょーぶですって!」
テンションが上がっている赤也は聞く耳を持たないようで、ひよりの遠慮はスルーされた。
「先輩達も気が向いたら来て下さいね!」
流石に柳と幸村には強引に押すことが出来なかったのか、赤也はそう言い残してひよりを連れ去って行った。

「…精市」
「…ん?」
「……いや、何でもない。気にするな」
柳は自分から呼んだくせにそんなことを言う。気にするなと言われても無理がある。
「何か言いたいことがあるなら言ってくれ」
そうは言ったけれど、その先にあることを聞きたくないような気もした。予感のような、不確かなもの。
柳は再び何を考えているのか分からない微笑を浮かべる。
「俺はひよりが泣いているのを直接見た訳ではない。」
「…え?」
「分からないか?ひよりが涙を見せることが出来るのは恐らく、お前だけだ」
「どうしてそんなことを俺に言うんだ」
ふ、と柳は微笑を声にする。
「誤解されて身に覚えのない敵意を向けられるのは避けたいからな」
何を言っている?幸村は疑問を声に変えることが出来なかった。
確かに、ひよりが柳の前で泣いたんだろうという予測は誤解だったかもしれない。しかし意味が分からないのが次の単語だ。
敵意? …俺が蓮二に?
「蓮二、さっきから何の話をしているのか分からないんだけど」
「…そう思うのならそれでもいい」
柳は部屋を出る際に、幸村の肩に触れてそう言った。






全く分からない、という訳ではない。
しかし思い当たる感情の名前はそれしかなくて。
「……これじゃ、まるで…」
その続きを声にすることを恐れるように、幸村は口を結んだ。



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