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蝶々結び
偶然の既視感


「今日は顔色がいいな」
「沢山寝たから」
おはよう、と食堂に顔を見せた柳と挨拶を交わす。
昨夜、食堂で皆と解散して部屋に戻ったひよりは少しだけ机に向かい作業をしていたが直ぐに眠気がやってきたので日付が変わる前には夢の中にいた。
また無理をして練習を休む訳にはいかないと思い、欲に素直に従った。おかげで目覚めは頭がスッキリしている。
「…今回は腫れてないようだな」
う、とひよりは言葉に詰まる。仁王だけではなく柳にも泣いていたことはバレていたようだ。
しかし眠る前に以前柳がそうしてくれたように、タオルで目元を冷やしたので今朝には泣き顔の面影はなかった。
そういえば、あの時柳が貸してくれたハンカチをまだ返していない。出来るだけ早く返したいので、今日の練習後にでも渡そうとひよりは思った。
「柳くん、今日の夜、手が空いたらでいいから少し時間もらっていい?」
ひよりの申し出に柳は不思議そうに少し眉を動かしたが、覚えておこう。と朝食が並ぶテーブルに着いた。
「ご飯は大盛り?」
「いや、普通で構わない」
「はよーっす。俺大盛りでシクヨロ」
お椀を手にした時、他のメンバーがぞろぞろと食堂に顔を出した。
大盛りと言ったのは丸井だ。その後に続いて各自の希望をひよりは受け入れる。
希望通りにご飯と味噌汁を装いながら、声が足りないことに気付く。
「…真田くんは?」
それぞれが座った場所に配膳しながらひよりは尋ねた。
「あぁ、もしかしたら自主練してるのかもな。真田は桁違いに早起きだから」
呼んでこようと思ったのか、ジャッカルは苦笑しながら席を立った。
「別に呼びに行かんでもいいじゃろ。アイツは時間にうるさいからの」
仁王が呆れたように半分笑って言い終えたとほぼ同時に食堂の扉が開いた。
真田はジャージには着替えていなかったが、額や首筋にうっすらと汗を浮かべていた。その汗は軽く運動していたことを示していた。
みんなよりも早く起きて体を動かしているならお腹も空いているだろうと、ひよりは真田に尋ねる前に大盛りでご飯を装った。
揃って朝食を取った後、幸村と柳によって本日の練習内容が確認された。
今日のメインはOBとの練習試合。卒業した人でテニスを続けている先輩や、立海高や大学に通う人が日帰りで遠征してくれる。OBとの合宿練試は毎年恒例のものだ。
もう一人のひよりは去年も参加しているので顔見知りも多いだろう。迷惑をかけないよう気を張っていこうとひよりは思った。



合宿所のことも手伝っているのでコートと行ったり来たりしている内にお昼前になっていた。
丁度コートに向かおうと玄関を出ると、自分達が乗ってきたマイクロバスが駐車場に止まるのが見えた。ドキリとした。まだ自分の中にはバスへの抵抗がある。
ひよりは首を振った。今はそのことよりも合宿のことを考えなくてはいけない。
バスに乗っているのは立海のOB。やはり先輩だけあって雰囲気や顔付き、体付きも皆とは違って見えた。
OBのメンバーが書かれているメモがポケットに入っているのを確認して、ひよりは玄関で気を付けをした。
バスから降りてくるOBがこちらに向かってくる。
「今日は宜しくお願いします」
今年遠征に参加するOBは10名。全員揃ったことを確認してひよりは頭を下げた。
「えっと、では荷物はこちらに…食堂で昼食を取った後、準備が整ったらコートに出てアップして下さい」
宿舎に誘導した後、では。ともう一度礼をして背を向けると、ポンポンと肩を叩かれた。
何だろうと振り向くと、ひよりの右頬に誰かの指が刺さった。
その向こうにはラケットを取り出したり着替えたりして支度をするOB達が見えたが、ひよりは頬に当たる指を辿った。
「秋川、久しぶりだな!」
人差し指を突き立てたままその人物は笑った。その人物を視界に映して、ひよりは息を飲んだ。
何故か。その人は、自分が知っている顔だったからだ。
「前より身長伸びたな。ていうか痩せたか?」
「……水原さん…」
メンバーの名前を見た時もハッとした。元の世界で知っている名前がそこに書いてあったからだ。でも同姓同名ということもあるし、むしろその可能性の方が高いと思って気にしなかった。
しかし目の前にいる人物は顔も名前もひよりが知っている者だった。テニススクールでよく一緒のコースにいた2つ上の先輩、それがひよりの知っている水原だ。
そんなまさか、と思った。同時に、やはりこの世界には向こうの世界と対になるもう一人の自分がいることを実感させられる。
「水原さん、私です、秋川ひよりです。覚えてますか?」
ひよりが言った覚えてますかは、あちらの世界の記憶はありますか、という意味だった。
もしかしたら彼も自分と同じように入れ替わった可能性があるのではと、そういう言い方をした。
水原の言動や表情は、ひよりが知っているそれと全く同じだったからだ。肩を叩いてからかうのも何度かやられたことがある。
「? そりゃあ覚えてるけど。2年くらいで忘れないって」
しかし期待した答えは返ってこなかった。ひよりは視線を落とした。
「どうしたんだよ?お前何か変だぞ。暑さにやられたか?」
「…大丈夫です、すみません。それじゃあ、私はコートに行くので」
「あっ、おい!」
水原が呼び止める声を背後に聞きながらひよりはコートへと走った。

「幸村くん、先輩方が到着したよ」
コートに入って幸村に報せる。心臓が強く波打っているのは走ってきたせいだけではない。
「先に昼食を取ってもらって、その後アップにコートを使うから…」
「うん、じゃあ俺達は30分後に休憩に入ろう」
幸村の声を聞くと少し落ち着くことができる。
「ドリンクは足りてる?」
「大丈夫だよ。」
「…怪我してる人はいない?」
「それも大丈夫。ひよりは心配性だな」
少しでも会話を多くする為に質問をするのはとても自分勝手だなと思った。
「…じゃあ、食堂を手伝ってくるね」
それでも幸村の優しさに甘えてしまうのは一線を越えてしまった想いのせいかもしれない。
「任せきりで済まない。よろしく頼むよ」
ひよりがコートを出ようとフェンスに手をかけた時、幸村がひよりを呼んだ。
「…ん?」
「何かあったら、直ぐ言って。どんな小さなことでも。」
テニス部のメンバーは人の感情の動きに敏感で、読みも鋭い。それは幸村も例外ではなく、自分が一番多く動揺を見せている人物ということもあり、彼には自分の一喜一憂が全て流れているのかもしれないと思えた。
「…大丈夫。幸村くんも心配性だね」
ひよりは笑ってコートを後にした。

数分後、休憩まで顔を見せないだろうと思っていたひよりがコートに戻ってきた。その手には見慣れないラケットが握られていた。隣にはOBの一人を連れている。
それに気付きメンバーはひよりと共にやって来た水原に挨拶をした。赤也だけ挨拶が一拍子遅れたのは、初めて見る顔だったからだろう。
「おー、お前らデカくなったな!」
自分のことのように嬉しそうに言う水原からは彼の面倒見の良さが伺える。
「もう昼食を済ませたんですか?」
柳生が問うと水原はラケットごと腕を回して体を解す仕草を見せた。
「そ。だから軽く打っておこうと思って」
「でしたら俺がお相手しましょうか」
そう言ったのは柳。しかし水原はそれに頷かず、隣にいたひよりの肩に触れた。
「いや、いきなりお前とやってもな。食後の軽い運動ってことでコイツに頼もうと思って。な、秋川」
えっ、と予想外の言葉に皆が驚きを見せた。
「マジ?」
「先輩がこう言ってるし、ラケットは先輩が貸してくれるって言うから」
一番意外そうだった丸井がひよりに問うとひよりは頷いて笑った。水原の頼みを快く思っているのかそうでないのか判断しかねる笑顔だった。
「お前らもこれから昼飯だろ?少し打ったら秋川も食堂に戻らせるから」
水原に半ば押されるようにひよりはコートに促された。
「行くぞー!」とネットの向こうで水原が言った後、サーブが放たれた。
本人が言ったように軽い運動だからかそのサーブの威力は強くはなかった。
しばらく緩いラリーが続いているのを見ていたが、昼食を取る為にメンバーはコートを去ることにした。
「先輩もちゃんと来てくださいねー!」
フェンスの向こうからひよりの背に届けられたのは赤也の声だった。
メンバーの姿が見えなくなった所で水原は喋りだした。ラリーはまだ続いている。
「なんだ、アイツらやけにお前のこと気にしてるみたいだな」
「そうですか?いつもと変わりませんよ」
水原が知っているのはもう一人の自分なのだから、そう言って誤魔化すしかなかった。
「じゃ、誰もいなくなったし、少しパワー上げるぞ」
「はいっ」
言いながら打ち返された打球は先程とは全然違い、速く重かった。それでもひよりが返せるように調節しているのが水原の表情を見れば分かった。
こんな所も同じだとひよりは頭の隅で思う。
自分や家族はあちらの世界とは違う人格だった。けれど水原はそうは思えない程似ている。テニスのスタイルまで同じだ。別人とは思えない。こんなことがあるのだろうか。
疑心は尽きないが、ひよりは水原のテニスを懐かしく思っていた。奇妙な偶然とはいえ、彼とまたテニスを出来ることが嬉しかった。
ボールと共に交わしていた会話も次第になくなり、ひよりはかなり本気を出してコートを駆けていた。それだけ水原も本気を出しているということだ。
そしてオンラインの打球をギリギリの所で捉えたひよりのボールは、緩やかなロブとなって水原のコートに飛んだ。
スマッシュが来る。そう思ってひよりは瞬時に体勢を整えた。
「…サンキュ、もういいぜ」
しかしロブはラケットではなく水原の手に収まった。ひよりのコートに入ってくる水原は自身の袖で額の汗を拭った。
そしておもむろにひよりに問いかける。
「秋川、何かあった?」
「え?」
「上手くなってるのも含めて、なんかテニスが変わったなと思って。」
前はもっと体当たりなカンジだったっていうか…。と、水原は小さく首を傾げる。
やはり、彼が知っているのはもう一人の自分だ。私のことは知らない。
「…そうですか?」
「まぁ2年も経てば誰でも変わるか。腹減っただろ。食って来いよ」
水原は一人で結論付けてひよりの手からラケットを離した。
「ありがとうございました」
ひよりは一礼してコートから離れた。
その遠くなる後姿を、水原はしばらくの間見つめていた。


「ひより先輩とあの人って仲いいんスか?」
皿の上に載っているものももう直ぐ空になりそうな時、赤也が疑問を口にした。
先程の二人のやり取りを見ていた赤也は不思議に思い、それを黙っていることも出来ず早速口にした。赤也から見ると水原は3つ上なので水原が在校していた当時のことは知らない。
ちなみに名前ではなくあの人と呼んだのは、赤也に覚える気がないからである。
「…その質問、おかしいだろぃ」
箸を止めて丸井が口を開いた。
「え?」
「アイツがここに来たのは7月の終わりだ。水原先輩のことは知らないはずだろ」
普段より少し神妙な口調で丸井は赤也に説明した。
あ、そうか。と赤也は一先ず納得したが、直ぐに眉間に皴を作る。それが当てはまらないように思えたのだ。
「まぁ、こっちの秋川は他の先輩よりは仲が良かったかもしれないな。水原先輩は後輩と絡むの好きだし」
「もしかしたら、ひよりさんは水原さんのことを覚えていたのかもしれませんよ」
ジャッカルと柳生が付け足した。それでも赤也はまだ難しい顔をしている。
「おいおい、それこそおかしいんじゃねーの?ひよりはこっちの人間関係は知らないんだろ?」
議論が別の議論を呼ぶようだ。赤也と同じく丸井まで眉間に皺を寄せた。食事中の彼にしては珍しく箸を置いていた。
「それも断言は出来ない。例外もあるのかもしれないな」
議論に柳も加わった。その推測に丸井はあからさまに機嫌を損ねた。
「なんだよそれ。なんで俺達のことより先輩を覚えてるワケ?」
「あーもー!違いますよ!」
赤也の力んだ手の平はガチャンとテーブルの食器を揺らした。
「俺が言いたいのは、ひより先輩とあの人が自然だったのが不自然だと思ったってことっスよ!……あれっ?自然が不自然ってなんだ?」
勢いで言った言葉に自分で首を傾げる。確かに妙な日本語遣いではあるが、赤也が言ったことには皆が納得出来た。
少々気まずい空気が流れた。そして、やれやれという風に仁王は溜め息を吐いた。
「まぁ、アレだ。もしかしたら俺達が知らんだけであの二人はどこかで会っとる可能性もあるじゃろ」
「…答えが出ない水掛け論は止せ。先輩と秋川が聞いたら気分を悪くするぞ」
真田の言う通りだったのでそれ以上勝手な推測を口にする者はいなかった。
「気になるなら本人に聞けばいい話だ」
言いながら、もしかしたら一番気になっているのは自分かもしれないと幸村は思う。
「…但し、練習が終わってからだ」
それを抑制するつもりで、自分に言い聞かせるように幸村は付け足した。

「あ、良かった!間に合った」
声と共に扉から顔を覗かせたのはひよりだった。首にタオルをかけて、運動後だからか声が爽快だった。
「先輩方はみんなコートに行ったんだね」
食堂に現立海メンバーしかいないことを確認してひよりはキッチンに足を進めた。
キッチンにいる宿舎の人に挨拶をした後、自らご飯を装ってトレーに載った昼食を皆の元へ運んできた。
そして一番端にいた丸井の隣に着席する。
「良かったって、どういう意味っスか?」
「…その、小さいことなんだけど、ご飯は一人で食べるより誰かと食べた方が楽しいから」
「それでそんなに急いで来たんですね。心配なさらなくてもお待ちしていましたよ」
こちらに来てまだ日が浅い頃、一緒に食事を取ろうと声をかけてくれた柳生。それは皆の意見を代表したものだった。
初めはやはりぎこちなかったが、慣れとは不思議なもので今ではそれが当然となっていた。
「水原先輩はどうだった?」
ジャッカルがひよりに問いかけた。その問いにどう答えようかとひよりは少し視線を下げる。
水原は自分の実力を誰かの口を通して伝えられるのが好きではない。加えて、現メンバーがコートを去るまでは一切本気を見せなかった。
確かめるのなら自分自身で。水原はそういう人だとひよりは考えた。
「それは練試までのお楽しみ、かな」
大袈裟かもしれないが、まるで水原を庇うようなその言葉に隣の丸井は残りの昼食を口に運びながら違和感を覚えた。







ひよりの食後、少し時間を置いて皆はコートに向かった。
予定時間通りに練習試合は開始された。



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