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蝶々結び
真実の先に


目を開けるとそこは白い天井だった。見慣れた病院のものに似ていたので、ドキリとした。
もしかして戻ってきたのだろうかと、ひよりは一瞬迷う。
しかし答えは否。力を入れなくても自然と動く両足が根拠だ。
視界を横にずらすと、壁にある時計はとっくに夕方を過ぎていた。合宿初日の約半分を眠っていたことになる。
誰も起こそうとしなかったのか、それとも起きなかったのか、ひよりには分からなかったが過ぎた時間は取り戻すことは出来ない。
貴重な合宿の練習に出れなかったことをひよりは申し訳なく思う。
ベッドを出ると、目に付いたのはベランダに繋がる大きな窓。
2枚ある内の薄い方のカーテンしか閉じられておらず、その向こうはすっかり夜の色だった。
少し風に当たろうと、何かに釣られるようにひよりはカーテンを潜ってベランダに出た。
ベランダからは4面あるコートが見下ろせた。今は誰もいないが、昼間はチームメイト達がそこに立っていたはずだ。
練習する姿をそのコートに重ねてみたけれど、夜の暗さもあってかその姿は直ぐに消えていった。
「……みんなに謝らないと」
寝起きの声は少し擦れていた。
すぅと深く呼吸すると緑の匂いがした。気持ちがいい。
何気なく空を見上げる。自分が住んでいるあの街よりも多くの星が光っていた。

あの日の夢を見たのは久しぶりだ。
もう一人の自分はどうしているだろうか。きっと、辛い思いをしているに違いない。
考えると胸が痛い。だって私はもう一人の自由な体を借りておきながら、戻りたくないなんて思っているのだから。
入れ替わりの証拠なんてないし、あくまで仮定の話。
でも、こちらに来た時からそうなんだろうと思わせる不思議な感覚があった。多分これは私にしか分からなくて、もう一人の私にも繋がってる感覚だと思う。
…元に戻る方法が分かったのなら、直ぐに戻るべきだ。それがみんなの為でもあるし、何よりもう一人の自分の為だ。
星を仰ぎながら自分に言い聞かせた。

「ひより?」
部屋へのノックと、背後からかけられたその声を聞いて決心が揺れる。
振り向くとカーテン越しに見える幸村の姿。一日の終わりに向かうのが分かる、私服だった。
「気が付いたんだね。立って大丈夫?」
呼んでくれれば良かったのに、と付け足す幸村は心配の顔色を隠さない。
ベッドの横にあるサイドボードに何かを置いて幸村はカーテンを掬い上げてひよりと目を合わせた。
揺れる。天秤は揺れる。少しずつ、でも確実に片方へ傾いていく。
「…まだ顔色は良くないね」
もう一人の自分とみんな、それと私の気持ち。どちらに傾いていくかなんて、そんなの。
「みんなも練習の合間を縫ったりして顔を見に来てたんだよ。気が付いたこと、伝えてこようか」
幸村がカーテンから手を離した。はらりと落ちる白いカーテンはひよりと幸村を遮る。
世界がそこで切れたように感じて、ひよりは慌てて手を伸ばした。
弱々しく掴んだのは幸村の服の袖。自然と幸村の動きは止まって、視線はひよりの手元に移る。
カーテンでお互いの表情はハッキリと見えない。きゅ、とひよりは指先の力を強めた。
「…ひより?」
そんなに優しい声で私を呼ばないで。
ほら、天秤は簡単に自分の気持ちを優先させるから。
「……っ、幸村、くん…」
視界が滲んだ。溢れてくる涙を止めることも出来ず、ひよりは幸村の袖を掴んだままもう片方の腕で目元を拭う。


ひよりが何かを伝えようとしていることが分かった。
それが言葉にならず涙となって現れていることも分かった。
でもその涙は、初めて会った時にひよりが流した涙とは少し違うように感じられた。
今ではすっかり笑うことが多くなっていたけれど、その内側では耐えることが沢山あったのだろう。
声を漏らして泣くひよりが酷く小さく見えて、繋ぎ止めようとする力ない指先が必死さを訴えていて。
どうしたら泣き止んでくれるかとか、どうして俺を止めるのかとか、そんなことは頭の片隅に追いやられた。
ただ、そうしたかった。
ひよりの腕を辿ってカーテンをすり抜ける。ひよりの少し驚いた顔が一瞬見えて、それは流れるように胸元に隠れた。
抱き締めていた。
じわりと、ひよりの涙が胸元に染みる。人の涙はこんなに温かいものだっただろうかと幸村は思う。
「言って。」
「え…?」
「怖いならその怖さを、不安ならその不安を。願いも、疑問も、不満も、全部」
「全部…」
「そう、全部。」
その言葉がきっかけになったのか、ひよりから流れる涙は緩やかになった。
ひよりは幸村の腕の中でゆったりした呼吸を何度か繰り返す。
そして顔を上げて、幸村から離れて視線を合わせた。

「私…本当の私は、」
見つめられていることに戸惑いを隠せなかったが、ひよりは意を決して続きを声にした。
「本当の私は、歩けないの」
「え…?」
歩けないという言葉に幸村は鼓動が強く鳴るのを感じた。
それは予想もしていないことだった。同時に、病床に臥せっている自分の記憶と重なった。
「でも、前にテニスをしていたって」
「テニスが大好きだった。でもバスの事故に遭って、怪我をして」
バスの事故。ひよりが抵抗を見せていた理由が分かった。倒れてしまったのも何かの拍子にフラッシュバックしたのかもしれない。幸村はひよりから届く少ない言葉を手掛かりに思考を巡らせた。
「…だから、もう一人の私が辛い思いをしているのが分かる」
誰かを想うひよりは直ぐに涙を滲ませる。また大きな雫がひよりの頬を伝った。
「でも、私はここの生活が楽しくて…みんなともっと一緒にいたくて…」
呟くように続けるひよりに、幸村は何も応えられなかった。
姿が同じせいだろうか、周りに馴染むのも早くいつの間にか今のひよりが当たり前になっていて、本当は違うことを自分でも見ないフリをしていたことに幸村は気付かされる。
「そんなこと、出来ないのにね…」
ひよりは自嘲するように無理に笑顔を作る。酷く悲しい笑顔だった。
聞いているのも見ているのも辛くなる。自分は何も知らなかったのだと突き付けられる。
言おう。自分が今ここに立っていられる経緯を。
ひよりが時折見せる悲しい表情の理由は、今ひよりの口から聞くまでは元の世界を思っているのだろうと判断していた。それは間違いではないが、もっと深い想いがそこにはあった。
人が悲しく笑うことがあるのは知っていた。よく見たし、恐らく自分もそうだった。
だから自分がされたように、自分がしたように、ひよりを支えるべきだと思っていた。
でもそれは少し違っていたのかもしれない。ひよりの表情の裏にある暗い部分を感じ取り、無意識の内に自分のそれと重ねていた。
幸村の罪悪感が疼いた。自分が恥ずかしいとさえ思った。
ひよりの為とは言いながら、本当は過去の自分をそこに置いて、自分に優しくしていただけだった。
知らないならそのままでいい。気を遣わせたくない。そう思っていたけれど、それも違っていた。
自分が病気になっていたことを単純に知られたくなかっただけだ。それはつまらない、自分を守る為のプライド。
そんなプライド、持つ必要なんてない。自分を重ねるのは終わりにしよう。
すぐ側で涙を零す彼女が真実を言うなら、自分もそれに応えるべきだ。

「…俺も、歩けない時があった」
思い出すとあの時感じていた不安や恐怖が蘇ってくる。でもそれをひよりに見せてはいけないと思った。
ひよりは驚いているのか意味が飲み込めないのか言葉が出ない。今の幸村しか知らないひよりには信じられなかった。
「病気になって、少し前まで入院していたんだ。当時はもうテニスは出来ないだろうって言われたよ」
ひよりの脳裏にロッカーの写真が過ぎった。
ずっと気になっていたあの写真。時々感じる幸村とみんなの違和感。訊いてはいけないと感じた疑問の答え。
それらが繋がっていく。
「今は?今はもう大丈夫なの…?」
「定期検査はあるけど、部活を抜けて通っていたリハビリセンターにも行く必要はなくなったよ」
言われてみると、自分がこちらに来た当初より幸村が部活を抜けることはなくなったことに気付く。
リハビリ。自分もリハビリ次第で日常生活に復帰できると言われたことをひよりは思い出した。
「…だから、なんとなくだけど分かる。ひよりが抱えてる不安や悲しみ。俺も…」
「?」
遮った言葉の続きはとても言いにくそうに放たれた。
「俺も、凄く辛かったから」
歩けない状態から今のようになるまでは見たことのないくらいの努力が積み上げられたことは、ひよりにも容易に想像できた。
弱音など絶対に口にしない幸村がそう言うのだから間違いない。
それに比べて自分はどうだろうか。リハビリに向かう程の気力が湧かず、思い通りにならない体に嘆くばかりの日々だった。
夏休みに入るか入らないかの時期に一応退院はしたけれど、それでも車椅子や歩行器に頼るしかなかった。
どうして私が。と、宛てもない憎しみを募らせたこともあった。
まさか幸村も同じような経験をしていたなんてひよりはまだ信じられなかったが、幸村の表情や言葉は真実そのもので絶対に嘘とは思えない。
「…時間がないって言ってたのはこのこと?」
病気があったから、きっとそれまで以上にテニスや自分に対して厳しくなったんだろう。幸村の背中を思い出しながらひよりは問う。
問うけれど、答えは分かっていた。
答える代わりに幸村は微笑んだ。とても綺麗だとひよりは思った。自分には出来ない微笑み方だ。
「全国三連覇を成し遂げる為に、俺は自分を辞めなかった。みんなも離れずにいてくれた」
皆が全国優勝にかける想いの裏にある強い意志と絆の理由はきっとこれだ。
すっかり自分も一員なのだと思っていたが、このことを知らずにそう思っていたなんて、皆から思えばどんなに扱い辛かっただろうか。
「ひよりは?」
「え…?」
「自分を辞めたいと思う…?」
ひよりは、頷くことも首を振ることも出来ず瞬きを数回繰り返した。
自分なんてどうなってもいい。元の世界ではそう思っていたけれど、今はどうだろう。
こんな私でもみんなは受け入れてくれた。みんなと過ごす時間があって、久しぶりに楽しいと思えた。
生きている。世界は違うけれどそう思えた。
それでも、戻ってしまえば現実が待っている。また私は不安と悲しみに迫られることになるのかもしれない。
自分を辞めたいとは思わない。けれどそれは口にすることが出来ない程の微かな想いだった。この気持ちがもっと大きくなれば、きっと言える。
今はその代わりに、涙を拭って。
「……幸村くん、ありがとう。」
お礼を言うのは自分の方だと幸村は思った。
例えば、俺が支えになるから。と言えたら、どんなに楽だろう。ひよりの支えになりたいのは本心だが、ひよりはいつかいなくなってしまう。
保証が出来ないことは幸村には言えなかった。叶うかどうか定かでない約束は出来なかった。
それは恐らくひよりも同じだが、星空を見上げるひよりの頬にもう涙は流れていなかった。
幸村はその横顔をみて少しだけ安心する。


「…さっきはごめん」
幸村が謝ることがあっただろうかとひよりは首を傾げる。
「突然、抱き締めたりして」
「っ!」
先程は混乱していてそれどころではなかったが、言葉にされてとても恥ずかしくなりひよりは頬を染めた。
そうだ。あんなに近くで幸村くんに触れたんだ。背中に感じる腕の強さ、お互いの体温、彼の匂い、声。
先程のことを思い出すと、まるで今動き出したかのように心臓が早鐘を打った。
「う、ううん。気に、しなくていいよ…」
急に意識し始めて顔を赤くしたひよりを見て可愛いと思うのは、お互いに本当のことを言って距離が近くなったからだろうか。
幸村は自分に問うように涙に濡れた胸元をそっと撫でた。
「…お腹空いてない?」
「え、あ…少し…」
「ずっと寝ていたからね」
飲み物なら持ってきたんだけど、と幸村はサイドボードを指した。
「でも食べられるならそうした方がいいし、食堂に行こうか」
幸村の提案にひよりは頷いて二人はベランダから部屋に戻った。
ひよりは窓を閉めて、カーテンも2つとも閉めた。目の前にあるものは世界を遮るものではなく、ただのカーテンだった。



「秋川!」
食堂に下りるとジャッカルがひよりの名を呼んだ。それに従うようにその場にいた者も同じようにほっとした表情を浮かべた。
食堂では皆勢揃いでひよりと幸村を迎えた。幸村と同様に各々が自由な服装をしていた。
「えっと…みんな揃ってどうしたの?」
「どうしたも何も、ひより先輩の為っスよ!」
「お前が腹空かせてるだろうと思って、おにぎり作ってたんだぜぃ」
「おにぎり…」
丸井が指したテーブルには様々な形のおにぎりが皿に載せられていた。
それはひより一人が食べるには明らかに無理がある数。
「というのは、自分達の夜食を作る口実に過ぎない」
柳が口を開いた。
「あっ、なんでバラすんスかー!」
「俺が言わなくとも、幸村がそう判断する確率は100%だ」
「…そうだね。ま、いいけど」
随分長い間眠っていたから、と言っても半日くらいだが、皆の反応はどうかと少し不安だった。しかし変わらない彼らのやりとりにひよりは笑った。
「もうお体は問題ないですか?」
おにぎりがあるテーブルの椅子に座ると向かいに座っていた柳生が声をかけた。
「うん、練習に出れなくてごめんね」
「なんじゃ、ヤケにスッキリした顔しとるの」
隣のテーブルに寄りかかっていた仁王がひよりの顔を見て口にした。
仁王は泣いた後の顔だと判断してからかうようにひよりを伺った。
やっぱりこの人は鋭いなとひよりは思う。ひよりは苦笑して仁王に応えた。
「そうそう、ひより」
キッチンにいる赤也達の所から移動しながら幸村はひよりを呼んだ。
そして手招きして秘密の話をするようにひよりの耳に手を当てた。
「バスで倒れた時、怪我しないように支えてくれたのは真田だよ」
耳打ちされて、ひよりは幸村を見る。幸村は優しく笑っていた。
そして真田を視界に入れる。帽子を被っていない姿を新鮮に思いつつ、視線を合わせた。
「真田くん、ありがとう」
「…何のことだ。礼を言われるようなことはしていない」
とぼけたフリをしているのは彼の照れ隠しだろうか。
「それでも、ありがとう。」
二度目の言葉に真田は仕方ないという風に小さく溜め息を吐いた。
「…元気があるなら明日からは練習に出ろ」
厳しい言葉も今はとても柔らかくて。ひよりはくすぐったくなった。







「みんなもありがとう。…じゃあ、せっかくだからおにぎり頂くね」
目の前に積まれているおにぎりのひとつを手に取りひよりは口に運んだ。
「あっ待てそれは!」
もぐもぐと口を動かすと、キッチンからジャッカルの声。
「?」
何に対しての「待て」なのか分からず、口を動かしたままひよりは疑問の視線を向ける。
キッチンにいるジャッカルや丸井がヤバイという表情をしていた。
そして次の瞬間。
「んっ!」
ひよりの口に物凄い勢いで辛さが広がった。
鼻の奥がツンとして、辛さに耐えられず涙が出てきた。口に入れたものを出すことも出来なかったのでひよりはとりあえず口内にあるものを飲み込んだ。
「けほっ!からっ、辛い…何これ…」
柳が素早くひよりの手元に水を置いた。
「悪ぃひより!だ、大丈夫か…?」
「…あの、すんません。普通のおにぎりだけじゃ面白くないと思って…」
辛いおにぎりを企み作ったであろう赤也と丸井は潔く自供した。
水を一気に飲み干しても、まだひよりは涙を浮かべていた。
「……丸井。赤也。」
「ま、待て幸村!まさかひよりがそれを食べると思わなくて!」
「部長!顔!顔!目が笑ってないっスよ!」
柳によってひよりの耳は塞がれた。同時にその両手は首を固定していたので背後のキッチンを振り向くことも出来ない。
怒った幸村を少し怖いと思いつつ、それでもひよりは今自分がここにいることを実感して表情を緩めた。



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