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蝶々結び
雨の日の記憶


「わ、大雨洪水警報だって。ついでに暴風注意報も」
バタバタと大粒の雨が窓にぶつかってくる。昨夜から降り出した雨は時間が過ぎる程強くなり、たった今、テレビの速報で警報が発表された。ニュースで中継されている映像は大雨の中ずぶ濡れでリポートする人の姿。
「本当に行くの?今日くらい休んだら?」
何もこんな日まで外に出なくていいのに。と母は少々面倒そうに言った。
「スクールは屋内コートもあるから大丈夫だよ」
母の問いに簡潔に答えて、ひよりはラケットバッグを背負った。

ひよりは学校の部活には入らず小学生の頃からテニススクールに通っている。
季節は梅雨。天気は台風のような暴風雨。
それでもひよりは母のようにスクールに行くことを断念出来ない。
勿論、理由があった。通っているスクールが開催する全国規模の大会を来週に控えていた。沢山の人が通う中でひよりは中学部門で推薦され、エントリーしている。
小学生の頃からずっと見てくれているコーチも、中学最後の大会になるかもしれない今回は特に注目してくれている。
だから、一日たりとも練習を怠ることはしたくなかった。
「でも電車も止まってるみたいよ」
「だったらバスで行くよ」
「頑固なんだから…気をつけてね」
諦めるように母は言った。

行ってきますと告げて、ひよりは激しい雨の中に足を踏み入れた。
予想通り傘はあまり役に立たない。せめて傘が壊れないようにと中心を支えた。
最寄のバス停は幸運にも屋根と壁があり待合室のようになっているので、ひよりは走ってそこを目指した。
バス停には初老のおばあさんが一人、雨宿りをしているような雰囲気でベンチに座ってバスを待っていた。
傘を畳んで一息ついてから、バッグからタオルを取り出す。
「おでかけ?」
濡れた服などを拭いていると、おばあさんがこちらを見た。
「あ、いえ、お出かけって程でもないですけど、テニススクールに行くんです」
突然話しかけられて少し驚きはしたが、人の良さそうなおばあさんの表情に、ひよりは素直に答えた。
「すごい雨なのに大変ね」
「いいえ、好きでやってることなので」
笑って見せると、おばあさんも同じように表情を緩めた。
「おばあさんもお出かけですか?」
「駅まで娘を迎えに行くの」
その一言は、とても嬉しそうで。とても楽しそうで。娘に会うのは久しぶりなのだろうとひよりは想像した。
「こんな天気なのに…」
と、先程おばあさんに言われたことと同じことを言ってしまいそうになり言葉を切った。
それが分かったのか、おばあさんは更に目尻を下げて笑った。
「大変なのはお互い様ね」
お互いに相手を大変そうと思うが、本人は大変だと思っていない。それがなんだかおかしくて、そうですね、とひよりも釣られて小さく吹き出した。
「あ、お待ちかねのバスが来たわ」

電車が使えないせいか、バスは思ったより混んでいた。
乗り込むと車内は雨と人の体温で湿度が高く、混雑しているせいで運転手含め皆が不機嫌そうに見えた。
なんか嫌だな、と思う。
「おばあさん、ここ、空いてますよ」
おばあさんよりも先にバスの奥へ進んだひよりは空いている優先席におばあさんを促した。一度遠慮されたが、ひよりがもう一度どうぞと言うと申し訳なさそうに座った。
ひよりはおばあさんの前に立ち吊り革を掴む。バスが発進して、体が少し傾いた。
「ありがとうね」
おばあさんがひよりに向けて感謝を述べた。心が温かくなった。
「お嬢ちゃん、よくテニスやるの?」
背負ったままでは邪魔になるだろうとラケットバッグを自分の前に移動させると、おばあさんがそれを見て問い掛けた。加えて、自分も若い頃はやっていたと教えてくれた。
「はい。大会が近いので今は毎日テニスしてます」
「そうなの。すごいわね」
おばあさんの感心を表した声はひよりからすると少し照れくさく感じられた。
「頑張ってね。」

柔らかく微笑むおばあさんにありがとうございますを言おうと息を吸った瞬間、前方で甲高いブレーキ音が聞こえた。
何があったのかとそれを確かめることも出来ない内に、体が何かに思いっきり引っ張られた。いや、押されたのだろうか。どちらか分からないがその引力に逆らえず掴んでいた吊り革から手が離れた。
一秒毎に写真を撮ったようにコマ送りで景色が動く。窓から見た景色は通常では有り得ない角度だった。目の前に座るおばあさんの表情がさっきとは正反対に固まっており、何かに怯えているようだった。次にバスの天井が目に入って、そこでようやくバス自体が転倒しているのだと気付く。
自分の体を支えることが出来なくなったのはひよりだけではなく、主に立っていた人達がバタバタとどこかにぶつかって倒れる音が聞こえた。それがどんどん連鎖してドミノ式にひよりに圧し掛かってきた。
避けようにも逃げようにも、一つの個室である車内ではその術はなかった。



「…っ、けほっ!」
土っぽい空気を吸い込むと喉がそれに抵抗して咳を出した。
雨の音が聞こえる。どこから伝ってきたのか、その雫が瞼に落ちて気が付いた。
自分と同じように咳き込む声や、呻き声のようなものが聞こえる。
背中や足が重くて感覚がない。何か体の上に乗っているようだったが、それが何かは確認出来ない。
…何があったのだろうか。横を向いていた首を少しずつ反対側に向けてみると、直ぐそこに人の手があった。その手は男性のものらしかったが、土に汚れていて、肘から先はラケットバッグが邪魔して見えなかった。
手は動かなかった。ヒヤリと、額から嫌な汗が伝う。怖くなって首の位置を元に戻した。
なんとか右手を動かせそうだったので目一杯腕を伸ばしてみる。
伸ばした指先がぴしゃりと何かに触れた。雨、だろうか。
腕を戻すと、手の平は真っ赤に染まっていた。小さい頃絵の具をつけて手形を押して遊んだ時のように、べったりと濡れていた。
血だ。それも、自分ではない誰かの。
「っ!」
息を飲んだ。血に触れた所をよく見ると、目の前に座っていたおばあさんが苦しさに顔を歪めていた。その額からじわりじわりと伝うのは汗でも雨でもない。
「おばあさんっ、おばあさん!」
呼びかけても反応はない。
ぐらりと背中と足の上に乗っているものが重心をずらした。そのせいか、感じていなかった痛みが襲い掛かってきた。
「…、うっ…」
何がなんだか分からなくなって、ただ涙が溢れた。
「助けて…」
ザアザアと降る雨の音は一向に止む気配を見せない。
救急車らしいサイレンが遠くから近付いてくるのが分かった。
「……早く、ここから出して…っ」
痛みに耐えられなくなった体は視界を黒に戻し、意識を手放した。



目が覚めると、白い天井が見えた。そしてそこに入り込んでくるのは母の顔。
「ひより!」
「……お母さん」
「ひより、大丈夫?気分悪くない?」
母がこんなに焦った表情を見せるのはとても珍しい。そんなことをぼんやりする頭でひよりは考える。
どうやら、ここは病院のようだ。やっぱりどこか怪我していたのか。
「…何があったの?」
ひよりの問い掛けに母は一度口を噤んだが、言いにくそうに答えた。
「事故。対向車がスリップして、それを避けようとしたけどバスも横転して、他の車に衝突」
「…そう、なんだ…」
尋ねたのは自分なのに、説明された言葉は自分が見た光景とは違っていてなんだか実感を持てなかった。
そこでハッとひよりは思い出す。
「おばあさん…おばあさんもこの病院にいるの?」
「おばあさん?」
「60歳くらいの、150cmくらいで、白髪交じりで髪が短い…」
覚えている特徴を話すと不思議そうに見ていた母がそれが誰か分かったのか、表情を曇らせた。
「…スリップした対向車の運転手と、バスに乗っていた62歳のおばあちゃんが…亡くなったって聞いた」
「嘘…」
当然嘘ではない。こんなことで嘘を吐けるはずがない。
あんなに優しい人が。娘さんのことを嬉しそうに話してくれた人が。頑張ってと言ってくれた人が。
目の前に座っていただけなのに。
座っていた?そうだ、私があの席に座らせたんだ。私が、おばあさんの命を奪ったんだ。

「私、おばあさんの家族に…っ!」
謝って済むことじゃない。けれど、娘さんに会えるのをとても楽しみにしていたんだと、伝えなくてはいけない。
そう思って上体を起こす。勢いに任せてベッドから立ち上がろうとしたのに、下半身が動かなかった。
「…え?」
ぐっ、と精一杯力を入れているはずなのに、全然動かない。
なんで、と布団に隠れている足を見た。両足の膝から下が白かった。片方はギプス、片方は包帯だった。
ぺたりと触れて包帯の上から足を撫でる。微かにくすぐったさを感じた。
「……お母さん、」
声が震えた。悲しさ、怒り、虚しさ、情けなさ、全部が胸の内から溢れてきた。
「…足に、ガラスと崩れたシートが乗って…切断を免れただけ幸運だ、って…でもリハビリ次第では日常生活はちゃんとできるようになるからって…」
ひよりよりも先に母は泣いていた。ごめん、と何度も口にしながら。

視界がチカチカとフラッシュした。
その眩しさの中で絶望という言葉が聞こえた気がした。

もう、私は走れない。
もう、テニスが出来ないんだ。














「わあーっ!」
「うわ、何転んでんだよ」
「いったー!痛いいーたーいー!」
「一回言えば分かるって」
「…そうじゃないでしょ?まず私の安否を確認するんじゃないの?」
「それだけ元気があれば大丈夫だろぃ」
「あー…両膝擦りむいた。誰よこんなとこにホウキ置いたのは!」
「これくらいなら洗ってバンソーコ貼っとけば直ぐ治るだろ」
「だからアンタはなんでもっと心配してくれないの?」
「ていうか早く雨止んでくんねーかなー」
「だーかーらー!」







日の


それは、ひよりとひよりが入れ替わる少し前の記憶。





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