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蝶々結び
一息ほどの小休止


「やはりここにいたか」
ひよりのおはようよりも先に、柳はそう言った。
何でもお見通しの柳にひよりは苦笑する。
「教室にはちょっと居辛いから、HRの時間は部室の掃除でもしようかと」
本日は夏休みの全校登校日。昨日幸村が言ったように休むこともできたが、それでは両親に疑問を持たれると思い、ひよりは登校した。
しかし教室にいれば知らない人間関係と絡み合うことになる。それはやはり避けたかったのでこうして部室にいた。学校的には欠席になるので、実質はサボリということになる。
「正しい選択かもしれないな」
「柳くんはどうしてここに?」
誰も来ないと思っていた部室に姿を現した理由を尋ねる。すると柳は小さく笑った。
「掃除もいいが、ここに数時間篭っているのは息が詰まるだろう。人目につかない所なら他にもある」
まだ続きがありそうな言い方に、ひよりは首を傾げる。
そんなひよりを見て、柳は人差し指を上に向けた。
「屋上に行ってみるといい」
それはただの助言ではなく、屋上に行くと何かが待っている、そんな意味も含めているようだった。もちろんひよりには屋上に何があるのか分からなかったが、柳が言うのならと頷く。
「それだけ言うのに来てくれたんだ?」
「あぁ。」
柳はするりと答えたが、本当はひよりの様子を見る為に足を運んだのだった。
こちらに来た時、ひよりは知らない人間関係に怯えていた。しかし、現在は一歩校内に入れば溢れている人間関係にも避けようとはしても恐れる様子はなかった。
ひよりの変化を柳は感じ、その適応能力に感心した。

「ありがとう。」
ひよりの礼を受け取り、何をするのか、柳はクーラーボックスから保冷剤を取り出してそれを自身のハンカチに包んだ。
ハンカチごとひよりに手渡して、そっと視線を合わせる。
「…誰かに会う前に、少し冷やしておいた方がいい」
ひよりの少し重い瞼に柳の視線が移ったのを感じて、ひよりは恥ずかしくなった。
昨日泣いたせいで、ひよりの瞼は少し赤みが出ていた。
柳は目が腫れている理由を聞くことはしなかったが、もしかしたらそれもお見通しなのかもしれないとひよりは再び苦笑を浮かべる。
「また部活でな」
ひよりは再度お礼を告げ、柳を見送った。
数分後、柳が丁度教室に到着しただろうという時間にチャイムが鳴った。流石と言うべきか、柳らしい計算された行動にひよりは笑った。
そして初めて聞くこの学校のチャイムを聞きながら、ひよりは柳のハンカチを目元に軽く押し付ける。
チャイムはどこも似たようなものだと思っていたが、立海のものは何故かとても心地良く聞こえた。

教室棟はきっと夏を楽しんでいる生徒達で騒がしいんだろう。
でも部室までそれは届くはずもなく、中はとても静かだった。
目を閉じているので見えるのは黒だけ。
もしかしたら、次に目を開けたら元の世界に戻っているんじゃないか。静かな空間がそう思わせた。
「…そんな訳、ないか」
ハンカチを離してゆっくり視界に色付けていく。景色は変わらなかった。



柳の気遣いのお陰で瞼の赤みが引き、ひよりは屋上に向かった。
屋上に上るまでに誰かに姿を見られるのではないかと、かくれんぼをしているような気分になる。
別に隠れる必要なんてないのに。と、ひよりは独り笑った。
屋上の少し重いドアを押せば、空と、少しくすんだ白い床が広がった。このくすみに学校の歴史が感じられる。夏のど真ん中にある陽射しは強い。でも吹き抜ける風がいつも地面で感じているものより涼しかった。
フェンスに寄って街を見下ろす。やっぱりそこは知らない街ではあったけれど、以前よりも愛着がある。不思議だ。
両手を広げると飛べそうな感じがした。
「蝶にでもなるつもりか?」
うんと両手を伸ばしてみると、声がした。思わず、えっ?とその声の元を探す。
斜め後ろの、丁度貯水タンクで影が出来ているところに仁王が座っていた。
蝶ではなくて鳥になったつもりだったと言うより先に、声に出ていたのはこの疑問。
「…なんでここに?」
「HRサボタージュ。」
悪びれる様子もなく仁王は素直に答えた。
「お前さんもじゃろ?」
あ、そうか。柳は仁王の行動が分かってて屋上を教えてくれたんだ。
独りでも平気なのにな。本当に優しい人達だ。
「サボリは初めてなんだよね」
やっぱり、根が真面目なひよりがどこか悪いと思ってしまうのは仕方がない。でも同時に、悪戯を楽しむ子供のような気持ちもあった。
「それはそれは。」
ようこそ、という風に仁王は左手を翻す。それに応えてひよりは小さく会釈した。
ごっこ遊びみたいなやり取りが、その相手が仁王ということも含めてなんだかおかしかった。
仁王が前に出した左手をそのまま横に移動させてくすんだ白色を軽く叩く。ここに来てもいいという合図をひよりは素直に受け取り影の中に入った。

「屋上でサボリなんて漫画みたい」
ひよりは仁王の隣に座って、なんとなく空を眺めた。
今まで仁王と二人になることはなかったので、何を話していいのか、こんな感想しか出なかった。
「私が通ってる学校の屋上は開放されてないんだ。だから学校の屋上っていうのも初めて」
これだけじゃない。こちらに来てからは初めてのことばかりだ。
「授業もサボったりするの?」
「…時々」
「怒られたりしない?」
「センセーよりも真田の小言の方がうるさいの」
仁王はそう言ったけれど、ひよりは真田の説教もひらりとかわして飄々としている仁王しか想像出来なかった。
「真田くんと言えば、赤也くんと丸井くんは今日も宿題漬けで、終わるまで部活には出れないみたい」
大変だねと付け加えても、仁王は特に表情を変えることなく応える。
「自業自得じゃ」
「明日までに間に合うといいね」

会話がなくなった。何をする訳でもなく、ただ壁に凭れて屋上の風を感じていた。
突然、視界にシャボン玉が入ってきた。学校でシャボン玉を見るとは思ってもなかったのでひよりは驚いて隣を見る。
仁王が空に向けてシャボン玉を飛ばしていた。
なんというか、ひよりにとって仁王とシャボン玉は容易に結びつかず、頭の上にいくつもハテナマークが浮かんだ。
ひよりの数回の瞬きに仁王はちらりと視線を合わせる。
「これも初めて見るような目じゃな」
からかうように笑った。少し馬鹿にされたみたいで、シャボン玉くらい知ってます。そう言いそうになった。
「…仁王くんがシャボン玉飛ばすなんて変なカンジ」
でも、そんな姿も様になっているように思う。やっていることは可愛らしいのに、不思議な人だ。
「ここは遮蔽物が少ないからよく飛ぶんじゃ」
仁王が飛ばすシャボン玉に何か意味があるのかもしれないが、それはひよりには分からない。
ふわふわと漂ういくつものシャボン玉。球の中に虹を描いて、ぱちんと消えてなくなる。
まるで自分のようだとひよりは思う。
確かに飛んでいるのに、弾けてしまえばそれはなかったことのように消える。
私もいつかはこの世界から消えてしまう。もう一人の私が戻れば、私の存在はなかったことになるんじゃないのか。みんなの中からも瞬間的に消えてしまうんじゃないか。
何よりも、私自身がみんなのことを忘れてしまうんじゃないか。
否定しきれない沢山の可能性に、ひよりはシャボン玉を見つめたまま無意識に眉を顰めていた。

ぱちん、と額で音がした。それはシャボン玉が割れる比喩ではなく、仁王の指から出た音だった。
「いった…」
初めはなんだか分からなかったが、じわじわと額に痛みの波がきたのでデコピンされたのだと気付く。
むっ、と仁王に視線をぶつけてみれば、からかって笑っているだろうと思っていた表情は予想とは違い至極真面目だった。それで痛みへの抵抗もすっかり忘れてしまった。
「そんな顔しなさんな」
「どんな顔?」
「…悲しい顔」
指摘されてひよりは何も言えなくなる。
仁王はまたシャボン玉を膨らませる。少しずつ大きくなる球は自身をやや重たく感じながらふわりと浮いた。
「…そういえば、さっき蝶にでもなるつもりかって聞いたよね」
ひよりの問いかけに仁王は、ん?と視線を向けた。
「私は鳥になるつもりだったんだけど、なんで?」
「なんとなく、鳥よりも蝶みたいじゃったから」
「それってお世辞?」
ひよりは照れくさくなって笑いを抑えることが出来なかった。
仁王は手にしていたシャボン液とストローを置いて、両手で蝶を象った。
そして、仁王はひらひらと飛んでいるように動かす。
「鳥みたいに真っ直ぐ飛ぶんじゃのぅて、遊ぶようなカンジじゃ」
遊ぶ。自分ではそんなつもりはないので仁王の比喩は理解し辛かった。
「どこからか知らない間にやって来て、俺達の間をすり抜けるように飛ぶ」
蝶の形だった両手は離れ、ただの手の平になった。
「そして知らない間に、いなくなる。」
ひよりは何も言えなかった。
直ぐ戻れていたら。ずっと戻れないままだったら。どちらも考えても仕方のないことだけれど、もしもを思い浮かべてしまうのは人間らしさかもしれない。


HR終了のチャイムが響く。仁王とひよりはまだ立ち上がることもせずチャイムを聞き終えた。
数羽の鳥達が列を乱さず、何かの目的に向かって空を過ぎった。

「…あれ?」
向かいの校舎の屋上に人影が現れた。その校舎はこちらより階数が少ない為、屋上にある庭園を見下ろす形になる。
馴染みのある姿に似た人物に、ひよりはフェンスに寄って確かめる。触れると、カシャンとフェンスが鳴いた。
「…やっぱり幸村くんだ」
向こうはこちらに気付く様子もなく、屋上庭園を眺めていた。
ダメだダメだと思っていてもその姿を見ただけで簡単に顔が綻ぶ。なんて現金で単純なんだとひよりは自分に少し嫌気が差す。
「幸村はあそこの花をよくいじっとる」
同じくフェンス前に来た仁王から幸村の知らない部分を聞く。知っても知ってもまだ知らないことだらけだ。
「植物が好きなんだね」
仁王に応えるというよりも、まるで向こうの幸村に話しかけているようだった。
幸村の姿を見つめるひよりの横顔は微笑んでいた。瞬きに揺れる睫毛が喜びを表している。
ひよりの気持ちが幸村に向いていることは、仁王にとって簡単に感じることが出来た。
しかし、その気持ちを歓迎するべきか追い返すべきか、仁王には分からなかった。
どちらにしてもひよりはまた悲しい顔をするんだろう。恐らく、自分が知らない間に。


不意に隣から気配が消えて、ひよりは慌ててその気配を追って振り返る。
「戻るの?」
「そろそろ迎えが来る」
「迎え?」
何のことかと問うと、階段を駆け上がる足音の後に勢いよく屋上のドアが開かれた。
「仁王!やっぱりここにいやがった!」
走ってきたにも関わらず息を切らしてないのは流石というべきか、怒りを露わにした丸井だった。
「大掃除くらいやれコノヤロウ!」
HRの後に控える大掃除。生徒達にとって面倒ではあるが避けられないものである。
「今行くとこナリ」
「嘘吐け」
「ホントだよ」
ひよりが仁王の弁護を勤めると、丸井が上体を傾かせて仁王の先にいるひよりを見た。
「あれ、お前もいたのか」
「人生初サボリです」
控えめにピース。仁王が微かに笑ったが、丸井は後頭部を掻きながら、あー…と小さく呟く。
「お前のことは柳に聞いた。部活までもうちょい待ってろぃ」
「そうさせてもらうね」
「…そう言う丸井は部活には出れんのに」
「うっせーな!宿題が終わったら出る!」
「終わればの話じゃけど」
「もういいお前黙れ。ていうか早く教室行け!」
ドアを指す丸井に、仁王はテキトーな返事をして階段を下りていった。

「ひよりはまだここにいるのか?」
仁王の足音が聞こえなくなったのを確認して、丸井はひよりに向き直る。
そっと幸村の姿がまだそこにあるのを見て、ひよりは答えた。
「うん、もうちょっといようかな」
「まぁどこにいようとお前の自由だけどな。ここはこれから暑くなってくるから気を付けろよ」
太陽が少しずつ南にやって来ているが、丸井の言葉はそれを指しているのではなく、明らかに自分が経験した言葉だった。
もしかしたら丸井もここの常連なのかもしれない。先程の仁王とのやり取りを思い出し、いつもそんな光景がある屋上だったら常連になるのも仕方がないなと思う。
とても、楽しいだろうから。
「じゃあ俺は戻るぜぃ」
「うん、ありがとう」
ドアを閉める後ろ姿にひよりは手を振った。
バタン、と閉まる音を聞いて再度庭園を見下ろす。
丁度自分の手の平に収まるように、幸村の姿を重ねた。
「…捕まえた」
本当に捕えられる訳はないのに。
「……なんてね。」

空中で視線がぶつかった。ドキリと心臓が跳ねた。
声を出すよりも先に手を振れば、幸村もそれを返してくれた。そんな小さなことでまたココロは音を立てて喜ぶ。








いつ戻るか分からない不安も、シャボン玉のようにパチンと消えてしまえばいいのに。


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