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蝶々結び
誰かを想って泣いた夜


「今年もおばあちゃんがスイカ送ってくれて冷やしてあるんだけど、食べる?」
夕飯を済ませて何気なくリビングでテレビを見ていたら台所から母の声がした。
スイカと言われてそういえば今年の夏はまだ食べてないなとひよりは思い、それに頷いて応えた。
スイカを切る母を見ながら、おばあちゃんも姿は同じで知らない人なんだろうと不思議な気分になった。自分がいる世界の祖母がスイカを送ってくることは一度もなかったからだ。
許可が下りれば合宿先に持っていくのもいいんじゃないかと思い、あれ?とその提案を遮断する。

今日は結局全員が宿題を終わらせることは出来ず、空の色が変わるまで教室にいた。
抽選会に行ったのも後でバレてしまったけれど、各校の代表が集まるあの空間は緊張感と共に期待感もあり、見れて良かったと思う。
そして、部室は朝に行ったきりで鍵を閉めていないことに気付く。

サクッと気持ちのいい音を響かせながらスイカは切り分けられていく。
「お母さんごめん、ちょっと学校に行ってくる」
「今から?明日じゃダメなの?」
少し心配だけど、1日くらい大丈夫かな。もしかしたら、もう一人のひよりはこう言うかもしれない。でもひよりはそう思えなかった。
「自転車で行くからすぐ戻るよ」
「せっかくスイカ切ったのに」
「ごめん、帰ってきたら食べるから」
じゃあ待ってるわ、と母は切ったスイカを冷蔵庫にしまった。


自転車に乗って学校へ向かう。
日が落ちて少しだけ温度を下げた夏の風が体中に触れて過ぎていく。走っている時に似たこの感覚はとても気持ちいい。
テニスコートに一番近い校門に着くと、閉まっているかもしれないと思った門に少しだけ隙間が出来ていた。そしてその奥、緑のコートに明かりが照らされていた。コートを駆ける音と球を打つ音が聞こえる。
誰かいる。
ひよりは開けられた門の隙間を広げて、部室に向かうよりも先にコートに走った。

ひよりがコートを見るとその人物は背を向けていた。
幸村だった。
素振りを繰り返したり、壁打ちをしたり、サーブを打ち込んだり、色んな動きは止まることなく、終わりのないものに見えた。
汗を流し肩で呼吸をしている。その呼吸音が静かなコートに響いていた。
がむしゃらにも似た必死な背中。まるで自身を傷めつけているような練習。顔は見えないが、浮かべる表情には辛さが表れていることは容易に想像できた。
それを思いひよりは顔を歪める。
幸村の背中にはいつも肩に羽織っているジャージがなく、いつものような穏やかさもない。跡部が来た時に見せたものと似ていた。
幸村の内側から滲み出るもの。それが何故怖いと感じたのか分かった気がした。
これはきっと、私が知りたいことのひとつなんだろうと直感する。広いコートに孤独に立つ幸村は、あの写真と繋がっているんじゃないだろうか。

ひよりはその場を立ち去り、部室のロッカーから写真を取り出してそれを眺めた。
窓から入るコートの明かりが写真を照らす。写っているもう一人の自分は笑っているけれど、本当はそこに違う感情があるんじゃないかと思えた。
「…っ、」
頬を伝い写真に雫が落ちる。ひよりの涙だった。
本当に泣きたいのは幸村かもしれない。自分を責めるような練習風景を瞼の裏に映し、ひよりはそう思った。
幸村が何故あのような練習をするのか分からなかった。けれどこのままでは幸村の心身が心配だ。
「あんな無茶苦茶な練習、マネージャーとして止めるべきよね?」
答えは返ってこないと分かっているが写真の自分に問いかけ、数秒の後に写真をロッカーにしまった。
どれくらい経ったのか、ひよりは涙が乾くのを待って部室を出た。その間もコートから聞こえる音が途切れることはなかった。
ひよりは笑顔を作る。みんなともっと笑いたい。そう思ったのは本当で、ここにいる間は貫きたかった。
そのままの表情で、ひよりは幸村の名を声にした。

「…どうしてここに」
幸村は振り返り、呼吸を整えながら尋ねる。その声には驚きと他の感情も含まれているようだった。
「部室の鍵をかけてなかったことに気付いて来たら、コートに明かりがついてて」
「…そう。」
それだけ呟いて、幸村はラケットを握り直す。また直ぐにボールを追いかけようとするのが分かって、ひよりはそれを止める為に早口で次の言葉を投げた。
「いつもこんな時間に一人で練習してるの?」
幸村が壁に向かって構えた姿勢を、続行を諦めるようにゆっくりと元に戻した。
「一人だよ。俺はみんなよりもコートに立つ時間が少ないから」
少ないから。幸村はその続きを言わなかったが、ひよりには続きが読み取れた。少ないから、一人でその分を埋めようとしている。
「みんなは知ってるの?」
「みんなには言ってない」
「どうして?」
ひよりの問いに幸村は沈黙を作った。言いたくないのかもしれない。
「一人で練習するのは悪いことじゃないと思う。…でも、今幸村くんがやってるのは練習には見えないよ。どうしてそんなに自分を追い詰めてるの?」
多分、自覚があったんだろう。幸村がひよりから目を逸らした。
そして一言だけ、ひよりに届くか届かないかの声で言った。
「…時間がないんだ」
行き場を探していた糸と糸がひとつ繋がった。それは寿葉が言った「間に合わない」と同じ意味だった。
「部室の鍵は俺がちゃんと閉めておくから、心配しなくていいよ」
言い方こそ優しかったが、帰れと言われているようなものだった。冷たく突き放されたようで心が痛い。
何も言うことが出来ず、動くことも出来ない。そんなひよりを視界から外して幸村は練習を再開させた。

きっとこれは境界線だ。この世界の見えない何かが、これ以上知ってはいけないと防衛線を張ってるんだ。
深く踏み込んではいけないと、自分でもそう思ったじゃないか。

なのに。どうして。
幸村くんの内側にあるものを知りたい。
辛くて悲しい背中を支えたい。
幸村くんが笑ってる姿をもっと見たい。
もっと一緒にいたい。
昼間は見ないふりをしたけれど、どんどん湧き出てくるこの感情が何と呼ばれるか、私は気付いてしまった。
目を閉じると、落ちたグラスが割れるように境界線を壊してしまった自分が見えた。
カシャンと落ちて割れて。染み出す想いは止まらない。

「幸村くん!」
壁から返ってきたボールを左手でキャッチしてから、幸村は振り返る。
「私もこのことをみんなには言わない。その代わり、」
「…代わりに?」
「今日はもう止めにして」
ひよりにメリットがあるようには思えないその要求に、幸村は一瞬目を丸くした。
「お願いだから、もっと自分を労ってあげて」
続けられた言葉に、ひよりは自分のメリットなど考えていないことに幸村は気付く。
初めからそうだ。自分よりも誰かのことを気にして、気遣って、支えてくれていた。
幸村はひよりに冷たく当たってしまったことを反省した。つい、自分のことで頭が一杯になっていた。
ひよりの言葉で、疲れていた体と気持ちが軽くなっていくように感じた。
「…分かった。今日はもう終わりにするよ」
無理をしてほしくないという気持ちが通じたことに、ひよりはほっとしてありがとうと笑った。

それから二人は一緒に片付け、校門を跨いだ。
帰る方角も同じだったのでひよりは自転車を引いて、その向こうに幸村が並んで歩いた。
特に会話はなく、時々過ぎる車の音やひよりが引く自転車の車輪の音がそこにあった。
跡部が来た時、初めて見る幸村の一面にどう向き合っていいか分からなかった。あの時と同じだ、とひよりは思う。
「…9時前か。遅くなったね」
携帯の時計をそっと見て言う幸村は、すっかり穏やかさを戻していた。
それに少し安心しつつ、ひよりは母に直ぐ戻ると言ったことを思い出して内心で溜め息を吐いてしまった。
「…あ、スイカ。」
「スイカ?」
そうだった。一緒に食べるつもりで母が待っているんだった。
不思議そうに視線を向ける幸村に、ひよりはひとつ尋ねることにした。
「幸村くん、スイカ好き?」
幸村はまだ不思議そうな表情を浮かべながら、そうだね。と肯定した。
「おばあちゃんがスイカ送ってくれたんだけど、食べに来る?」
「え?」
「あ、でも時間も遅いし、嫌じゃなければ…なんだけど」
幸村は驚いた。ひよりが来る以前も、夏になるともう一人のひよりがよくスイカをご馳走してくれた。他のメンバーと一緒にひよりの家にも何度か行ったことがある。
誘い方に違いはあれど、やはり二人はどこか似ているのかもしれないと思い、幸村はデジャヴのような感覚に笑みを零した。
その笑みがイエスなのだとひよりは理解して、嬉しそうに笑顔を返した。

デジャヴといえば、ひよりと出会った時に見た青い蝶は今もどこかを飛んでいるのだろうか。
もしかしたらひよりと何か関係があるのかもしれないと思ったが、まさか。と幸村はその考えを払拭した。



帰宅後、連絡もせず遅くなったことをすっかり置き忘れて、母は幸村の姿を見るとご機嫌になった。
二人に面識があったことに少し驚きはしたが、ひよりはそれよりも甘くて瑞々しいスイカを味わって夏を感じていた。
父はまだ帰っていなかったので3人でスイカを食べた後、幸村は丁寧にお礼を告げて席を立った。
送っていくつもりでひよりは後を追いかけたが、ここで大丈夫。と玄関で断られた。
「…じゃあ、そこの門まで」
仕方なく妥協案を出すと、幸村は頷いてくれた。
門まで来て幸村はもう一度お礼を言った。そして少し言いにくそうに、言葉を続ける。
「両親には…言ってないんだ?」
母とのやり取りを見て分かったんだろう。幸村が察した通り、ひよりはもう一人の自分と入れ替わっていることを両親には言っていなかった。
「…初めは言おうと思ったんだけど」
ひよりは困った表情を隠すように俯いた。しかし直ぐに笑ってまた幸村に視線を合わせる。
「やっぱり混乱させたくないから。もう一人の私を大事にしてくれてるのが分かるから、余計に言えなかった」
そうやって、一人で抱え込もうとする。そうやって、少し悲しい顔で笑う。
幸村はひよりとその両親の心情を思うと何も言えなかった。
「もしかしたら、触れないだけで気付いてるのかも。自分の子供のことだもんね」
告白してくれるのを待っているのかもしれない。そう思うと、騙しているようで何度も何度も謝りたくなる。
「でもみんなのお陰でなんとかやっていくことが出来たから、元に戻るまでこのまま何も知らずにいてほしい」
それは暗に、幸村も両親には何も言わないでほしいというお願いだった。
ひよりがそう決めたのなら、と幸村はそれに従おうと思った。

「お、ひより?」
声がした方を見ると、角から姿を見せた父が手を振りながらこちらに歩いてきた。
「お父さんおかえり」
「お久しぶりです」
幸村の丁寧な会釈に、父はこんばんはと返す。
「えーと、誰だったかな?」
こちらも面識はあるようだったが、父は幸村のことを思い出せない様子だ。
「テニス部の幸村くん。おばあちゃんのスイカを食べに来てもらったの」
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
「あぁ、そうだ。幸村くん。久しぶりだね」
ようやく幸村のことを思い出した父は、またいらっしゃいと気をつけて帰るんだよを言い残して、先に家に入っていった。
「…それじゃあ、また明日ね」
少し名残惜しい気もしたが、ひよりは小さく手を振る。
「…明日は登校日だけど、どうする?」
「あ…」
登校日となると、知らない人間関係に沢山出会うことになる。寿葉が疑問を持ったように沢山の人に違和感を感じさせることになってしまう。
それは避けたいと思った。
「もし辛かったら、休んでいいから」
「…うん。朝までには考えとく」
幸村の提案に肯定も否定も出来ず、ひよりは曖昧に返事をした。
今はただ、幸村の心遣いが嬉しかった。
「合宿の準備も忘れずにね」
幸村がからかうように言うから、ひよりは小さく吹き出してしまった。
きっともう一人の私は宿題とか色々な面で心配かけてたんだろうな。
「大丈夫だよ」
そして幸村は父が姿を見せたあの角を曲がっていった。


家に戻ると、ビールを飲みながら父がひよりに話しかけた。
「去年はテニス部の他の子達も一緒だったのにな」
「え…」
そうなの?と言いかけてひよりは口を閉じる。だから両親は面識があったのか。
「今年は幸村くんだけかぁ」
「どういう意味?」
首を傾げてひよりは父に問う。すると父はあからさまにニヤリと表情を変えた。
「ひよりもいつの間にか誰か一人を想うようになったんだなぁ」
幸村を見送って温かかった心が瞬間に凍りついた。
「…違う」
凍りついたのは、父に自分の気持ちを見透かされたからじゃない。
「え?彼氏じゃないのか?」
本当は想ってはいけない。本当は、自分はこの世界に存在していない。その事実を突きつけられたからだった。
「違う!」
出した声は思ったよりも大きく、父もひより自身も驚いて、母も何があったのかと台所からこちらを見ていた。
父は少し気まずそうにすまん、と一言声にしてビールを喉に流し込んだ。
ひよりはリビングを出て階段を上がる。
自分の部屋に入ってドアを閉める。そのまま力が抜けたようにドアに寄りかかって座り込んだ。








「違う…そんなこと、有り得ないよ…」
搾り出すような声だった。体全体が震えているような感じがした。
初めからこの世界の自分だったらどんなに良かったか。
この時初めて、元の世界に戻りたくないと思った。




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