蝶々結び 見えてくる感情 「……テニスしてぇ」 不貞腐れた態度で丸井が言った。 「……俺、もうダメっス…」 その隣では赤也が机に額を付け、脱力して動かなかった。 「赤也くん…」 大丈夫?とひよりが続ける前に丸井の正面に座っていた柳生が無言で立ち上がる。そして赤也の背後に立ち、持っていた教科書をクルクルと丸めてそのまま振り落とした。 「ぶっ!」 その音はラケットで球を打つ音に似ていい音だった。クリーンヒットに違いない。 赤也は声にならない声を漏らしてぶたれた所を両手で押さえる。 見ているひよりも痛みを想像して顔を顰めた。 「何するんスか!」 「宿題を終わらせずに真田くんの制裁を受けるよりはマシでしょう」 言いながら柳生は自分の席に戻った。 抗議しようにも確かに柳生の言う通りなので、赤也は怒りややるせなさを一遍に重い溜め息で吐き出した。 ひよりと隣に座るジャッカルは目を合わせて苦笑し、赤也の隣にいる仁王は無関心を決め込んでいた。 「今日は練習はなし」 朝、幸村が言った。その理由を問えば答えるのは柳。 「今日は全国大会のトーナメント抽選がある。規定事項や大会日程などの確認も行われる」 「出場校の代表が集うんだ。俺は用があって抜けるから、真田と柳に出てもらう」 3人が部活に出られないのは確かに少し困る。が、誰が抜けたとしても今までは通常通り練習をしていた。 「抽選会が大切なのは分かるけど、なんで練習を中止にするの?」 「抽選会が行われるのはこの学校だ。さすがに全国の部長クラスには練習を見せられないな」 と、柳が続けた。 寿葉や他にも時々現れる偵察とは違って、明らかに警戒の色を含めた声だった。 いよいよ抽選が行われることで、みんなの全国への意識が更に強くなっていることをひよりは感じる。 「その代わり、」 幸村が少し困ったように、でもしっかりと、その内容を告げた。 「やらないと居残りだぞ。合宿は明後日だからな」 ジャッカルが赤也と丸井に確かめるように言った。 「んなこと分かってるっつの」 その代わり、今日は宿題を進めること。幸村はそう言った。 合宿が始まるまでに夏休みの宿題の7割を終了させないと合宿には参加できない。そういう決まりがあった。やるべきことをしっかりやった上で、自分のやりたいことをやる。立海らしい筋の通った決まりだ。 そんな訳でひより達は教室で机を向かい合わせ、宿題を進めることになった。 柳生、仁王、ジャッカルはある程度計画的に消化していたようだが、問題児は丸井と赤也。去年はこれにもう一人のひよりも加わってギリギリまで足を引っ張った。 相変わらず丸井と赤也はペンを投げ出したままだ。 丸井は誰にも気付かれないようにちらりとひよりを見た。問題集を開いて難しい顔をしていた。 勉強は得意な方ではないらしいが、真面目に取り組むその姿を見て丸井はフと思う。 「ていうか、お前は別にやらなくてもいいんじゃねぇの?」 ぴたりと、静かに皆の動きが止まった。 「え?」 「それって正確には、お前の宿題じゃねーだろぃ?」 その場にいた誰もが同じタイミングで言葉の意味を飲み込んだ。 「…そう言われればそうだね。」 もう一人の自分を意識する度にひよりは悲しい表情を浮かべていたが、予想に反してひよりの声は明るく、表情は小さく笑っていた。 「それに多分アイツはあっちでも宿題なんかやらないと思うぜ。な?」 「あ、あぁ。そうかもな」 同意を求められたジャッカルは少々ぎこちなくそれに応える。 「そっか…じゃあ、やーめた!」 カツンと、シャーペンを机に置く音がした。ひよりは両腕を上げて背伸びする。 「でも丸井くんと赤也くんはちゃんとやらなきゃダメだよ?」 「先輩だけズルイっスよー」 「いいからまずはシャーペン持ってね」 「お前自分がやらなくていいからって急に態度偉くなったな」 「何言ってんの、丸井くんが教えてくれたのに」 そのやり取りは自然だった。もうずっと前から二人の関係は変わっていないような、見ていたジャッカルはそんな感覚に捕らわれる。 悪気はなくとももう一人のひよりと比べてしまう丸井の気持ちを察し、ジャッカルは何も言えず口を閉じた。 「ちょっとトイレ行ってくるね」 丸井と赤也が渋々宿題に向かう姿を見て、ひよりは席を立った。 開けたままのドアをくぐって姿が見えなくなる瞬間、ジャッカルはそれを見逃さなかった。 数秒後、ひよりと同じ理由を口にしてジャッカルは教室を出た。 「秋川っ」 一番近い階段の踊り場でひよりは俯いていた。教室を出る時に見せた寂しげな表情だった。 呼びかけに申し訳なさそうに振り向くひよりを見て、ジャッカルは悟る。 「トイレは嘘みたいだな」 「みんなにもバレバレだったかな」 「さぁ、どうだろうな」 仁王辺りは見抜いていたかもしれないが、確証はないのでジャッカルは言葉を濁す。 他人に言われることには素直なのに、自分の言いたいことを素直に言えない。ジャッカルはひよりの性格をそう判断していた。 丸井の言葉を意識して気持ちが揺れたのだろう。今までだってそういうことが何度もあったのかもしれない。しかしひよりはそれを否定することも誰かに告げることも出来ず、自分の中だけで消化しようとしているようで、ジャッカルは少し悲しい気持ちになる。 数秒の沈黙の後、ひよりはジャッカルに視線を合わせた。 「違ってたらそう言ってね。」 呟くように前置きして、ひよりは続けた。 「丸井くんともう一人の私って、仲が良かったのかな?」 仲が良いという言い方は広範囲で少々やっかいだな、とジャッカルは思う。 「それはアイツだけじゃなく俺達全員に言えることだな」 思っていた答えが聞けず、ひよりはうーん…と言葉を選び直した。 「じゃあ単刀直入に聞く。丸井くんはもう一人の私のことが…好き?」 真っ直ぐに視線を合わせてくる瞳に誤魔化すことはできないと思い、ジャッカルは開き直ることにした。 「…分かるのか?」 肯定の意味も含めたジャッカルの問いに、ひよりは笑う。 「なんとなく。だって丸井くん、よくもう一人の私と比べるから」 丸井は時々、私を通してもう一人の私を見ている。気のせいと思うにはそれは明らか過ぎた。それは本人が無意識にしているということもなんとなく感じていた。 「フォローするつもりじゃねぇけど、アイツに悪気はないし、比べたとしてもお前のことはちゃんと受け入れてるぜ」 しっかりフォローしてるじゃない。ひよりは二人の関係が羨ましく思う。 「分かってる。だから余計に申し訳なくて」 「どうしてだ?」 「私はもう一人の私にはなれないから」 もう一人の自分になろうと思ったが、それを否定してくれたのは丸井自身だ。 あの時の丸井がどんな気持ちだったのか考えると、胸の奥がツキンと切ない音をたてる。 「…好きな人が急にいなくなったら、誰だって寂しい」 「? 秋川もそういう経験があるのか?」 「えっ?なんで?」 「いや、そういう風に聞こえたから」 ドキッとした。そんな経験はないし、そんなつもりもなかった。 ひよりは少しだけ速く巡る鼓動に気付かないフリをして、無意識に頭を過ぎった人物を消し去った。 どうしてあの人を思い描いたのか分からなかった。けれどひよりはなかったことにする。 この世界で私の存在が浮いているように、私の感情もどこに辿り着くことも出来ずふわふわと漂うだけになるだろう。 私に出来ることはみんなをサポートすることしかない。それ以上この世界やみんなに踏み入ってはいけないと、ひよりは自分に言い聞かせた。 「ひより!」 踊り場を覗きながら丸井が呼んだ。その直ぐ後ろには赤也の姿があった。 「どうしたの?」 ひよりは明るい表情を作り直して呼びかけに応えた。 どうしたと聞いたけれど、もう宿題が終わったとも考えられず、ということは休憩かなとひよりは見当をつける。 「お前も抽選会覗きに行くだろぃ?」 「オイ、バレたら怒られるぞ」 「バレなきゃいいんスよ!どこと当たるのか気になって宿題どころじゃないっス!」 イタズラを楽しむ小さな子供と同じ表情で赤也はジャッカルの忠告をかわす。 「早くしねーと終わっちまうぜ。先に行ってるからな!」 行こうぜ、と丸井は赤也に合図をして、二人は走る足音を響かせてその場を去った。 どうする?とジャッカルとひよりは視線を合わせたが、ひよりはその答えを後回しにした。 「…私だけ丸井くんの気持ちを知ってるのって、ちょっとズルイよね。もう一人の私に伝えることが出来たらいいのに」 「アイツが自分で言えないようなら、多分もう一人の秋川が無理矢理にでも言わせるさ」 ジャッカルは小さい右ストレートを空中に放った。それはもう一人の自分の真似だということを理解し、ひよりは吹き出した。 その場面、見てみたいな。 「…私、ちゃんと笑えてる?」 「え?あぁ…どうしてだ?」 脈絡のないひよりの言葉にジャッカルは一瞬反応が遅れる。 ひよりは目一杯笑ってみせた。 「私はもう一人の私にはなれないけど、みんなの仲間の一人だと思ってる。みんなと一緒にいたいから、もっと笑うことにしたの」 私達も行こう。そう言ってひよりは先に行った二人の後を追った。 そんなこと、とひよりの後姿を見て思う。 「笑ってても泣いてても、仲間に変わりはないぜ」 誰に聞かせる訳でもなく一人呟き、ジャッカルはひよりの後を追った。 見えてくる感情 「…………。」 「アイツら全員抽選会を覗きに行ったぜよ」 トイレから戻り人気がなくなった教室を見て言葉を無くした柳生に、仁王は淡々と行方の先を告げる。 「一応忠告はしたんじゃけどな」 自分に非はないと仁王は主張した。柳生は堪えきれず溜め息を吐く。 「桑原くんまで行くとは…」 「アイツはそういう奴じゃ」 言いながら仁王は席を立った。 「あなたもですか?」 「指定範囲分は終わった。文句ないじゃろ」 「…私も行きます」 連れ戻して椅子に縛り付けてでも宿題をやらせなくてはいけない。柳生は使命感のような義務感のような、そんなものを感じた。 「お前も気になるなら正直にそう言えばいいのに」 「仁王くんこそ」 「…プリッ。」 [*前へ][次へ#] |