エキソジェネシス・シンフォニー-聖域
『これ以上、
苦しまないで……』
地獄の悪夢の間。
赤黒い空、乱れ立つ暗く冷たい墓石の前に立つ自分に、誰かがそっと寄り添ってきた。
いくつにも重なる死に際の呻き声。
腐りかけた血の臭い。
足元を流れる血の川。
浮かぶ死体。
骨の姿も、肉がついた姿も。
その間も黒い羽が数えきれない程散らばっている。
その中にいても染まらない白い影。
『私………
貴方を助けたい』
清らかな、しなやかな強さを感じる声。
黒い羽が朽ちていく。
そして彼の目の前を白い鳥の群れが飛び立ち、やわらかな羽が、視界を埋め尽くす。
赤黒い血の川が、激しく打ち寄せる青い水に流され遠くへ消えていき、足元をサラサラ流れていくのは水晶の砂。
その一つ一つの内には小さな火が灯っている。
…普段とは違う。
彼の右手に伸びる白く繊細な手。
汚れなき純白、桜色の爪には傷一つない。
対して己の手を見やる。
裂傷、剥がされた爪、ナイフで抉られた傷、折れ曲がった指。
他人と自分の両方の血に濡れ真っ赤に染まり、血生臭く、あまりに汚れていた。
『…触ったら駄目だ…。
汚れてしまう…』
そう声をかけても、彼の手をためらわず握る手。
『いいの………。貴方の手なら、平気…』
あの小さな少女。
その彼女が成長したであろう美しい姿で、彼を優しく抱き締めてくる。
『…貴方の手の血は、私を助ける為にも流れた。
貴方の心は死んでいない…………。
まだ間に合う………、
息を、吹き返せる……』
夜明けの空を思わせる淡い紫がかった白のドレス、純白の髪、見つめる瞳。
真紅の瞳。
小さい頃飽きずに家の窓から眺めていたあの夕空の色。
頬を撫でる風。
懐かしい海の香り。
…もう帰れない故郷のものと同じ。
幸せだった頃の…………。
あの悪夢の光景は消え去り、ただその場にあるのは白い光。
自分に向かって笑いかける彼女は、あまりにも清らかで貴かった。
『何故気にかけるんだ……………
俺は………
お前を殺そうとしたのに…………』
そう悲しげにつぶやく彼の口唇を、そっと人差し指で塞ぐ。
『気にしないで。
もういいの』
微笑む。
拒絶した腕を優しくとり、その血に濡れた彼の手を彼女は自分の頬にあてる。
『………ただ貴方に生きて欲しいの……。
それに、汚れてなんかいない…。
貴方の手、
見て。』
彼は絶句する。
あれ程ズタズタに切り裂かれ、血にまみれていた手が、毎夜傷つけられ痕が消えなかった掌が、きれいに治っていた事を。
『ね?』
見上げる瞳。
おそるおそる頬に手をあて、見つめる。
『……何故だ…』
ふわりと風立つ長い髪。
首に回る華奢な腕。
早く鼓動する心臓を感じる。
耳元に唇を寄せて、拒まないでと言い、彼女は切なげな声で囁く。
『お願い、生きて………………。
死なないで……。
辛くても生きていれば、きっと良いことが起きるから。
貴方が生きる理由は起きれば、きっと分かる。
いくつだってあるの。見ようとしなかっただけで。
あと何故って………………、
貴方が、好きになった…………………。
初めて貴方を見た時から。
心配してくれた時から。
過去の貴方を知った時から。
…まだ現実の私はよく分かってないけど。
貴方は優しい……。穏やかで物静かで、内に情熱を秘めていて、誰よりも人の痛みが分かって悲しめる人…。
自分の事より人を気にかけて、自分を犠牲に出来る人…。
私は夢、同時に私は現実の私。
どちらも同じ私。
私、貴方と一緒にいたい………………………………。
貴方が大好き。
貴方の悲しみを少しでも癒したい…………。
…もし、
貴方が許してくれるなら……』
浮上する意識。
埃一つない白い天井を目にし、鈍い身体の痛みにこれが現実だと理解する。
「夢、か………」
リゾットはゆっくりと体を起こす。
見慣れない部屋。
身体に巻き付く包帯。顔にも手当が施されていることに気付く。
(……俺は…死ななかったのか……)
ふと気づく。
自分の右手が誰かに繋がれているのを。
…現実の、天使がそこにいた。
息をのむ。
青白い十字を白い髪に散らしたあの少女が、自分の右手…傷口が塞がっている…それを握りしめ眠っているのを。
その十字できらきらと照らされた姿は、あどけない寝顔ながらも美しささえ感じた。
「夢…………、じゃなかったのか………」
か弱く頼りなげながら、しっかり握り締める小さな手。
やわらかく、伝わる優しいぬくもり。
…彼が何年間も味わった事のないもの。
「…………う、ん………………」
彼女にかけられた赤い毛布が床にズレ落ちているのに気付く。
起こさないように注意しながら拾うと、もう一度かけ直し、
まだ、その小さな肩が冷えてるのか僅かに震えてるのに気付いて、自分にかけられたタオルケットも一枚はがして、その上にかけてやる。
(ずっと…付いていたのか…?
俺の、傍に)
戸惑いが隠せない。
この握った手の理由が分からない。
殺そうとしたのに。
あんなに恐ろしい目にあわせて、あんなに泣かせたのに。
『死なないで』
あの美しい彼女の声を思い出す。
自嘲する。
(俺には…………そんな資格はない……)
と。
それでも、少女の手を離す事が出来なかった。
少し青ざめた顔。
今、この思った以上にしっかり繋がれた手を無理に離せば、少女は眼を覚ましてしまうかもしれない。
…毛布をかけ直した時彼が身体を少し動かしただけで、手をギュッと握り直し、その腕に頭を擦り寄せてきたのだ。
「いかないで………」
眠りながら、あまりに小さな声で言ってきて…。
『貴方を好きになった』
そう言ったあの美しい彼女の微笑みが、今の少女のかすかに笑む表情と重なる。
…こんなに純粋に好きだと言われた事はなかった。
許された事がなかった。
こんな近くに誰かが傍にいた事なんて、長い事無かった。
こんなあたたかみを感じた事なんて無かった。
こんな安らかな気持ちになった事なんて無かった………。
光に透ける銀髪。
その向こうの淡い緑の目が、滲(にじ)んで濃く染まる。
頬を流れる涙。
「……………どこか、痛い…?」
いつの間にか、あの赤い瞳が彼を見返していた。
彼女は起き上がると、彼の元へ手を伸ばしその熱い雫を拭う。
優しい仕草。
「大丈夫………?
ごめんなさい。
今のあたしの力じゃ、まだケガを全部治せないみたいなの…。今、痛み止めと氷を持ってくるから……」
嘘も偽りもない、ただ純粋に心配するだけ。自分の仕打ちを忘れたかのように。
会ったばかりの自分を大切に扱おうとする。
そんな彼女が…………あまりに貴い。
「……………痛みじゃないんだ」
一旦離れようとした彼女の手を引き留め、強く引き寄せる。腕の中におさめ、あのあたたかさを再び味わう。
肩口に顔を埋め、静かに抱き締める。
一瞬、アマーロも急な出来事に驚きながらも、自分の肩が少しずつ濡れていくのに気付き、兄が自分にしてくれたように背中を撫でてやる。
「おかしい、
変だ…………………
お前は………………………、
こんな俺に………………………………………っ、
何故………っ」
閉じ込めていた感情が眼を覚ます。
凍りついた心が、溶かされていく。
少しはにかみながら、彼女は言う。
「…優しい人だから。ほら…毛布………。今だって…気づかってくれた……」
その声が染み渡るように心地良い。
そして彼女は、あの夢の彼女と同じ言葉を今は不安な様子で言う。
「お願い、死なないで」
と。
心の奥の傷はまだ塞がらない。
絶望はまだ息を潜めている。
この先の自分が想像出来ない。
それでも、彼女を心配させたくなかった。
だから、ゆっくり顔をあげて、視線を合わせながら彼女に言う。
「分からない………………。
今は、頭がいっぱいなんだ………。
ただ………」
…その時の彼の表情を、アマーロは忘れられない。
「………理由の一つは、分かった、かもしれない………………………」
…かすかに。
本当にかすかだったが、
彼はアマーロに笑ってくれたのだ。
それがあまりに優しく穏やかだったから、アマーロは彼に対して、胸が痛いほど鼓動を打って、顔に熱が集まるのを理解した。
そして、
ますます彼に生きていて欲しい………、こんな風に笑って欲しいと願うようになったのだ。
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