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小説
カオス理論
どこかで蝶が羽ばたいて、それは地球の裏側で竜巻となった。


姉は、心なしか普段よりぼんやりとしているようだった。
遠方に嫁いで久しい姉は、二日前にふらりと帰ってきた。
普段着にサンダルを引っ掛け、裸財布を片手に玄関に立つ姉を見た時の自分と両親の驚きといったら。
「姉さん」
呼び掛けは声にならず、ただひゅうと吐き出された二酸化炭素が空に散じた。
八つ年の離れた姉は、物心つく頃には穏やかで優しく、全てが完璧に見えた。
実際に、姉は突出とした何かはなかったが、凡その事は難なくこなし、両親と自分は自慢だったものだ。
その姉が、二年前に大学在学中から付き合っていた男と結婚すると言いだした。
いきなりの姉の発言に、両親も自分も驚いたが、二人の仲睦まじい姿を知る自分達に反対する理由もなく、姉はみんなの祝福を受け結婚した。
なのに、姉は帰ってきた。
「…姉さん」
今度は、はっきりと声が出た。
細い細い首のうえに乗っかった頭がゆっくりと振り向く。
「――あら、お帰り。おやつでも食べる?」
姉が嫁ぐまで毎日聞いていた台詞に、柔らかな微笑みに、泣きそうになった。
決して目をひく美人ではないが、整った顔に少し幼い容貌は十分美しかった。
その顔に、今は青い痣が痛々しく広がっている。
襟口から見える首にも、赤く引っ掻いたような傷が数本見えた。
多分、服に隠れた肌の大半に似たような傷があるのだろう。
「そんなことより、寝てないと」
「心配性ねぇ。ちょっと階段から落ちちゃっただけじゃない」
昔からちょっと傷見ると大騒ぎするんだから、とまるで何ともないように話す姉に、腹が立った。
(そうだね、昔の俺なならただ姉さんはドジなんだからと、心配しつつも苦く笑ってそれで終わりだったろうね)
でも、もう俺は高校生なんだ。ただの考え無しの頃の俺じゃないんだ。
無性に腹が立った。なにに対してであろうか。
嘘を吐く姉にだろうか。
――違う、この歳まで気づかなかったことに対する自分の愚かさにだ。
ぎゅうぎゅうと胸が苦しく、息が詰まるようだった。
(…姉さん。姉さんどこの世界に階段から落ちて引っ掻き傷をつくるんだ。頬に広がる痣はっきりと指の形をしてるじゃないか、なんで寝ないかなんてわかってるよ。背中にも傷があるんだろ、痛くて寝れもしないんだろ?)
怒鳴り散らしそうになる自分を必死で押さえ、姉の前に立つ。
「…さっき、義兄さんが来てた」
びくりと、眼下の細い肩が跳ね上がる。
「もうアイツは来ない」
かたく握った拳を姉のすぐ目の前に持ち上げる。
拳は少しだけ血に濡れていた。
「姉さん、嘘なんかつくなよ…。アイツにやられたんだろ?」
紫に近い青い痣にそっと触れる。
「なに言ってるの…。階段から転けただけって言ってるじゃない」
俯き、声を震わす姉に悲しくなる。
昔から、姉はよく傷を付けて帰ってきた。
それはほんの些細な傷で、その度に姉はすこしぶつけた。不注意で転けた。と言っては駄目ねぇと笑っていたものだった。
どこかで蝶が羽ばたいて、それは地球の裏側で竜巻となった。
ふと、昔読んだ本の一文が頭の中に浮かんだ。
初期に起こった予想外のほんの小さな出来事に、その後の未来に大きな影響を及ぼすとかいう事だった覚えがある。
では、あの頃すでに蝶は羽ばたいていたのだ。
「俺はもう子供じゃない。そんな嘘ついたってすぐわかる」
震える姉にそっと手を伸ばした。
姉が、息を呑む。
「義兄さんにはもう手は出させない」
今、ここで姉を抱きしめればどうなるだろうか。
また、蝶は羽ばたき、竜巻となって何かを破壊するのだろうか。
姉を壊したように、こんどは俺達家族の仲を破壊するのかもしれない。
(嗚呼、けれど)
「今度は、俺が姉さんを守るよ」



(すでに蝶は羽ばたいているのかもしれない)

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