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小説
それだけで充分
その部屋には何もなかった。
否、ストーブにベッド。そして、生活に必要な最低ラインは通っていた。だが、それでも、人が住むにしては淋しすぎる光景だった。おおよそ、人一人が住んでいるにしては、その主人の個性がなかった。
もしかしたら、それこそが個性なのかもしれない。
冬の匂いが色濃い、カーテンを開けた窓辺とストーブを付けた部屋は、眠気を誘う、気だるげな暖かさに包まれている。
部屋の主である、少女というには大人びた、女というには年若い娘が、その部屋の唯一のインテリアであるソファアに、惜し気もなく晒された素足をだらりと投げ出し、微睡んでいた。
しゅわしゅわと、ストーブにかけた幾つかの材料とバター、ミルク、そして小麦粉を入れた鍋が湯気をたゆらせる。
あと少ししたら食べ頃になるだろう。
くぁ、と一つ欠伸をかけば、まるでそれを諫めるように咳払いが一つ。
にやけそうになる頬をどうにか抑え、いかにも鹿目面を浮かべ、さやは、男――咳払いの――を睨み付けた。
「約束は昨日だった」
「―すまん」
そう謝る男は、肩には雪がうっすらと積もり、頬は寒さにか赤く、髪はどこか崩れていた。普段であれば、端々まで完璧としか言いようがない男にしては、めずらしい光景だった。
益々以て、頬が緩む。
だが、目の前の男はそんな娘の変化にはとんと気付かない。
「クリスマスに会えないから、だから、昨日会おうって、いさみさんが言ったんだよ」
いさみさんのバカ、そう言えば、自分より幾つも年上の男は、うつうつとその大きな体を縮こまらせた。
「…すまん」
ぽつり、と、今日二回目の謝罪を口にする。
その姿があまりにも可愛くて情けなくて、約束を破った男を困らせてやろうとした意地悪がひょいと何処かに飛んでいく。
だけど、そう簡単には許してはやれない。
「いさみさんってほんとにバカ」
これ以上ないと言うほど、小さくなる男に、さやは心の中で呟く。
―ああ、バカな人。バカで可愛い私の恋人。
私が今一番ほしい言葉をわかっちゃいないんだから。ほんとにダメな人。
くつくつと、ストーブにかけた鍋が食欲を刺激する香をたてる。あと数分でできあがるだろう。
まだそれまではこの目の前の男はイジメてやろう。そして、シチューがてぎあがったらうんと可愛がってあげよう。
緩む頬のまま、さやはにこりと笑う。

ストーブにベッド。部屋にはソファアが一つ。暖かな日差しにシチュー。愛する男。部屋にはおおよそ何もなかったが、生きてくうえで必要なものは全てあった。

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あきゅろす。
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