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やるときはやりますよ(静雄さんと)


激流のただ中を猛スピードで流されるのはこれに近いのかもしれない。ごうごうと耳元で風が鳴り、大気の圧力が身体を包む。目も眩む高さと全身が凍えるような寒さ。
あり得ない高度まで人力で投げ上げられた眼下には、漆黒の布の上でステンドグラスを打ち砕いたようにきらきらした光で満ちていた。それは、綺麗で―――忘れようもないほど脳裡に強く焼き付く光景。
でも。
そんな高さから落ちたプールの水面はアスファルトの地面と変わらない硬度をもって僕の身体を受け止め、沈んだ水中は冬も近付く季節でしかも夜の空気にいっそうの温度を下げた冷たさで僕を包み込む。
その痛さと冷たさに、一度目はなんとか耐えた。プールサイドに何とかたどり着き、しっかりと固いタイルの感触に安心した時には、生身で普通は体験できようはずもない絶景を見た興奮と感動よりも、恐怖と寒さで震えていたけれど。
そこで終わったならよかったのだと、僕はあとあと考えることになる。

全身から滴り落ちる水がタイルを濃い色に染めた。座り込み、両手をついて荒い息を整えていた僕の身体は、不意に抵抗する間もなく持ち上げられる。
「や…ちょ……っ」
言葉すら満足に紡がせてもらえず、僕は再び高い高い空へと飛ばされていた。

自分の力で守った景色を特等席で見て来いと―――純粋な厚意というのがこんなに恐ろしいものなんて、出来れば知らないままでいたかったなあ……。
身を切る寒さと空気圧、そして再び水面に叩き付けられる痛み。
真っ黒な水中に呑み込まれながらぼんやりと、いったいどこで判断を間違ったんだろうか。走馬灯のように後悔が頭にくるくる回るのを最後、僕は意識を失った。



身体の表面から浸透する寒さを遠ざけるように、内側へと温かな空気を送られるような―――頬をすっぽり覆うぬくもりと、唇にぴったりくっつくやわらかさ――認識した感覚に喉奥からせり上がる苦しさを覚えて、でも口を塞がれてどうにもならず――僕は上に被さるようにしている固い何かを手のひらで押しつつ、重たい瞼を持ち上げた。
睫毛にまとわりついた水滴と、そこに更なる上から雫が顔に降ってきて視界はぼやけっぱなしだ。滲んだそこに、月明かりに照らされた金色の………………。
「!?!?……ん、んん…っ」
頭の中は大混乱。声にならない声。手のひらじゃまったく通じないため拳で彼の胸元をどんどん叩く。焦るあまり力いっぱい叩いたが、痛痒を与えた様子はない。僕の手の方が痛くなったけど、取り敢えず訴えに気付いてもらうことには成功だ。
唇が離れた。喉――というよりは気道に詰まっていたらしい水を吐き出して、僕は大きく咳き込んだ。
何が何だか分からない。
なにがなんだかわからない。
混乱だけが渦巻いてて息苦しくて、止まらない咳に喘ぐ僕の背中を大きな手が気遣わしげにそうっと撫でた。
「…大丈夫か?」
申し訳なさそうな声音がすぐ傍で聞こえて、一瞬、肩が震えてしまう。だいじょうぶじゃない。身体は冷えきっているのに、何故か顔が熱い。静雄さんの方を見ることは出来ず、僕は俯いたまま小さく頷いた。
「…その、お前、呼吸止まってたからよ」
焦った、と。切実な声で紡ぐその語尾は震えていて、思わず顔を上げてしまう。
月明かりが静雄さんの濡れた金髪と、零れ落ちる水滴を照らし出していた。伏し目がちに僕を見下ろす薄い色の瞳が濡れた輝きを宿して琥珀みたいだと思う。
僕といっしょで、全身ずぶ濡れで。それを見ればプールに沈んだところを飛び込んで引き上げ、………………………人工呼吸してくれたというのが分かった。
――必死になってくれたんだろうなあ、と知ればもう、いいかと思える。
痛いし寒いし人工呼吸と分かったって唇と唇がくっついてしまったと考えれば複雑なんだけど、でも、悪気は一切なかったことは信じられるから。
「……目、開かなかったらどうしようかと思った……」
「…だいじょうぶで……っ」
応えようとした声がちゃんと言葉になる前に、僕の顔は静雄さんの胸に埋もれていた。
壊れそうに大きく響く鼓動がどちらのものか分からなかったけれど――。
背中を包み込む腕は加減ができていなくて身体を絞め付けるように痛かったが、力強い腕も髪を擽る安堵の息も、震えてたから。
「…………無事で、よかった………」
囁きを耳元で聴いて、僕はそっと目を閉じた。




――よくもわるくも、この夜を忘れられそうにない。





やるときはやりますよ




「…トムさん。人工呼吸の責任って、どう取ればいいっすか」
「………あのなあ、静雄。人工呼吸で一々責任取ってたら、救急隊員の方々なんかはどれだけ一夫多妻、一妻多夫になると思う」



「…紀田くん。人工呼吸ってキスにカウントされるかな…?」
「………なあ、ヨシヨシ。お前のその熱っぽい顔と鼻声、風邪ひいてるよなあ確実に。その上で今の質問聞けば何があったか想像は容易い。だからこそ敢えて言わせてもらうが――その人工呼吸はライオンに噛まれたとでも思って迷わず忘れろ。俺の心の平穏と池袋の平和のためにも忘れてくれ……」






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