4 痛みに依る情(学パロ) 手のひらに鋭い痛みが走る。 「…あ…っ」 しまった、と思った時には遅かった。切れた傷口から血が滲み、肌の表面へ浮き上がる。 「三好? どうしたの、大丈夫かい?」 向かい側、一緒にサッカーボールを片付け入れた鉄製の籠を持ち上げようとしていたクラスメイトの心配そうな声で、三好は顔を上げた。こくん、と頷いてみせたものの、顔を顰めた彼は籠から手を離すと三好の腕を掴む。 「…結構深く切れてるな」 「ごめん、そこの…出っぱりに引っかけたみたいで…」 三好は滴りそうな血をハンカチで押さえながら、情けない心持ちで眉を下げた。 籠の網部分、針金で編まれたその一部が破れて外側に飛び出しているのに気付かず、持ち上げようとした際に手を擦ったらしい。 「三好が謝ることじゃないよ。ここはいいから、保健室…」 「どうかしたの?」 片付けの進まない二人を不思議に思ったのか、帝人がやって来た。 「あ、委員長。三好がさ、手を切っちゃったんだよ」 「え…大丈夫、三好君!?」 帝人からも心配気に覗き込まれ、三好は慌てて首を振る。以前お弁当を忘れた時にも感じたが、どうにも面倒見のいい人間が揃っているこのクラス。近くにいた者たちもどうした、と様子を窺っていて、ちょっと居たたまれない。 「ほんと、大したことないから…」 「でもさ、血、止まってないじゃないか」 「保健室行った方がいいよ、ちゃんと手当てしないと」 二人がかりでは断然分が悪過ぎる。 「保健委員、まだその辺にいたかな」 「僕が一緒に行くよ」 進んでく話に三好はあわあわと頭を振った。 「一人で大丈夫だから。でも、まだ片付けが…」 「そんなのはこっちでやっておくからいいよ」 「うん。それより、本当に大丈夫?」 それはもう、一生懸命うなづく。足を怪我して歩けないわけじゃないのだし、自分で事情を説明出来ない子供でもない。世話好きなクラスメイトの優しさは嬉しくもさすがにちょっとどうなのかとは思う。池袋に来て以来頭を撫でられることも増えたせいか、何だか年齢まで遡ってる気分だった。 ♂♀ 「…失礼します………あれ?」 保健室のドアを開けて、僕は首を傾げた。先生の姿がない。奥に並んだベッドもカーテンが全て引かれ、そこも無人だった。 考えること数秒。平和島先輩の怪我の手当てで何度か利用したことがあるのを幸い、僕は棚の硝子戸を開けると救急箱を取り出した。 …途中で先生が帰って来れば事情を説明すればいいし、帰って来なければメモを残せば問題ないだろう。 消毒スプレーと傷薬にガーゼ、それから包帯。結構慣れたつもりでいたけれど、自分の傷となれば勝手が違うものだなあと、吹き付けたスプレーで消毒を終えた傷口にガーゼを当てつつ思う。拭き取ってもじわじわと血が滲んでくる、そこ。包帯を手にしたところで、ノックもなくドアが開いた。 先生が戻ったんだろうかと椅子ごと身体を回した僕が見たのは、想像とは違う人の姿。 制服はブレザーのこの学校にあって、どんな理由があるのか学ランで通うただ一人の人。漆黒の髪と、紅がかって見える瞳の上級生――、 「……………折原さん?」 ぽつりと名前を呟いた僕を映して彼は何とも微妙な表情を見せた後、室内に足を踏み入れながらすぐにその秀麗な容貌へ皮肉気な微笑を刻んだ。 「やあ、三好君。君がこんなところにいるなんて、とうとうシズちゃんの暴力でとばっちりでも受けたのかい?」 視線は中途半端に包帯の掛かった僕の手に向けられている。 僕は、それはそれは純粋な疑問でもって首を傾げた。 どうして平和島先輩に傷付けられることがあるだろう? 平和島先輩は理由もなく誰かを傷付けたりはしないのに。 目を瞬く僕に折原さんの纏う空気が温度を下げた。暗紅色の双眸が冷ややかに細められる。 「…君のその盲信的な信頼って何処からきてるのか理解に苦しむなあ。それとも、信じているというよりは愚かしいまでの自信家なのかな。自分だけは傷付けられたりしない、あの化け物にとって大切な存在だってね」 なんで折原さんが唐突に機嫌を損ねているのかも言われた言葉の意味も分からなくて、僕は戸惑いしか浮かばない。何だろう、このやり取り。 「…………平和島先輩と喧嘩するわけでもないのに、怪我まで発展するような接触あるわけないじゃないですか」 ただ普通に話をしていて殴りかかられることはない。 僕が平和島先輩と二人でいる時感じるのは穏やかさと不器用な優しさ、それから…どこか不思議な切なさだったりするのだけど。 折原さんの中ではちょっとすれ違っただけで何処かしらが怪我するイメージなんだろうか。 ……………………。 折原さん的にはそうなのかもしれない。平和島先輩のこと、怒らせるから。 利用しようとしたり嵌めようとしたり殺そうとしたり――おおよそ高校生らしくない行動の結果が招いた現状があるから、そういう発想になってしまうのか。 「…気に入らないな、何その憐れんだような目」 そんなつもりはないです、と言う隙もない。 「…いひゃいれす」 ぐいー、と片頬を引っ張られた。手を払いのけたくても、傷の手当てが途中なせいで生憎塞がっている。 「大体接触がないとかこの口が良く言えたものだ。過度な距離感を許しているから、人間を名乗るのも烏滸がましいあいつが君を自分のもののように言うんだろう? 化け物に過ぎない分際で先輩気取りなんて、全く笑わせる。気色が悪いったらないね」 ……先輩気取りって、でも平和島先輩は僕としてもはっきりそうと認識出来た初めての“先輩”なわけだし。 というか、この人本当にどうしてこんな苛々してるんだろう。 困惑から態度を決めかね、頬を引っ張られていては今いち話しにくいので押し黙ったまま僕は折原さんの目を見つめた。少しぐらい感情が読めないものかと思ったけれど、残念ながらご機嫌斜めとしか分からなかった。 見つめ合うことどれぐらいか、折原さんは僕の頬から指を離すと深々と溜め息を吐き捨てる。何だか散々な態度だと思う。 「……………君ってさあ、警戒心あるくせにどうしようもない性格してるよね。自分じゃ気付いてもいないんだろうけど。それとも鈍感さや無防備さといったところまで計算尽くなのかな。だとしたら、内面がだいぶ捻曲がってるね」 「意味が分からないですけど、折原さんに言われるのは心外です」 さすがに眉間に力が入るのが自分で分かって、ふいっと視線を逸らした。 視界の端で折原さんの指先が狐を象る。 「…?」 「…だからさ、俺に対するその強かさが可愛くないってことだよ」 すとんと感情の落ちた声音で呟いた折原さんが狐の口に当たる指先で僕の額を弾いた。所謂ところのでこぴんは爪の固さをまともに受ければそれなりに痛い。更に頭の上に硬くて小さな何かが置かれた。 「……何ですか?」 折原さんは答えることなく背中を向ける。僕は頭を傾けると、転がり落ちてきたそれを包帯を持った手のひらでどうにか受け止めた。 何も書かれてないラベルが貼ってある、小さなチューブ。 「折原さん」 「効果は保証するよ。変人だけど、腕はちゃんとしてる新羅のお手製だからね」 それじゃあこれは―――傷薬? 「…折原さん!」 咄嗟に僕は追いかけていて、ドアを開けて出て行こうとする彼の学ランの裾を掴んだ。手を離れた包帯がころりと床に転がる。平和島先輩の攻撃を往なす人。普段なら、去るとなれば僕程度では影も踏ませてもらえないほどの身の熟しを持つのに。 しっかり手の中に掴めてしまった布の感触に何とも言えない気持ちになった。 「…何」 振り向かない背中には鉤裂きが出来ていて、さらさらとした黒髪を見上げた後で僕は少し目を伏せると苦笑する。 「手当てが必要なの、折原さんもでしょう?」 関係は、いつも曖昧 授業中の校舎は静かで、体育でグラウンドにいる生徒たちの声が微かに聞こえてくるぐらい。 先に自分の傷の手当てを済ませた僕は、ものすごく不機嫌そうな顔で頬杖をつく折原さんの怪我を看ていた。左肩の下の方、肩胛骨に近い辺りが浅く切れて血が滲んでいる。 というか…この人に手傷を負わせられるとしたら平和島先輩なんだろうけど、こんな風に怪我らしい怪我って珍しい。さっきから苛々しているし、本気での喧嘩というか攻撃のぶつけ合いをしたんだろうか。 消毒して薬を塗ってガーゼを当てつつ平和島先輩は大丈夫かなと考えたところで、折原さんがぼそりと呟いた。 「…貸しを作れたなんて考えない事だ。俺は何一つ頼んでもいないし君が勝手に、」 「そうですね、僕が勝手にしてることです」 この位置では自分で手当てするの、大変だと思うんだけど。 でも人を自分の思う通りに動かすのは好きでも、人から差し出された手を掴むのは厭う人な気がする。捻れているのはどちらだろうとは思うものの、僕は苦笑を溢すにとどめて傷に障らないよう包帯を巻いていった。 「……君、本当に可愛くないよ」 ――小生意気なばかりの、扱い易い子供であれば良かったのに。 時折おかしな洞察力で気まぐれな優しさを向けてきたり、分かったような言葉と不思議に柔らかい笑顔を浮かべたりする。 傍にいようとは決してしないくせに、手の届く位置にひょっこりと現れ手を伸ばしてみせる。 無神経な無邪気さに苛立つ気持ちも沸き上がるのに、どうしてか突き放して距離を取ることも出来ない。 持つ必要も知る必要もない感情が生じつつある、そんな自分自身が一番厄介だった―― ♂♀ 完全にサボることになってしまったことに多少の罪悪感を覚えながらも外に出た僕は、先輩の姿を探して給水塔の陰へと向かう。怪我をしているかもしれないと考えれば、じっとしてるなんて無理だった。 その日の屋上は風が強いせいで、こちらに背を向けフェンスに寄り掛かる平和島先輩の髪やブレザーの裾が煽られ揺れている。大きく翻った拍子に脇腹辺りの布地が裂け、赤い色が見えたことで一瞬足が止まった。 この予想は、出来れば外れていて欲しかったのに。 「…三好?」 気配を感じてだろうか、振り返った平和島先輩に名前を呼ばれて僕は硬直した足を動かし歩み寄る。 「……怪我、大丈夫ですか?」 「…ああ。何か、お前にはどうしようもないとこばっか見せちまってるな」 苦く笑ってみせる先輩に僕は首を横に振り、静かに大きな手を引いた。そこにも擦り傷があって、胸が痛む。 「手当て、させてください…」 この寒空の下で長いことボタンを外しているのは風邪をひいてしまいそうだ。幸いにも脇腹の傷は深いものではなくて僅かに血が滲んでいるぐらい。大きめの絆創膏で隠れるそれにほっとしたところ、平和島先輩が僕の手首を掴んだ。 手のひらには、包帯。 「…これ、どうした」 低い声音で訊ねる平和島先輩に僕は苦笑を浮かべる。 「体育でちょっと引っかけてしまって…」 「血、止まってねえんだな」 「…手のひらですからね」 動かす場所だけに止まりにくいとは思う、それだけだ。 しかし、平和島先輩は苦しそうに眉を寄せてぽつりと落とすように呟く。 「…俺とは違うんだよな、お前は…」 「場所が悪かっただけですよ。それよりも平和島先輩はこの傷、おりは…」 言葉は、途中で紡ぐことが出来なくなった。 「三好」 胸に抱き寄せられた僕の耳元に平和島先輩の声が響く。距離の近さと頬に感じる直接的な体温に身動ぎも出来ず固まった。 「…お前は、喧嘩沙汰なんて向いてねえし、こうやって怪我したらすぐには治らねえんだよな」 「それは、」 「俺が傍にいれば、いつかお前を傷付けちまうかもしれねえ」 ぐ、と強く抱き寄せる腕に息が詰まる。 「平和島…先輩…」 「けどよ――あいつにも、他の誰が相手でも、お前は絶対渡せねえ」 願いはただひとつ ―――離れることの出来ない柔らかで温かなぬくもりは渡さない、絶対に。 ・ ・ ・ ――…一時間程前の来神高、屋上。 金属と金属がぶつかり合いひしゃげる音は、普通なら身を竦ませる程。 鉄の柵の一部が折れて壊れ、更に下のコンクリートが破砕された光景は凄まじく、とても人の力によるものとは思えない。 直撃を避けても常人なら腰を抜かすだろう攻撃を軽く躱した臨也は、憤怒と殺気を隠しもしない静雄を嗤う。 「ははっ、相変わらず化け物じみた力だ。もう自分が人間なんて言うなよ。シズちゃんは理性なんて欠片もない化け物なんだからさあ、人の振りして先輩ぶって普通の人間である三好君の傍にいるなんて許されないんだよ。あの子がこんな場面に巻き込まれたら、大怪我は確実。下手すれば死んじゃうかもね。化け物の、シズちゃんのせいでさ」 「黙れ! てめえこそ三好の周りうろつくな。あいつを利用して傷付ける前にてめえは殺す!!」 「傷付けるなんてする訳ないだろう? あの子は興味深い観察対象だからね」 「興味だの観察だの、三好は動物じゃねえぞ!」 「ああ、獣はシズちゃんだよねえ。本能と脊髄反射で動く猛獣が先輩気取りとか、気持ち悪い。少しでも使える頭があるならさ、早く三好君の傍から離れなよ」 「うるせえ! てめえに三好は傷付けさせねえ…あいつは、誰にも渡さない」 「傷付けるのは本当に俺がどうか、よく考えてみたらいい。脳髄の替わりに鋼が詰まってそうなその頭じゃ難しいかもしれないけどね。少しの想像力があれば分かることだろう? 俺の意思があの子を傷付けるより、シズちゃんの暴力に巻き込まれて血を流す確率の方が高いってね!」 「…三好は俺の後輩だ。傷付けたりはさせねえ、……それが喩え俺自身の力であってもだ!」 「その我が物顔、本気で切り刻みたくなるよ」 「やってみやがれ。その前にてめえを叩き潰す!!」 殺気が閃光を象ったかのように、金属が光を弾いて交錯した――。 『願いはただひとつ』は悪魔とワルツをさまからお借りしました。 [戻る] |