落つる花びらに口付けを・8
あの日から約二ヶ月の時が経ち、夏に差し掛かるこの季節は少しずつ気温が上がり始める。以前はタンクトップに短パンで先輩に水鉄砲を向けたりしていたけれど、今は違う。
クリーム色のキャミソールに淡いグリーンのスカート、始めはこんな服落ち着かなくて仕方なかったけど慣れてくると動きやすいし、それに嫌な気分でもなかった。
それはたぶん、あの人が誉めてくれるから。
「…早く帰ってきませんかねー」
ベッドの縁に座って両手を脇に着き、足をぶらぶらさせてみる。
この体も今は然程違和感は無い。あまりにも馴染んでいる自分に少し複雑な気分になった。男の人を好きになった時点でなんかこう、乙女的思考はちょっとくらい持ってたのかもしれないけれど。まさか普通に生きてて女になるとは思わないし。あ、全然普通の生き方じゃないですねー暗殺部隊所属って。
あれこれ考えているうちにいつの間にか結構な時間が過ぎていたようで、ふと部屋に響いたノックにはっとして顔を上げた。
「誰ですー?堕王子か変態雷親父ならお帰りくださーい」
「オレだ馬鹿、つーかもし緊急だったらどうする」
「あ、お帰りなさーい」
開いた扉に駆けてとりあえずむぎゅっと抱き付いた。別にいいじゃないですかー最近オフの日が合わないんですよー。
「お前、確かしばらく任務入ってねぇよな」
「はい?まー最近結構忙しかったんでしばらくは休みですけどー」
唐突にそう問われて、もしや新たな任務が入ったのだろうかと首を捻ったがどうやらそうではないらしい。
「なら今日中に荷物纏めとけ」
「へ?なんでですー?」
「明日出掛けるからな」
「泊まりですかー?ていうか、どこに…」
「着けばわかる」
「…はーい」
久しぶりなのに今日は構ってもらえないのか、心の中でこっそりとした落胆は次の日に塗り替えられることとなる。
さあ、ささあ、ざあ。
押しては寄せる波が少しずつ砂を梳り、暗く濡らす。まだ泳げる時期ではないからフランとスクアーロ以外に海辺には誰もいない。
碧く澄んだ海を一望出来る有名な高級ホテルにチェックインを済ませると、フランの希望で真っ先にここへ来た。
緩やかな潮風、白いワンピースの裾が揺れる。
「隊長ー、カニ見つけましたーカニー」
「そうかぁ、鋏まれんなよぉ」
「これ料理出来ますかねー?」
「いや、流石に食えねぇよ…」
久々に来た碧い海、まだ少し冷たい海水が足を濡らして気持ちいい。ぱしゃぱしゃと歩く度に跳ねる水飛沫がワンピースの裾にかかったけれど気にせずにしゃがみこんで、威嚇する蟹の腹をつついた。そういえば人間用の海水浴場に蟹なんているのだろうか。まあいいや。
「カメいませんかねー、意地悪な堕王子にいじめられて引っくり返ってるカメ」
「目の前にいるぜぇ」
「え、どこですかー?」
「お前」
「ミーはカメじゃないですー」
「そうだなぁ、カエルだったな」
「それも違いますからー」
「つーかお前、ずぶ濡れじゃねぇか」
服装を気にせずに海辺にしゃがみこんでいたのだから当然ワンピースは膝から下が水分を吸って色が変わっている。暖かくなってきたとは言ってもこのままでは風邪を引くだろう。
「平気ですよーこれくらい」
「いいから戻るぞ、遊びてぇならまた明日来ればいいだろ」
「ちぇー」
仕方なしに立ち上がって後ろのカニにお別れの挨拶。カニは手を振ってさよならしてくれた(単に威嚇してるだけだろとか聞こえない、聞こえなーい)。
それからホテルの浴室で温かいお湯に浸かって(イタリアではこういった日本風の入浴は珍しい)、髪をタオルで拭きながら部屋に戻ると隊長が見てみろ、とバルコニーの方を指差した。それに従って首を捻ると、目に映った光景に思わずタオルを落としてバルコニーの手摺に駆け寄った。
「すご…綺麗…」
遠く広がる水平線に触れた太陽。淡く優しいオレンジが少しずつ空を変えていく。
夕日色に染まった海が静かに凪いで、太陽を飲み込んでいくにつれ空の端から暗い藍色が夜を連れてくる。
酷く緩慢に見えたその変化は実際はあっという間で、気付けば太陽はもう沈みかけている。
たった数分のその憧憬に見入っていたらふと背中に温もりを感じた。
赤く柔らかい光が、ふっと消えた。
「綺麗だったな」
「…はいー」
全てが終わって尚、水平線から目を離すことが出来ない。瞳に灼き付いた光景が未だ目の前に見えるような気さえする。
ほっと息を吐いて振り返ると、唐突に近付いた唇が口を塞いだ。何が起こったか理解する前に離れたそれにしばらくじっと見つめた後、顔に集まった熱に気付かれないようふいっとそっぽを向いた。
「…いきなりっていうのは、無しだと思うんですよー」
「なんでだぁ?」
「びっくりしますしー……それに…恥ずかしいというか…」
「そういう表情も悪くねぇんだがな」
「うわーSですねーSですよー」
「今のは関係ねぇだろぉ?」
そんな風に叩いていた軽口も、細い体を抱き締める力が少しだけ強まって自然と消えた。
一瞬にして訪れた静寂。
静寂(しじま)を探る波の音に今まで仕舞い込んでいた寂しさが募って、抱き締める腕に自分の腕を回した。
「……なんで…」
「…ん?」
「…なんで…触ってくれないんですか?」
あの出来事から二ヶ月。
最初の頃は混乱してるはばたばたしてるはで気にならなかった。
けどそれも最初だけ、ふと気付いた時には温もりは遠ざかっていて。
それがどうしようもなく寂しくて、それを忘れていた自分が腹立だしくもあった。
「なんで…抱いてくれないんですか?」
元々忙しさもあってそんなに構ってもらっていた方じゃないけれど、長期任務でもなければそれなりにオフが重なることはあったし少なくとも月に一度くらいは一緒に夜を過ごしていた。
たった一月、と誰かは思うかもしれないけれど、耐えられる程大人でもない。
向きを変えて真正面からじっと見上げた。
逸らさなかった視線が合う。
その人は少し迷うような素振りをして、でも目は逸らさずに見返してきた。
「……お前はいいのかよ」
「…はい?」
「今までと違う体に漸く慣れてきた頃なんだろ。怖くねぇのか」
思わず目を見開いて見つめ返してしまった。
まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった。飽きられたとか、面倒に思われたとか、そんなことしか考えていなかった自分が恥ずかしくなる。
前にだって言われたはずなのに。
やっぱりこの人でよかった、と思った自分を裏切るところだった。
「…大丈夫ですよー」
背伸びして相手の首に腕を回すとそれに合わせて屈んでくれた。耳許に唇を寄せ、内緒話のように声を潜める。
「だって隊長じゃないですか」
唇を離して首を傾げてみせたら呆気にとられたような表情。でもすぐにそれは崩れて小さな笑みが溢れて、それにつられて少しだけ笑ってしまった。
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