Main < ターンオーバー > ――――ポチャンッ。 美しい庭園の池で月に照らされた鯉はその尾を翻して水を跳ねる。 ―――――――沈黙に包まれる室内には通常耳にも入らないそんな些細な音が殊更大きく響いていた。 ――――――――冷たい銃口の影をその側頭部に感じながらも、久居要はもう目の前の老人に問いかけることはしなかった。 ただ顔色一つ変えることなく。 ――――静かにそこにあるのだ。 『――――――待っている』 そう言わんばかりの老人は残念ながら海千山千の侮れぬ男だ。 些細な揺さぶりで到底応えるはずがないことを要とて分かっていたのだ。 ―――――それは慌てず騒がずただ待つという選択肢しか残されていないことを示していた。 ―――――カチャ。 細い指に重しを攫われた茶卓が囁かな音を立てた。 ―――――――結果のわかり切ったものにああだこうだと悩むほど無駄な時間はない。 そんな時間があるのなら、もっと有効なことに身を捧げるほうがよほど有意義な時間だろう。 まして、相手を出し抜くための一歩を考えるのは久居要にとって何よりの楽しみなのだ。 ―――――そう。 待っているメインディッシュが何なのか。 ―――――――久居要にとって想像に難くはない。 『――――急がば回れ』 何事も"待つ"ことが必要な局面が世の中には必ずある。 株価の利益も、人の育成も、果ては恋しい相手の気持ちすら、待たなければ良い結果には結びつかない。 急いては事をし損じるとは、まさに"魚を泳がす"ことの重要性を物語る言葉でもあるのだ。 ――――――そして、もっとも重要なのは泳がした魚を引き上げる、その絶妙なタイミング。 その竿を引く機会というものは"作る"か"待つ"か、そのどちらかでしか手に入れることはできない。 急ぐ者に教養のあるものはいないとすら言われる由縁はそこにある。 「―――――――――来たか」 ―――――――だから、茶碗を手にした老人がゆっくりとその口を動かした時、久居要はただ静かに冷笑した。 『空気が動く』 ―――と言えばいいのか。 『闇がざわめく』 ――――と言えばいいのか。 いずれにせよ、要がその場に座ってから仲居以外の誰も触れなかったその障子に人の手がかけられた時。 ――――――ターンが変わった。 チェス・クロックが押されれば。 ――――ゲームの出番は対戦者へと移りゆく。 タンッ!!! ――――――勢い良く両開きされた障子が甲高い音を立てていた。 「――――――――言ったはずだ、爺」 ―――――深いその声が唸るように地を這えば。 やがて潜入した黒い闇が室内を一瞬に染め変える。 「―――――――二度はないとな」 ―――――ひんやりとした外気が急速に流れ込んだ室内は、舞台のスポットライトが一瞬にして乱入者に移ったことを暗示していた。 その背に暗い闇を背負って。 ――――――"夜"はそこに立っていた。 「――――――あんたもだ。俺は馬鹿な真似をするなっと言ったはずだ」 まるでひんやりと入りん込んだ冷気のように冷めきったその声は、しかし、ちらりとその怒気が見え隠れするのを隠しはしない。 ――――――ドサッ。 畳に投げ出され苦痛に顔を歪める男は要が座敷に入る前、物々しく料亭の裏口を固めていた男のうちの一人だった。 ――――ゆっくりと視線をあげた要は静かなる怒りに出会うと冷笑した。 そして、弧を描く唇は怜悧な声を紡ぎ出すのだ。 「―――――――遅かったな。そう決まり文句を言うべきか。速かったな。そう頭を撫でるべきか。さて、どちらだろうな」 ―――――――頭部に銃口を突き付けられたまま、久居要はただうすら笑っていた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |