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< 狸と熊1 >
―――――優しさと穏やかさの印象が目立つ熊という生き物を誤解している者は多い。
一見、雑食という響きは確かに肉食という身の毛の弥立つ言葉の恐怖から開放する呪文に思えるのだ。
しかし、熊、とりわけ樋熊という生物は一度口にした獲物の味を死ぬまで忘れず、捕獲した獲物にひどく執着するという。
――――――その力は虎をも食い殺す。
そして、一度捕獲した獲物が奪われれば邪魔者に容赦はなく、何キロにも渡って邪魔者を執拗に追いかけるのだ。
「――――そう怒るな」
―――――諭すようなその声は柔らかく誰もいない廊下に拡散して消えていった。
しかし、確かに耳に届いたはずのその言の葉を贈られた相手は無言で廊下を後にするのだ。
コツン。
コツン。
響く足音に瞳を閉じて笑った紙屋宗助は、そっと瞼を開けて小さくため息を吐いた。
――――しばらく使用されていなかった生徒会室を王子様と呼ばれる生徒副会長はその容姿に似合わない乱雑さで開け放った。
機嫌の悪さの原因は、本日行なわれた査問委員会の出来事に相違ない。
宗助の恋人にとって神崎卓という生徒会会計は一種ライバルであり、戦友であり、仲間であり、敵なのだ。
素を曝け出すことが苦手な人物だからこそ、良くも悪くも素を曝け出さざる得ない相手をどの位置に置くべきかを迷っているのだろう。
「―――――真彦」
声をかけた途端、強張った肩は、しかし、虚勢を失うことなく暗がりに溶け込んでいく。
後を追うように足を踏み入れたそこは冷気が漂って肌寒く、廊下から差し込む光以外に灯りはなかった。
「・・・・君はいつもそうだな」
―――――暗がりにぽつんと漏れた声音は。
瓶から零れてしまった水のように。
押し込められた何かを晒し出す。
―――――普段は怜悧な声を響かせて、理知的な印象の強いその人物から溢れてしまったその心の声は宗助だけに向けられるそれなのだ。
暗がりの中、浮かぶ白いしなやかなその背中は燐とした清廉さよりも密やかに揺れる幽玄の儚さを連想させた。
だが、その事実をこの学園の誰もが知る機会はない。
――――――男、紙屋宗助を除いて知る必要はないのだ。
「――――なんだかんだ神崎を一番甘やかすのはいつも君だ」
まるで責めるようなその物言いが説いているのは友人としての責任か、生徒会役員の責務か。
しかし、いずれの答えも宗助の欲しいものではなかった。
―――――すっと目を細めた先で揺れる背中だけが『大人』と評される紙屋宗助の醜い人間らしさを引き出してゆく。
だからこそ、容赦ない言葉で大切なその背を傷つけてしまいたいという衝動すら沸き起こるのだ。
「――――おまえに妬いてほしいからな」
卑怯な愛が。
甘く。
――――闇に溶け出した。
ゆるり。
ゆるり。
――――甘い罠のように。
その背を包む。
「・・・・・結局、私にとっては神崎や真田よりも君が一番狡猾だ」
―――――沈黙の後に零れた小さなため息はそれを承知の上だと告げていた。
穏やかで大人なその笑いに隠された本当の紙屋宗助を知る者はこの学園にそう多くはないが、一番よく知る人物は紛れもなく目の前の男だった。
「――――そうだな」
むろん、宗助に食えない悪友を甘やかしているつもりなどない。
ただ大人の仮面の下にある歪んだ心が隣に立つ悪友のそれに酷似しているだけだ。
『―――――何、センセ。俺と遊びだいの?』
愛する者を振り回してこそ。
――――得られるその歪んだ愛は。
傍観者という立ち位置から動かない。
不動の男の卑怯な愛に。
『―――――おまえが俺のために一生懸命になっているのを見るのは楽しかったよ』
――――よく似ていた。
だからこそ、紙屋宗助にとってはホストような出で立ちのタチの悪い悪友はより身近な友人なのだ。
「―――――大人は狡いものだろ?」
―――――穏やかなバリトンが二人だけの室内に木霊する。
その穏やかさと。
優しさに。
卑劣さを隠して―――。
――――――パチン。
返答のない沈黙に苦笑した宗助の指先が照明ボタンを押せば、暗がりに浮かんでいた幽玄の月がまばゆい光に包まれた。
現れた白いシャツの背中にただ狡い大人はその名を呼ぶ。
「―――――真彦」
―――――囁くようなその甘さは捕らえた唯一の獲物だけに贈られるそれだった。
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