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―――――成人式という大人への儀式を終えていつしか若者は学校という名の小さな巣から世界と言う名の大きな社会に飛び出していく。











『初めまして。小林政則です。宜しくお願い致します』










―――――――その日、都心の中枢を流れる決して綺麗ではないその川の川沿いには桃色に花を咲かせた桜の木が美しく列をなして優しい春風の誘いに花弁を楽しそうに揺らしていた。


ちらり、ちらりと風にのって落ちたその桃色の花弁が冬越えを終えたコンクリートに優しい春を齎しては朝の出勤に道を急ぐ人々の足元を華やかに彩った。






地下鉄のホームも電車内も早朝の初出勤を狙って見るからにリクルートスーツを着こんだ新社会人がデザインよりも好感を重視したその身だしなみで、そわそわと明るい人生の門出に顔を輝かしては電車の発車を今か今かと待っている。


無論、車内でようやく一人分のスペースを確保した小林政則もその例外ではなかった。


時折、車内の窓に映る自分の影にネクタイの結び目を直しては真新しい希望に胸を躍らせて緊張に喉を鳴らす。










『3番線より○○線○○行きの電車がまもなく発車致します。御乗車のお客様は・・・』










――――――つり革広告も、変わらぬ満員電車も、ホームの発車音すら昨日までと何も変わってはいない。





変わったとすれば早朝の電車に乗るための早起きをした正則の方だった。


短く刈られた髪と磨かれた革靴、慣れないスーツの着心地の悪さにはさらに『新社会人』を意識して、当然来るであろう自己紹介と挨拶を思えばまだ目覚めぬ脳も動かさざるを得ない。


慣れない名刺交換の仕方は緊張とともにあっさりと忘れ去ってしまいそうだった。












『―――――電車が発車します。御注意ください』










いつも見る世界が全く違うのだとそう思えたその日を。









―――――小林政則は決して忘れはしないだろう。












■□■













―――――その街に夕方からオープンする喫茶店が出来てから早3カ月。







飲食店の成功は『まず3年』と言うのが主流だが、たいして商売気のない男の営業ともなれば3年持つかどうかも怪しいところだった。


しかし、幸運なことに夜の街に近いだけあって、夜の住人たちには多少の重要はあったようだ。


店への出勤前に訪れる者、営業中に休みに来る従業員、営業後に愚痴をこぼしに来る者、中には始発を待つためにやってくる者もいる。


ぼちぼちの客入りがあることはいいことだが、問題は最近『喫茶店』だけでは済まないことにある。









「―――――マスター、私今日はミートソース食べたいわ」






派手目の衣装に身を包んだ数人の若い女たちは鏡を手に化粧直しに余念がなかった。


奥のテーブル席をいつも通りに陣取ると本日の仕事のためにと自分磨きに力を尽くすのだ。


手に持ったグロスを綺麗に唇に塗り直して声を挙げたのは、いかにも20代後半のこの店の常連の女だった。









「・・・・うちは喫茶店だ」








正則は女たちへ差し出すコーヒーアップにコーヒーを注ぎ込みながら、穏やかに小さな苦笑を返す。









「あら?あの男だけの特別なんてずるいじゃない」








―――――そう言われてしまえば返す言葉もない。



調理師免許のないこの店のマスターは料理を作るためにこの店にいるのではないが、偶々『特別な客』に差し出した軽食の差しいれを彼女に見つかってしまったのが運の尽きだった。










「マスター、ミートソース。見えないように食べるから。ね?」








その日から小林正則が世話する野良猫が一匹増えてしまったのは確かだ。



小さな溜息を零す正則に女は無邪気な笑いを見せる。









「・・・・奥の控え室で食べて行ってくれよ」







―――――嬉しそうに笑った女の長い髪は今は綺麗に頭に盛りつけられているが、初めてその女が現れた日、酒の匂いとともにその髪は乱れていた。














『・・・・・どうしてっ、あの人だけ・・・』





店の店員と恋仲になったことバレて恋人は遠い地方に左遷されたのだと寒い冬空の中、呼び鈴を鳴らした女はただ泣いていた。




それはちょうど一カ月前の話だ。











「―――――もうすぐか・・・」








――――店に飾られた古めかしい時計ではなく、年に似合わぬ安物の腕時計を見つめた正則は小さく呟いた。



夕方のこの時間、もう一匹の野良猫が餌を食べにくるその時刻だった。











■□■












「・・・・・また来てたってわけ?」









――――――コポコポコポ。




濃い琥珀色の液体が黒いタンブラーの中に吸い込まれていけば、途端にカウンター付近にはコーヒーの良い香りが漂った。








――――高級スーツのポケットに手を突っ込みいかにも寒いと言わんばかりに肩を寄せ、店に現れた若い男は店内の奥に空の皿を見つけると真っ先に眉を寄せた。


普段女たちをその口で誘導する、言わば夜の羊飼いの牧羊犬もプライベートでは羊と関わり合いたくはないのか。


それとも、この店に夜の住人たちが増えるのをあまり良く思っていないのか、店内の客に眉を寄せるのは珍しいことではなかった。


特に先ほどまで控室で正則の手料理を食べていた女と目の前の若者は会うたび会うたび嫌な空気を作り出すため、正則の頭痛の種でもあったのだ。








「――――今夜はミートソースだ。まだ朝食を食べていないなら」




質問に答えずタンブラーの蓋を締める正則に小さな舌打ちが返される。











「――――――ちっ、ホントおっさん、お人よし」








――――その言葉が男から漏れるのはいつものことだった。










仕事の合間の食事に、もう一人分の食事を追加したのはいつからだったか。


二日に一度だった訪れが、やや毎日に近かづいたのもちょうど同じ頃だっただろう。











『―――――保険金、振り込まれたんだ。はっ、結構な額だぜ。・・・けど、特定の女もいねぇし金に困ってもいねぇしな。親孝行するにも、その肝心の親が死んで出来た金だからな・・・』







―――――営業時間も過ぎて客の居なかったその日の朝、2人だけで迎えた朝日に男がぽつりぽつりと語ったその言葉は懺悔だったのか、後悔だったのか。


いずれにしろ、正則の人生の転機を掬ってくれた若者はカッコつけたその外見の中に優しさの根を隠している。


そして、迷いか諦めか、そのうつろにも見える静かな眼差しを大切にしたいと思えるからこそ、正則はこうして名前のない関係を続けているのかもしれない。












「―――――食った。行くわ」







――――――黒いタンブラーを手にして去っていくその背が『御馳走様』を言えなくなったのは野良ネコとの距離がずっと近づいたその証なのだろう。











「―――――今夜は降るらしい。気をつけた方がいいぞ」








無言で手を挙げた男の背にまるで母のように忠告してしまうようになったのも正則の心もずっと猫に近づいたその証なのかもしれない。












■□■












「・・・・・・降ってきたか」









―――――白い粉雪が通りに落ちていく。







店内に響く密やかなジャズを耳に、窓の外の光景に気づいた正則はグラス拭きの手を止めて、客のいないカウンターに出ると通りに面した窓へと近づいた。


突然揺りだした雪に通りは水気に濡れて、道を行く人々は傘を差して帰り途を急いでいる。


この様子では街を通る電車も今夜は荒れるだろう。










「―――――この分じゃ、客足は遠のくな」





自分の店ではないところに思考が行くのは言うべき感謝の言葉の相手を見つけてからのことだ。


名前のない関係に名を付けたいとは思っていないが、ただ湧きでる大切だという思いが正則を困らせる。









「―――――今夜は客引きじゃなければいいが・・・」








―――――名前のないその思いは大切なものを持たない小林正則にとって唯一、大切なそれだった。










カラン。








雪の降り注ぐ空はどんより暗く、通りを過ぎる風は凍えるほどに冷たい。


入り口のドアを開け、通りに白い息を吐き出した正則は夜空を見上げた。











『―――――電車が発車します。御注意ください』








桜の花びらが舞うその日に感じた真新しい世界への希望は誰もが心に一度は描く夢への輝きだ。


しかし、数年が過ぎ、数十年過ぎ、階段の途中で立ち止まったその時、不意に人は気づく。









―――――自分が大切にしたきたものは何だったのか。






目指した夢は冷たい現実を知ってあっさりと掻き消え、そして、束の間の希望は狭い視野が見せた幻だと気づいたその時、岐路を振り返って、人は先をどう進むべきかを迷うのだ。










『――――――店長にならないかって、な。店長なんてただの雑用みたいなもんだ。そのくせ、売上の責任だけはきっちり取らされるからな。・・・だが、断る理由も見つからねぇ』







―――――冷たいその雪が都心の片隅に蹲る野良猫たちにどうか降り注がぬように。




曇った夜空を見上げ、小林正則は冷えた指先に暖かいその息を吹きかけていた。






End.

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