Main < 忌わしい血 > しとしと。 しとしと。 ―――――夜の帳に包まれて柔らかな霧雨に覆われた冷たい夜の都会は、いつもの喧騒を押し去ってただ物言わず静かにそこにあった。 瞬くネオンの光が霧雨に濡れて揺れては道を行き交う人々の足元をぼんやりと照らし出す。 ――――雨水を弾くタイヤの音と時折聞こえる甲高い信号機の音、そして雨の作り出す密室で囁き合う人々の声が夜の街に落ちていた。 ざわ。 ざわ。 ――――白い霧雨に隠されたその『ざわめき』は一体誰の心を表すのか。 ぼんやりと黒い雨雲に浮かぶおぼろ月が不気味な静けさをともなって妖しいほど美しく大きな都会を見降ろしていた。 ―――――キィッッ。 雨の滴を弾き、美しく輝くそのホイールが動きを止めた。 建物から突き出るような大きな屋根に守られたロータリーに一台の外車が横付けされたのだ。 美しいフォルムを惜しみなく晒す銀色の高級車にホテルのドアマンが目聡く歩き出すが、やがて降りてきた運転手にその足を静かに止めた。 運転手の瞳に宿る明瞭な警戒心がドアマンの挙動に断りを告げていたのだ。 ―――――――パタン。 儀礼的でいてどこか流れるような動きで開けられた後部座席のドアからは長い足を踏み出し1人の男が降り立った。 一見して硬質な冷たさを感じるその怜悧な美貌の男は、この建物を訪問する客としてはまだ年若く、しかし、確かな育ちの良さを窺わせる優雅な足取りで静かに頭を下げるドアマンの横を通り過ぎて行く。 鈍い機械音をともに磨かれた大きなガラスドアがその口を開ければ、内装の豪華さに臆することも慌てることもなく時の訪問者はそのホテルに吸い込まれていった。 ―――――足音すら立たぬ毛の長い絨毯は惜しみなく訪れた客人の足をもてなして、雨の滴に濡れることも厭わぬサービスが業界においてのこのホテルの地位を語らせる。 洗練されて都会的というよりは重厚で年代を感じさせるそのホテルは存在そのものが日本の歴史であるとまで言われていた。 懐の豊かな資本主義の勝ち組や海外からの重役で満たされることの多いこのホテルは誰もが一度は名を聞いたことのあるその存在だが、ランチひとつとっても一般人が手を伸ばすのは難しいのだ。 「―――――ご無沙汰しております」 ――――――だが、残念ながらいくら歴史あるホテルであろうと個人の趣味は千差万別だ。 いかにも重々しいと言わんばかりのその雰囲気は生憎久居要の好むものではない。 無駄な重厚さは陰気さすら醸し、歴史を持って当然とするその姿は傲慢とすればまるで誰かのようではないか。 「――――――何を企んでいる」 ――――ホテル同様、年を感じさせる深いその声は、しかし、鋭いその刃を失ってはいないのだと主張する。 一室に漂う沈黙を切り裂いて隠すこともなく晒されたその鋭さが久居要を静かに冷笑させた。 ――――――ビジネスマンの貴重な時間をたった一言で奪った男は久しく会っていなかった息子を見ても挨拶のひとつもよこさない。 もっとも形式的な挨拶に時間を費やしてたところで長年氷山のように横たわる男との溝がそう簡単に埋まるはずもなかった。 『父親』 ―――――その言葉に一体どれほどの価値があるのか。 久居要に言わせれば、無駄に感情を逆撫し、忌々しさに思わず失笑する、ただそれだけの代物だった。 「―――――――何をおっしゃっておられるのか見当をつきかねますが?」 冷たい双眸の先で歪んだ皺を刻む男が鋭く目を光らせていた。 ――――不快そうに鼻を鳴らしたその男にとっても息子との会話は時間の無駄でしかないのだろう。 この後重要な商談でもあるのか緩慢な仕草で腕時計を見やった男はただ短いその命令だけを口にした。 「―――――――しばらく家に戻れ」 ――――――その忌まわしい声が一方的な言葉を告げても久居要の心には何の感慨も浮かばない。 ただ眉ひとつ動かすことなく静かに返すだけなのだ。 「―――――――御冗談を」 ――――澄んだその声がホテルの一室に波紋のように広がっていった。 「―――――自ら海外に送るほどお嫌な息子を家に引き戻すとは」 ソファに投げ出された長い足をゆっくりと組み直し、要はすっと絨毯に目を細めた。 ―――――そこには染み一つない。 形の良い唇が薄ら口角をあげれば、やがて冷たいの瞳が硬質な光を宿して目の前の男に向けられる。 「―――――今更、愛の言葉でも囁いて頂けるのか。それともやはり不穏分子は監視下に置きたいというのが久居家当主のご意向か」 ―――――闇の生神と言の葉を交わしてから数日。 どこから久居要と夜の支配者との接点を嗅ぎつけたのか。 まるで血の匂いに誘われたハイエナのように昼の領主たちはおもしろいほどに群がった。 『夜』との接点がそれほどに欲しいのか。 それとも己が足元を揺るがせる脅威の芽は今のうちに摘んでおかなければ安眠できないのか。 ―――――いずれにしろ。 『接待』『会食』『挨拶回り』 体の良い名のもとにたった一人の男のその動向に昼の領主たちは今や釘づけだと言えよう。 その目に浮かぶのものは一様に皆同じ。 恐れ。 怯え。 そして。 ――――不信だ。 「――――――相変わらず久居家の次男は皮肉しか言えないと見える」 息子の歯に衣を着せぬ物言いに戸籍上の『父親』は不快を露わに目を細め、話は終わりだとばかりにその場に立ちあがった。 キィィ―――。 静かにドアの前で状況を見守っていた男の部下が主の動きに入口のドアを開ける。 開いたドアに誘導されるように踵を返した男は部屋に残す息子に一瞥することなく歩き出した。 ―――――その足に躊躇はないのだ。 「―――――血筋でしょう」 しかし、その背を静かな声が追いかければ傲慢な足もピタリとその動きを止めた。 ―――じっとりと重い不穏な沈黙が広いその室内を覆っていた。 「―――――――ますますあの女に似てきおる」 ――――吐き出すようなその言葉が根深い侮蔑と嫌悪を語り、空気を震わせた声の鋭さが久居要にその怒りを伝える。 「・・・大御所と繋ぎを取ったとて調子に乗るな。この儂がゆかりとの一件に気づいていないとでも思うているのか」 ――――ゆっくりと振り返った男の目が強い光を帯びて息子を射るように見つめていた。 しかし、横っ面に否応なく叩きつけられる視線に要が応えることはない。 ただ冷たいその双眸は確かに今しがたまで男が座っていたその場所に向けられているのだ。 ―――――まるでそこに影を見るように。 「―――――近いうちに本家に戻れ。これは命令だ」 やがて別れの挨拶もないまま男はただ傲慢なだけの言葉を残し部下とともに姿を消した。 ―――――――パタン。 空虚なその音に。 ―――――久居要が嘲笑したことも知らず。 「――――血は争えぬ。しかしてその血の価値はいかほどか・・・」 冷たいその声が静かな部屋に零れ落ちれば、間接照明の橙色の明かりが薄らと口角をあげた怜悧な美貌を浮かびあがらせる。 一人の人間の手が綺麗であるということは他の誰かの手が汚れたということなのだ。 ――――――久居要の靴の下に広がる染み一つない絨毯が誰かの手によって洗浄されたように。 世の中は表裏一体。誰かが勝てば誰かが負ける。世の中とはそういうものだ。 そして、投げられたコインはいずれかを選ぶ。 ―――――表か裏か。 「―――――精々楽しませもらおうか」 ――――ミドルゲームは既に始まっている。 ザ――――――――。 霧雨はいつの間にか柔らかな滴を大粒の凶器に変え、今や大都会に降り注ぐ大雨となって部屋のガラス窓を叩きつけるように打っていた。 ------------ ミドルゲーム:中盤戦 [*前へ][次へ#] [戻る] |